4. 逃げて逃げて逃げまくれ!
岩竜 エザフォネス
それは太古から都市ニベル南東に位置する森を守護していたとされるドラゴン。ある時代には神として崇められ、ある時代には人類の敵となる邪悪として恐れられた。
しかし、近年の調査によるとその生態は大人しく、余程の事をしない限り襲ってくる事はないとされている。
「それが何で襲ってくるんだよおおおおッ!!」
「わ、分かりませんよおおおおお!!」
本日二度目。今回はエルフ族のエルナさんと一緒に脇目も振らない魂の全力疾走。
逃げる逃げる逃げる逃げる逃げる逃げる、逃げるッ!
”ダメだ、逃げられない”
「このまま逃げても、追いつかれてしまいます!」
「んなこと言ったって、アレと戦うのは無理だろ!」
「ですが……、————ッ!!」
エルナの言葉を遮るように、俺達の間をバスケットボールほどの大きさの何かが過ぎ去った。
次の瞬間、はるか前方から規格外の爆発と共に熱を帯びた衝撃波が俺達を襲った。
「やばいやばいやばいやばい! あんなの掠っただけで即あの世行きだろ!」
「スグル、短い期間でしたがあなたと過ごした時間は思ったよりも楽しかったです」
「お前が諦めたら終わりだって、B級冒険者さん!」
「来世でまた会えると良いですね!」
「諦めんなよおおおおッ!」
なんて、某元テニスプレイヤーが何万回も言ってそうな熱い台詞を吐いている間にも、エザフォネスの足音は大きくなっていく。
「とにかく、今は冗談言ってる場合じゃねえぞ」
「そうですね、何か策を考えなければ」
そうだ、今の俺達に必要なのはコペルニクス的転回を更に転回させるくらいエキセントリックな打開策。
なんて……
「俺に思いつく訳がないだろ」
「スグル、思考を放棄しないでください」
「思考した結果がこれだ。じゃあ、そういうエレナは何かあるのかよ」
「むっ……、何も思い付かなかった人には負けたくないですね。じゃあこれなんてどうです?」
エレナはそう言うと、軽やかに身を翻しながら魔法と思わしき白くて冷ややかな何かをビームのように、直線的にに放った。そしてそれが、エザフォネスの足元に直撃すると、その周辺の地面が凍りついた。
「すげぇ、これが魔法かぁ」
「感心するにはまだ早いですよ」
エレナの含みある言葉の意味はすぐに明らかとなった。
俺の視界の端でエザフォネスは足を滑らせ、その場で大胆に頭から崩れ落ちていった。
「思った通りです。足元さえ不安定になってしまえば追跡は不可能でしょう。それも、ここは地下洞窟。飛ぶにも高さが足りません」
俺はエレナに対してバカっぽくも、素直にすげぇと思った。
言っちゃ悪いが、魔法を使うまでのエルナは、見た目にそぐわない、ゴブリンの頭を握りつぶしてしまうくらいのパワー型脳筋エルフだと思っていた。
ただ実際は、あのドラゴンを足止めできるほどの魔法も使える二刀流エルフであった。
B級冒険者と誇らしげに言うだけはある。
なんてこの時の俺は、エルナを勝手に脳内で評価してしまうくらい完全に油断し切っていた。
もう、逃げ切りを確信していた。
ただ、エザフォネスはそんな俺の予想を遥かに上回ってきた。
俺達はみくびっていた。
岩竜 エザフォネスを。
「待て、なんか変だぞ」
視界の端に映った、モクモクと上がる煙。
それが何だか妙で仕方がない。
「あの煙ですか? きっと凍りついた大地の冷気だと思われますが」
「そ、そうだよな……」
そう思いたかった。そうであって欲しかった。
しかし、俺の直感はいつも悪い時だけ当たるのだ。
「それよりも、走っているせいかさっきよりも暑くないですか。私もう汗でベタベタです」
「言われてみれば……暑いな」
「そう思いますよね……あ!」
「な、何だ!?」
「私の体見ないでくださいよ、恥ずかしいですから」
「何だそんな……、俺は別に何も——」
エレナの体を見て俺は言葉に詰まった。
それは、滴る汗で体が妙に色っぽいという煩悩によるものではなく(少しはある)、その噴き出ている汗の量だ。
エレナの体から出ている汗の量は、ちょっと走った程度で出るであろう量を明らかに超えていた。まるで、軽く水浴びした後くらい全身が汗だくだった。
……これは走ったから暑いんじゃない。ただ単純に、この空間がサウナのような暑さをしているんだ。
という事は、まさか——!!
俺は視線をエザフォネスの足元向ける。
案の定、足元の氷は殆ど溶けていた。
俺は頬につたう汗を腕で拭う。
「エルナ、汗をかいてるのは走ってるからじゃない。エザフォネスが熱を発しているせいでこの空間の温度が上がってるからだ」
「じゃあ、スグルが違和感を覚えていたあの煙は……」
そう。俺が妙に感じていたエザフォネスを包むあの煙は冷気なんかじゃなかった。むしろその逆。
あれはエザファネスが全身から熱を放出することにより氷が昇華し発生した水蒸気だったのだ。
「不味いぞ、氷が無効化される以上さっきみたいな足止めができない」
「どちらにせよもう一度アレを打つのは私の魔力残量からしても難しいですがね」
問題はそれだけではない。
エザフォネスが再び機動力を取り戻したのに対して、俺達はこの暑さによってスタミナを大幅に削られる。
俺達はエザフォネスとは逆に、機動力を失ったのだ。
そしてここでもう一つ、悪いニュース。
「な、なんか、さっきより動きが速くないですか?」
どういう原理かは分からないが、先程までと比較すると明らかにエザフォネスのスピードが上がっている。
水蒸気を纏い、こちらに向かって突進してくるその姿は蒸気機関車さながらである。
なんて、例えてる場合じゃねぇ!
さっき、エルナが氷魔法で稼いだアドバンテージは溶けるように無くなっていった。
そして次の瞬間、後ろを振り返った俺の視界がとらえたのは、額面通り目と鼻の先にいるエザフォネスの姿だった。
——エザフォネスの巨体が地面に激突したであろう、轟音が瞬く間に洞窟内に広がる。
砕け散ったゴツゴツとした岩たちが、小石となって地面に降り注いだ。
「大丈夫ですか、スグル」
「あぁ、何とか」
俺とエレナは、寸前にエザフォネスの足元に滑り込んだ事で、奇跡的に衝突の被害を免れていた。
まさに僥倖。
だが、状況は決して芳しくない。
もしかすると、あそこで死んでいた方が余計に苦しまなかったのかもしれない。
俺達の行先には、鼻息を荒くしたエザフォネスが立ちはだかっていた。
「スグル、どうやら戦うしかないようです」
「エルナ、短い間だったけどありがとうな」
「今度はあなたが諦めてどうするんです」
思わず俺は苦笑する。
「最後に、信じてもらえないと思うけど言っておきたい事がある」
「なんです?」
「——実は俺、こことは違う世界から来たんだ」
そんな俺の人生最初で最後の大カミングアウト。
それをエレナは笑いもせず、驚きもせず、ただ穏やかに微笑みながら、ゆっくりと口を開いた。
「スグル、私からもひとつ、良いですか?」
「何だ」
"それ、早く言えよおおおおおッ!"