後編
ミールズの東端、浜辺に沿って伸びる通りにルークの家はあった。植民地時代に建てられたと思しい、駒形の切妻屋根を持つ小さな家だった。
「さあ入って。母さんはまだ帰っていないから」
小さな住人は流れ者を中へと招き入れ、椅子を勧めた。部屋の中をぐるりと見回してから男は腰かけた。
「お袋さんはどうしてるんだ?」
ショットガンを机の上に寝かせる。
「働いてる……」
ルークはぶっきらぼうに答えながら、部屋の奥にあるキャビネットの引き出しを開けた。中のものを両手で包み込むように持ち、男の前へと運んできた。母親の話題はそれで打ち切りだった。
「五発しかないけど……」
円筒状の装弾が五本、机の上に整列した。
男は懐から取り出した煙草を咥えると、装弾の一発を手に取り、あらゆる角度からそれを眺めた。雷管以外は手製で、外装には厚紙が、粒弾の蓋には薄紙が使われ、上から鑞で固めてある。耳元で振れば、中の細かな鉛の粒がしゃかしゃかとマラカスのように音を立てた。
流れ者はそれをもとの列に戻してやると、上着のポケットから束になった十ドル紙幣を取り出した。その内の一枚を少年に差し出す。
「いいって言ったじゃないか」
ルークは首を横に振る。男は少年に目を合わせたまま、空いた手で懐からマッチを取り出した。リーヴァイスのデニム地の上を滑らせてその頭に火を灯すと、咥えていた煙草に当てた。
二人の間に紫煙のカーテンが引かれた。
「錆びついたショットガンと手製の粗雑な弾で、親の仇討ちを頼めるとは思わんことだ」
少年の目が揺らいだ。
「でもさっき――」
「やると言ったか?」
言っていない。ルークもそれに気づいた。
「俺は賞金稼ぎだ。殺し屋じゃない」
ルークは無意識の内に下唇を噛んでいた。目尻には悔し涙が溜まり始める。だが、その瞳は机上のショットガン、突き出された十ドル、そして男の髭面へと流れた後、逡巡するかのように、しばらく三者の間を行き来した。
そして、ゆっくりと札束へと手を伸ばした。
その時、不意に家の扉が開かれた。
「ルーク?」
二人の視線が戸口に集中する。ゆったりとした服に身を包み、飴色の髪を後ろで束ねた女がいた。
「母さん……」
ルークは反射的に手を引っ込めていた。
「うちの子をどうするつもり!? まだ十三歳なのよ!」
女はルークへと駆け寄り、庇うように抱き寄せた。背の高い女だった。ルークよりも頭ひとつ分高い――五フィートと八インチはあるだろうか。
「勘違いしないでくれ奥さん。俺が欲しいのはこっちだ」
机に並ぶ装弾とショットガンを顎で示してみせる。
「銃の方は借りだ。どうだ、ルーカ・マリーア?」
女の顔が強張る。驚愕とも怒りとも取れる表情だった。
それに気づかぬまま、ルークは母親の腕の中で頷いた。
流れ者はふっと口角を上げて十ドルを机の上に置く。代わりに装弾を上着のポケットに入れた。
「銛を買えるところはどこだ?」
煙草を口から離し、男は机の隅に置かれていた灰皿を引き寄せ、灰を落とした。
「漁業組合の雑貨屋だよ」
「場所は分かるか?」
うん、と頷くルーク。
男は煙草を咥え直すと、もう一枚十ドル札を出した。
「案内を頼む。ついでにものを運ぶのも手伝ってもらうぞ」
ルークは今度は躊躇いなく手を伸ばした。だが、背後から伸びた女の手がそれを止めた。
「同情のつもり?」
「ビジネスの話だ」
鋭い剣幕で睨めつけてくる女に対して、流れ者は眉ひとつ動かさぬまま答えた。
「安心してくれ、奥さん――」
「マーガレットよ」
男の左手が帽子の鍔を摘んで軽く下げた。
「失礼、マーガレット。俺の目当ては烏賊の賞金だ。その下準備のために助手を雇うこともある。だが、奴と命を取り合うのはあくまで俺一人だ」
ルークは自分の腕を掴む白い手を追って、背後の母を見上げる。マーガレット・ヴァレリの顔には、正体不明のガンマンに対する警戒と不安が浮かんでいた。
