2. 異世界って本気で言ってる?
これは一体どういう事だ。さっきまで腰掛けていた岩が突如巨大な、化け物に変わってしまった。
いや、変わってしまったというか、元からそうだったのだろう。全身を岩のようなゴツゴツとした鱗で覆い、ルビーのような紅く煌めいた眼を宿しているその様相は、現実世界に存在する生き物とは到底思えない。
ファンタジーゲームやアニメでよく見るドラゴンと言って差し支えないであろう。
ここは、地球ですらないのか? じゃあ、俺は何でこんな——
混乱する暇も与えてくれない。化け物は鋭く尖った牙で噛みつこうと俺目掛けて首を伸ばした。俺はそれをギリギリで反射的に後ろ跳びでかわした。
その時、俺は『死』の恐怖を知った。全身の震えが止まらなく、その場で立っているのがやっと。呼吸も荒く、体の中で何かドロッとした胃にへばりついているような強烈な不快感が全身を支配している。
ど、どうすれば……
そんな事、考えるまでもない。
俺は化け物に向いていたつま先を180度回転させる。そして……
「うわああああああああッ!」
情けない声と顔中の汁を周囲に撒き散らしながら、全速力でその場から走り出した。無我夢中。手を強く握り締め、それを前後に激しく揺らす。
怖くて後ろは振り返れない。しかし、背後からは確かに化け物が追いかけてきているであろう、轟音と地響きがする。
このまま逃げてもいずれ追い付かれ、食われる。そんな事は分かっている。けれど、それを回避する為の策なんて、俺の頭では到底出てこない。今の俺にできる事はせいぜい、数秒長く生きる事のみだ。
”あっ”
けれど、どうやらそれすら叶わないようだ。俺は、必死に走るがあまり、俺は獣道まで侵食している木の根に気が付かす、盛大に足を引っ掛けてしまった。
無情にも放り出された体。それは宙で一回転し、その間に額面通り、化け物が目と鼻の先まで迫ってきているのを観測した。ああ、ここまでか。俺はゆっくりと、まぶたを閉じる。
俺の意識はここで途切れた。
〜〜〜〜
「あれ、ここは……?」
水の滴る音が反響する、薄暗くゴツゴツとした地面が広がる空間で俺は目を覚ました。
デジャブ。少し前にもこんな出来事に陥ったような気がする。俺はフワフワとした頭で懸命に考える。すると、ぼんやりだがここに至るまでの記憶が呼び起こされる。
胃がキュッとなった。こんな事なら思い出さなければ良かった。
俺は震える自分自身の右腕を左手で強く握った。
「あ、起きましたか!」
突然視界の外から、俺を心配する誰かがやってきた。ただ、その姿は薄暗さもあり、顔はよく見えない。分かるのは、全体のボディーラインのみ。
「物凄い音がしたので駆けつけてみたら、あなたが倒れていたからびっくりしましたよ」
体はキュッと締まっており、胸はわずかに膨らんでいる。
普段の俺ならこの時点でテンション爆上げなのだが、そうはならなかった。
俺の目線は彼女のボディーラインではなく、耳に釘付けだった。何故ならそれは、薄暗い空間でもハッキリ分かるほどに、先が尖っていた。
その特徴に該当する生き物、いや、亜人を俺は知っている。
「エ、エルフ……!?」
「あれ、会うのは初めてですか?」
暗闇に慣れてきた俺の瞳には、ニコッと笑ったエルフが映っていた。
髪は透き通るようなブロンドヘアで、動きやすそうな戦装束を身につけている。
「会うというか、会えるものなのか?」
「んー、千年生きてれば数回は」
「エルフ換算やめてね」
「ノリの良い方ですね。まあ、真面目に答えると街で生活してれば普通に見るはずですけど」
「普通に見る?」
俺は状況を理解し始める。
「ここって、どこだ?」
「地下洞窟ですけど」
「どこの?」
「王都ニベル南東に位置する森のです」
「ここから東京都文京区———(個人情報により省略)に帰るには?」
「トウキョウト? ブンキョウク?」
エルフは首を傾げて、俺の言葉を復唱する。
「すみませんが、存じ上げない地名ですので分かりません」
あ、終わった。
俺の口から何かがシューッと抜けていく。
「だ、大丈夫ですか!」
「大丈夫、大丈夫。何なら、今までの人生で一番、清々しいくらい」
「白目剥いて、泡吹いてますけどね……」
「全然大丈夫っだって、ほら、天使が頭上に浮かんでるよ」
「いや、逝きかけてるじゃないですか! 帰ってきてください!」
「へぶっ!」
鈍い衝撃音。
あれ、俺は何を? というか、何か凄いほっぺた痛いんだけど。
俺は強く握られた彼女の拳を見て理解した。
「何か、色々悪かった」
「いえいえ」
彼女は握り拳を緩め、元の真面目な様子に戻る。
「で、また質問に戻るんだけど、そのニベルって街にはどうやったら戻れるんだ」
「それでしたら、この洞窟に流れる川の上流に向かって歩けば戻れるはずです」
俺は少し顔をしかめる。確かに視界の端には川があり、それを辿ればひとまずは街に着くというのは分かった。
がしかし、こんなファンタジーな世界の洞窟を俺みたいな一般人が何も持たずに帰れるものなのだろうか。
事実、俺はついさっき化け物に殺されかけたばかりだ。
そんな疑問に満ちた俺の様子を察してか、彼女は柔らかな笑みを浮かべながら口を開いた。
「私も用事が済んだ所なので、一緒に行きますか?」
「いいのか?」
「えぇ、無防備なあなたを見捨てるのは流石に良心が痛みますし」
「女神様……」
「私は女神様じゃなくって、エルフ族のエルナです」
「エルナ様……」
「様呼びはやめてください……」
こうして俺は幸運にも、エルナという心強い同行者を得る事に成功したのであった。