「大丈夫だよ、母さん。父さんの仇を討ってくれるんだ。僕だって手伝いくらいはしたいよ」
それでもなお、マーガレットは幾時かの逡巡を要したが、やがて溜息を吐くと共に息子の腕を放した。
ルークの手が男から十ドル札を受け取った。
男は煙草の火を灰皿でもみ消した。そしてショットガンを手に立ち上がり、少年を先導に戸口へと向かった。
「じゃあ奥さん、息子さんをしばらく借りる」
もう一度、帽子の鍔を伏せてみせる。マーガレットは何も言わず、二人を見送った。戸が閉まるや女は椅子に腰を下ろし、机に頬杖を突いた。その瞳が揺れていた。
ルークに案内されて、男はミールズの漁業組合が経営する雑貨店に入った。銛を五本と頑丈な縄を二五ヤード分、そして細紐を一束購入した。
「鯨でも獲るのか?」
銛を紐で束ねながら、店の主人が冗談めかして訊いた。だが、男はそれを無視した。カウンターに肘をかけ、そして出し抜けに言った。
「ダイナマイトもくれ」
店主は眉根を顰めて怪訝な顔を作った。
「悪いな兄さん。漁師以外にゃ売れねえんだ――町の規則でよ――」
言い終わらない内に、その視線が下に降りる。男がカウンターの上で何かをちらつかせていた。
「十本だ」
店主は生唾を飲んだ。一〇〇ドル札だった。
「そうかい兄さん。その格好で漁師とは洒落者だねえ」
謝礼を引ったくるように受け取ってシャツのポケットにねじ込み、店主はそそくさと店の奥へ消えた。
「お金持ちなんだね……」
男と店主のやりとりを傍で見ていたルークが呟く。
「次の賞金を得るための金だ」
視線をルークに合わすことなく、男は答える。
「賞金を得るため?」
「どんな手を使ってでもだ」
「それで、賞金が獲れなかったら?」
「荒野で野垂れ死ぬ」
ルークはそれ以上何も訊かなかった。ダイナマイトの箱を抱えた店主が奥から戻ってくるまで、その目はずっと、髭まみれの横顔を見つめていた。
それから二人は購入したものを分担して持ち、紅らみ出した町を歩いた。
男は肩に銛の束を担ぎ、もう一方の手でダイナマイトの箱に結わえられた縄の持ち手を握っている。箱にはラベルを隠すための白い紙が巻かれていた。片や、ルークは幾重にも輪になった縄をその細い肩にかけ、身体を半ば斜めに傾けていた。
二人の行く道が、メインストリートとそれに沿って延びる市場に交わった。軒を連ねる露店の主人達から発せられる売り文句が二人を左右から包み込む。
市場の露店は一軒々々、店によって扱っている品もそれぞれ異なっている――野菜、肉、日用雑貨、衣服、装飾品、煙草、だが唯一、魚を扱う店だけが見当たらなかった。
その日の賑わいも終わりに近いらしく、店によっては品数もまばらで、中には『CLOSED(店終い)』の看板を掲げている所もあった。
そのメインストリートを、流れ者は何気なく通り過ぎようとしていた。
「ねぇ、おじさん」
少年の呼びかけに振り返る。呼んだ当人は酷くばつの悪そうな面持ちをしていた。
「あのさ……ちょっと待っててもらってもいいかな?」
そう呟き、背後の市場へ目を向ける。
「ルーカ・マリーア」
出し抜けに名前を呼ばれ、ルークは弾かれたように振り向いた。男の握り拳が目の前に突き出されていた。
ダイナマイトの箱はいつの間にか地面に置かれている。
「手を出せ」
訝りつつ、ルークは縄をかけていない肩の掌を、男の拳の下に出した。瞬間、ジャラジャラと音を立てて幾枚かの一ドル銀貨がその掌に落ちた。
少年の目が丸くなり、自分の掌と男の顔を往復する。
「俺の分もだ」
男は硬貨を握っていた手でルークの細い肩からするりと縄を抜き取った。
「ありがとう! すぐ戻ってくるから!」
男に背を向け、ルークは市場の方角へと駆け出した。
ガラス窓から入り込む夕焼けの中、マーガレット・ヴァレリは鍋の中身を覗き込み、溜息を吐いた。キャベツの切れ端を浮かべただけのスープ――今日の夕食だった。
「母さん、ただいま!」
机の上に皿を並べたところで、戸が勢いよく開かれた。ルークだった。怪しげなガンマンは一緒ではない。
「あの男は?」
「そこの浜辺で武器を作るって――はい、これ」
ルークが紙袋を差し出した。
受け取った瞬間、ずっしりとした重みがマーガレットの腕に伝わった。中を覗き込んでから、訝しげに中身を取り出した。マーガレットは驚いて息子を見た。出てきたのは油紙に包まれた鶏の腿肉だった。
「どうしたの、これ……?」
「えっと、おじさんに貰った雇い賃で……」
母の目が怒っているように見えたのか、ルークはそれ以上は何も言えず、押し黙ってしまった。
マーガレットは何も言わず両手のものを机に置き、小走りで浜辺に面した窓際に寄った。
夕陽の浜にガンマンはいた。銛や縄をそこいらに広げて何かの作業に没頭していた。紅く染まる背中に隠れて、その手もとと表情はうかがい知れない。
何秒間、そうして流れ者の背を見ていただろう。気がつけば、ルークが傍らに来ていた。
「あのおじさん……なんとなく父さんに似てるね」
マーガレットは窓に背を向け、キッチンへと戻った。
「母さん……?」
ルークの目が不思議そうに母を追う。
「ありがとう……ルーク。すぐに出来るから、手を洗ってらっしゃい」
息子に顔を向けぬまま、マーガレットは机の上から包みを取り上げ、中身をまな板にあけた。腿肉は三枚あった。
「それと、あの人も呼んであげて」
夜の闇に染まり始めた地平線を眺めながら、男は紫煙をくゆらせた。海風が勢いを増していた。
男の手は一インチ程の太さの短い棒を握っていた ダイナマイトである。それを三本一組にして麻紐で縛る。三組作ったところで余った一本は上着のポケットに入れた。
次に男は二五ヤードの縄を五ヤードごとに等分した。銛を取り、柄頭に設けられた輪に縄を結びつける。縄のもう一方にも輪を作った。
一本目が出来たところで、背後で砂浜を踏みしめる音が聞こえた。風で飛ばぬよう帽子を押さえながら、流れ者は首を後ろに捻った。
「母さんが、夕ご飯一緒にどうか? って」
「ありがとう、すぐ行く。と伝えてくれ」
男は表情を変えぬまま答え、その顔を前に戻した。二本目の銛に手際よく縄を結びつけてゆく。
「今夜、戦うの?」
少年の声は不安そうだった。男は一瞬手を止め、海の彼方に目をやる。
「風次第だ」
「今夜は荒れるよ」
男はああ、とだけ返し、縄の結び目を絞った。
静かな食卓だった。流れ者は自分からは何も語ろうとはせず、マーガレットの焼いた鶏とスープを黙々と口に運んだ。鍔広帽とコートは戸口の脇に設けられたフックにかけられていた。男のシャツは黒のダブル、ベストは鹿皮で、髪は短く切りそろえたブロンドだった。ガンベルトは椅子の背もたれにかけられている。
マーガレットは眉ひとつ動かさない客人を気にしつつも、特別話題を振ろうともせぬまま、自分の作った料理を咀嚼した。そのような二人のどこか気まずそうな、張り詰めた空気を感じ取ってか、ルークもこの時ばかりは男に何も話しかけようとはしなかった。だがその表情は終始、なんとはなしに嬉しげだった。
「なぜ、あの子のことをルーカ・マリーアと?」
マーガレット・ヴァレリがやっとのことでそう訊いたのは、夜の帳が町を覆い、少年が母親の言いつけ通りに子供部屋のベッドへと潜り込んでから、さらに半時間を閲した頃だった。
吹き抜ける風と、がたがたと揺れる窓蓋、そして荒い波の音が暗い屋内に響いていた。ルークの言った通り、風は夜になって激しさを増していた。
机の上に置かれたランプの灯火が、その暗闇の中に薄ぼんやりと穴を空けている。女は頬杖をつき、艶めかしく揺れ踊る炎を見つめていた。
「本人がそう名乗った」
その声をマーガレットは背中越しに聞いた。
彼女の背後の窓辺で、流れ者は紫煙をくゆらせていた。窓蓋を開けぬまま、外の様子を窺っているようだった。
「随分と懐かれているみたいね」
女の目は相変わらずランプの灯火に注がれている。
男は煙草を口から離し、その手で窓蓋を寸分押し開けた。吹き荒れる海風が容赦なく家の中へと入り込んでくる。その勢いに逆らうかのように男は家の外へともくを弾き飛ばして窓蓋を閉めた。
「きっと、あなたの中に父親を見ているのね」
風が背中を撫でてゆくのを感じながら、マーガレットは先を続けた。
「あの人がいなくなってから、あんなに嬉しそうにしてるあの子を見るのは初めてだわ」
数瞬の沈黙の後、切り出したのは流れ者の方だった。
「再婚はしないのか?」
その瞬間、椅子が音を立てて倒れた。女は立ち上がっていた。目を鷹のように吊り上げ、真正面から男を睨んだ。
女の右手が振り抜かれ、乾いた音が響いて消えた。
外の喧騒だけが二人の間を流れていった。
やがて、男はゆっくりと顔を前に向け、殺気立った女の目を正面から見据えた。
「……悪かった」
女が仄明かりの中でその瞳を大きく揺らがせ、唇を噛んだ。そして顔を男の胸に埋めた。
「私だって考えてはみたわ――だってそうでしょ、こんな古くさい田舎町じゃ、女手ひとつで子供を育てられる仕事なんてまともにあるわけないじゃない。学校にだって、いつまで行かせてやれるか……」
男は震える肩に手を添えてやろうともしなかったが、かといってその身を突き放すこともなかった。ただ、黙って女の話を聴いていた。
「おあつらえ向きに、援助しようって言ってくる男もいるわ。あの子のことを思えば、彼の女になってしまった方がよっぽど楽よ……」
訥々(とつとつ)と語る女の声に嗚咽が混じってゆく。白く細い指は男のベストをあらん限りの力で握り締めている。
「でも駄目……! 朝が来る度に思うの、今日にでもあの人がひょっこり帰って来るんじゃないかって――いつもの無愛想な顔して、遅くなったなんて言いながら。海から帰らなかったら死んだと思えって、あの人から何度も何度も聞かされてたのに……!」
女の言葉が途切れる。
「奥さん――」
「お願い、何も言わないで……! 強く抱いて!」
男は手を女の肩に添え、それからゆっくりと、細い背中に回していった。
それっきり、二人の間に言葉が交わされることはなかった。ただ二度ほど、マーガレットの方が夫の名を、甘い吐息に乗せて呼んだだけだった。
それから、どれほどの時間が経っただろう。流れ者は寝室のベッドの中で、暗い天井を見上げながら窓蓋を打つ風の音を聞いていた。何も着ていなかった――隣で寝息を立てている女も、それは同じだった。
男はおもむろにベッドから這い出た。床に散らばる衣服を拾い上げ、衣擦れの音を抑えながら身に纏う。
ベストを羽織った男の目が、その胸元に向いた。先刻、女に強く握られた際の刻まれた皺が、その形をくっきりと残していた。
だが、男は別段それを伸ばそうともせず、今はベッドの中で横たわる女を一瞥すると、静かな足どりで寝室を後にした。
居間は暗闇に包まれていた。そんな中で男は机の上に紙を広げ、そこに何かを書き込んだ。
それから、椅子の背にかかったガンベルトを取って腰に巻く。戸口の傍でロングコートを羽織り、最後に鍔広帽を被った。壁に立てかけられたショットガンを手に取って銃身を折り、コートのポケットから取り出した二発の装弾を、それぞれ左右の薬室に装填した。
そして扉を開け、暴力的な風のうねりへと身を投じた。
波は風に導かれるまま、埠頭にその身を打ちつけては砕け散り、無数の飛沫となって雨のごとく道に降り注いだ。風は夕刻より勢いを増して男の長身にぶち当たった。顎紐を締めていなければ、鍔広帽などいとも簡単に飛ばされていただろう。その激しさはまるで、男を海から遠ざけんとするかのようだった。
目的の場所に辿り着く頃には、流れ者の体は潮の洗礼によって、早くも重く濡れそぼっていた。
男が足を止めたのは、最初に少年と出会ったあの埠頭だった。叩き壊された桟橋が無惨な姿を波濤の間にさらしていた。
男は肩に負っていたものを地に降ろした。夕刻に細工した五本の銛だ。柄から伸びる縄も一緒くたにして麻紐で括られている。紐を解き、それぞれの縄を個別に束ね直して、岸から離れた場所に並べてゆく。ショットガンはいつでも使えるよう、脇に挟んだままだ。
五本並べ終えると、流れ者はその内一本を手にとって埠頭の縁に立った。砕ける波が足を濡らす中、銛をその場に置いて左の袖をまくると、右手でブーツに仕込んだナイフを抜いた。
そして、露わになった前腕の上に刃を滑らせた。
皮膚が一文字に裂け、真っ赤な血が隙間から溢れ出る。その血を指先から数滴、波間に落として男は袖を戻した。
その時、暗黒の海底で蠢くものがあった。それは海面から僅かに漂ってくる血の臭いを敏感に感じ取るや、尖塔状の頭部で水を切り、凄まじい速さで獲物へと突き進んだ。
右手に銛を、左手にショットガンを握り、流れ者はその時を待っていた。血の匂いに誘われて恐るべきものが迫っていることを、男は肌で感じていた。
「さぁ、来い……」
呟きが漏れた。静かであり、さりながら凄まじい殺気を孕んでいた。
そして、時は訪れた。
水柱が上がった。荒波と風を裂いて二本の触手が夜空を刺した。重力に身を任せるように、その穂先がゆっくりと男に覆い被さってくる。
潮の雨が降る中、男は真横へ跳んだ。下から伸びていた三本目の触手が足先をかすめた。案の定、最初の二本は囮だった。奇襲をかわされた触手が男に追いすがる。
ショットガンを握った左手が、その指で銛から伸びる縄の結びを解いた。たわんだ縄が地面に広がる。左手の指はまだその一部を保持し続けたままだ。
爆音が轟き、ショットガンが火を噴いた。触手の表面が深々とえぐれ、組織が四散する。
同時に、銛が空を裂いて飛んだ。男は左腕一本で銃を撃ち、その反動を利用して体を捻りながら右手の銛を放ったのだ。粘着質な音を立て、今しがた散弾を受けた触手の、波間から僅かに姿を見せる根元に穂先が深々と刺さった。
男の右手はすかさず、左手から縄の端を取り上げた。 そして大きく腕を振り回し、それを脇へと投げた。
縄の先端には輪が作られている。その輪が、埠頭に設けられた係柱を捉えた。海へ逃げる触手につられて縄が引かれ、輪が絞られる。
巨大な烏賊と陸が一本の縄で繋がれた。
男は大きく後ろへ跳んだ。先刻、囮に使われていた二本が降ってきたのだ。紙一重でそれをかわすとショットガンを両手で構えた。眼前で地に這いつくばる二本の片方に狙いを定め、引金を引いた。烏賊の肉が四散した。
男はそのまま後退った。動きながらショットガンを折り、銛を並べた場所まで辿り着くと同時に素早く装弾の排莢と装填を済ませ、新しい銛を手に岸へ走った。
そうして男は襲い来る触手の群れを巧みにかわしながら次々に銛を打ち込んでは輪を係柱に投げ、巨大な敵と陸との間に縄を張っていった。敵が海底へ退却することを防ぐため 自分との間に死闘を強いるためである。
だが四本目の縄を張った時だった。
前から迫る触手に、後退りながら散弾を撃ち込んだ男の足に何かが絡みついた。触手だ――男の視野の外から回り込んでいたのだ。
遂に烏賊が男を捉えた。そのまま足を強く引き、男の体を地面に引き倒した。
受け身の姿勢を取りながら男は反射的にショットガンを構え、すぐに手放した。先刻の一撃が四発目だった。そして、再装填している暇はない。触手は凄まじい力で男の体を海へと引きずってゆく。
男の手がコートのポケットをまさぐった。中からパラフィン紙に包まれた短い棒が引き出された――夕刻に男が入れていたダイナマイトだ。男は埠頭の縁に見える触手の根元に向けて、勢いよくそれを転がした。
銃声が走るや、爆音がそれをかき消した。縁から落ちる寸前で、男のコルトがダイナマイトを撃ち抜いたのだ。
触手が吹き飛び、男の足が自由を取り戻す。男は立ち上がり、ショットガンを拾いに走ろうとした。
だがその瞬間、荒波の下より現れ出たものが男をその場に釘付けにした。
まるで、小島ひとつが浮かび上がってきたかのようだった。粘着質の光沢を持つ、生ける島である。海を割り、波を砕いて、触手の主が遂にその正体を現したのだ。
黒曜石のごとく黒光りする巨大な眼球が、埠頭に立つ男を見据えた。
男は臆面もなく、その眼光を真正面から受け、コルトをホルスターに収めた。
男は烏賊を正面に捉えて仁王立ちになると、コートの前をはだけた。ホルスターとは反対側の、ベルトの左腰に麻紐で繋がれてずらりと並んだものが露わになる。三組のダイナマイト束である。
それが現れたのを合図にしたかのように、両者の時が止まった。
風と波の音だけが辺りを支配した。男と烏賊は互いに相手を見据えたまま、微動だにしなくなったのだ。
烏賊の巨大な顔は海面から出たままである。だが、波の下では無傷で残った数本の触手達が、男を捕らえるその瞬間を虎視眈々と狙っていた。
男の方も埠頭の縁で仁王立ちを続けている。押し寄せる波は眼前で砕け、飛沫となって男の全身を濡らした。
潮はガンベルトに吊られたダイナマイトにも容赦なく降り注いだ。が、表面に巻かれたパラフィン紙に妨げられ、中の爆薬を湿気らせるにはいたらなかった。
流れ者と烏賊の睨み合いが続いていた。両者の間の空気が次第に張り詰めてゆく。まるで一本の細い糸を引っ張り合っているかのようだ。その糸が切れた時、互いの生死が決される。
だが、男には解っていた。勝負を焦る余りに、力んで糸を引き切った者は、その力みで余った力の分だけ、動きが鈍る――つまり先に動いた方が死ぬ――と。
そして、遂に糸は切られた。痺れを切らせたのは、烏賊だった。海中に潜ませていた触手を一斉に波間から突き出し、男を足下から狙った。
男も動いた。左腰に手をやり、ベルトとダイナマイトの束を繋ぐ紐を一瞬にして解くや、それらを一度に投げた。
三つの束がくるくると回りながらその間を広げ、放物線を描いて飛ぶ。
そして、巨大な敵の顔に当たった――両の目と額だ。
その瞬間、男の手がコルトを抜いた。
三発の銃声――だが、それは直後に轟いた三つの爆音にかき消された。
烏賊の顔面から爆炎が上がった。その巨体が一瞬、海に沈むほどの衝撃だった。三つの爆発はそれぞれ、烏賊の両の目と額を完全に吹き飛ばした。
男はコルトを収め、踵を返して走った。ショットガンを拾い上げ、空の装弾を素早く排莢する。そして、上着の中から五発目の装弾を取り出し装填した。最後の弾である。
身を翻し、巨大な敵に向け、また走った。
両目を破壊され、烏賊は狂ったように暴れていた。触手が波を立ててそこいら中を動き回り、怒りの矛先を探していた。額はその表皮を大きくえぐられ、頭の中の臓器や脳へと繋がる神経を露わにしていた。
男は雄叫びを上げ、埠頭の縁を蹴った。荒波を高く飛び越えてゆく。落ちるところは、烏賊の顔の上だ。
ショットガンを両手で握り締め、着地と同時にその銃身を、烏賊の額の中へ深々と突き刺した。
そして撃鉄を起こし、引金を絞った。
バンドンは保安官事務所のデスクで眠れぬ夜を過ごしていた。だが、目の前に積まれた書類は全くといっていいほど手つかずの状態だ。
外から聞こえてくる風の音と、がたがたと鳴る窓ガラスが保安官の胸中をざわつかせていた。一度だけ遠雷を聞いたように感じたが、雨がやってくる様子はない。
不意に事務所の扉がノックされた。
バンドンは訝しげな顔を戸口に向け、壁の時計を見た。二時をとうに過ぎている。人の来る時間ではない。
「誰だ!?」
戸口から返事はない。代わりにノックがもう一度。風の悪戯ではない、人間の拳が叩いて出した音だ。
どうやら激しい風の音のせいで保安官の大声も聞こえないらしい。バンドンは重い体を椅子から上げ、戸口へ歩を進めた。壁のフックにかかった背広を羽織って帽子を被り、そして扉を開けて立ち竦んだ。
流れ者が見下ろしていた。まるで雨に打たれたかのように全身ずぶ濡れで、何故か潮臭さと生臭さを発散させていた。背後のポーチの手すりには、厩舎にいるはずの男の馬が繋がれていた。
「お前、その馬は……」
「がら空きだったんでね……返してもらった」
男は何ら悪びれた風を見せない。
「それより賞金首の件なんだが」
「諦めて帰るか?」
男が笑った――微笑みなどというものではない、鼻で笑ったのだ。
「奴は死んだ」
保安官の顔色が変わった。そして彼は気づいた――男から漂ってくる生臭さは烏賊の匂いだと。
「何だって! 死体はどこだ!?」
「明日の朝になれば分かる」
男は手すりにかけた馬の手綱を解き、鞍へと跨った。
「どこに行くんだ?」
ポーチに出ながらバンドンは訊いた。強風で吹き飛びそうになる帽子を必死に手で押さえる。
「俺の仕事は終わった。帰るのさ」
「帰る……? 賞金はどうするんだ?」
「貰うべき奴に全部やってくれ」
誰だ、と訊こうと口を開き、保安官ははたと黙った。思い当たる節は一つしかなかった。だが、次に彼の口から発せられた問いも、結局は〝誰だ〟であった。
「なぜ、あの親子にそこまでする……お前は誰だ?」
流れ者は一瞬遠い目をして、海の方を見た。
「あいつらが困らないようにしろ。それから――」
銃声が轟き、バンドンの山高帽が吹き飛んだ。
全身を強張らせたバンドンの丸い目に、コルトを握った男の手が写る――一瞬前までは手綱を握っていたはずだった。いつ抜いたのか、バンドンには全く分からなかった。
「そっとしておいてやれ」
男が呟いた――静かに、しかし凄まじい殺気と怒気を孕ませて。
その圧力に、バンドンはただ額に脂汗を浮かべて頷くしかなかった。
男はもう一度鼻で笑うと、銃声に驚いて浮き足だった馬を制し、保安官事務所に背を向けた。
「ヤァ!!」
男は叫び、手綱が打たれた。
馬が嘶き、メインストリートを駆ける。
風のうねりを裂いて、流れ者は夜の闇に消えていった。
早朝、バンドンは埠頭の縁に立ち、海の方を見ていた。背後には既に野次馬による人集りが出来あがり、保安官助手達の手を患わせていた。
「あいつ、本当にやりやがった……」
保安官の眼前では、穏やかな波に揺られて巨大な烏賊がその屍をさらしていた。三本の触手に銛が撃ち込まれており、そこから伸びる縄は保安官の足下にある係柱へと繋がっている。相当激しく戦ったのだろう。烏賊は無惨にも両目を潰され、額はぼろぼろに砕かれている。
そして額の真ん中には、マッテーオのショットガンが見事に突き刺さっていた。まるで、これが墓標だと言わんばかりである。
「バンドン保安官! ちょっと来て下さい!」
一人の若い保安官助手が、横から駆け寄ってきた。心なしか、顔色が青い。
「どうした?」
「浜に死体が揚がったんです。昨夜の嵐に運ばれてきたみたいなんですが……腰から上だけで……かなり時間が経ってるらしく、もうぐずぐずなんですが……」
狼狽の色が見えるとはいえ、保安官助手の使うぞんざいな言い回しに、バンドンの表情が渋くなる。だが、助手の次の言葉はその苛立ちをかき消すに余りあった。
「その……似てるんです……マッテーオ・ヴァレリに」
ルークは目を覚ました。ベッドから飛び起き、寝巻のまま居間へと駆け込んだ。
そして、流れ者が出て行ったことを知った。
椅子にかけられていた、男のガンベルトがなくなっていた。戸口の脇にかかっていた帽子もコートも、男のものは何ひとつなくなってしまっていた。
「おじさん……」
ルークの表情が曇った。寂寥感がそこにあった――心の中から大切なものが抜け出てしまったかのような、強い孤独の念。一ヶ月前のあの日、父、マッテーオが遂に帰ってこなかった日に抱いたものと同じ、寂しさだった。
ふと、泳がせた目が机の上に置かれた紙を見つけた。四つ折りにされた巨大烏賊の手配書だ。
それを開き、肖像の烏賊をまじまじと見つめてから、何気なくルークは手配書を裏返した。
『 ADDIO 』
それだけだった。
流れ者の行方は誰も知らない。
THE END