表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/2

前編

学生時代に書いた話をほぼそのまんま転載してます。

 アメリカ政府が開拓地(フロンティア)の消滅を宣言した1890年。

 西部の終点カリフォルニアの反対に位置する東海岸の州、マサチューセッツ。その沿岸にある小さな漁業の町、〝ミールズ〟で惨劇は起こった…………



 青い波に揺れる小さな漁船の上で、マッテーオ・ヴァレリは拳をわなわなと振るわせていた。呼吸は荒々しく、目は吊り上がって四方の波間を睨み続けている。


「畜生……」


 呟きが漏れた。静かであり、さりながら凄まじい怒気を孕んでいる。

 マッテーオの怒りの炎の種は彼が前日に仕掛けた置網にあった――どこにも見当たらないのだ。

 マッテーオのような一匹狼の漁師にとって、網は命に等しい。網にかかった魚の量で、その日の生活が楽にも苦にもなる。不漁ならばまだ諦めもつこうが、それ以前に魚を獲る手段を失ったとくれば、彼の怒りももっともなことと言える。ましてや、陸で妻と子が期待を胸に、彼の帰りを待っているとあっては…………


「盗人め……」


 盗まれた、とマッテーオは確信していた。二〇年間も漁師をやってきた。その自分の仕掛けた網が沈んだり、流されたりするわけがない。怒れる漁師は青い空と海の間で、見えない敵を静かに呪った。

 ふと、頭上に舞う(かもめ)の鳴き声に、マッテーオは平静を取り戻した。海のまっただ中で憤るばかりでは何の解決にもならない。泥棒のことは陸へ帰ってから考えればいい。今、重要なのは、今日の飢えをいかにして凌ぐかである。


 マッテーオは船の内縁にかけられた、細長い、革のガンケースに手を伸ばした。中から出てきたのは、レミントン製の元折れ式、水平二連のショットガンだった。

 ストックをしっかりと肩につけ、マッテーオは上体を反らせた。撃鉄を起こし、空に舞う鴎に狙いを定める。

 引金を引いた。爆発音が海を渡り、白い羽が空に散る。鴎の影が波間へと吸い込まれてゆく。

 マッテーオは銃を(かい)に持ち替えて、獲物の落ちた場所へと船を進めた。


 漁獲が極端に少ない日には、マッテーオはこうして海鳥を仕留める。売れるほど美味いものではないが、彼の妻、マーガレットの作る鴎シチューは不漁の憤懣(ふんまん)を紛らわす最高のご馳走だった。十三歳のルーカ・マリーアにいたっては、大漁よりもこっちを期待している時があるくらいだ。

 だが、マッテーオは気づいていなかった。海へと流れ出た鴎の血の臭いに誘われて、恐るべきものが暗黒の海底でその鎌首を(もた)げたことに…………

 波に漂う鴎の亡骸を見つけると、マッテーオは掬い網を用いて船へと上げた。血と潮水で濡れたそれを船底に横たえ、今一度ショットガンを手にして空を見上げる。新たな鴎の姿を認め、銃を構えた。


 突如、船が大きく揺れた。マッテーオはバランスを崩して後ろへと倒れ込んだ。拍子で銃の引金が絞られる。銃声が轟き、撃ち出された三百発の鉛の粒が青空へと消える。

 悪態をつきながらマッテーオは起き上がった。だが波に向けられた怒りはすぐさま、違和感に取って代わられた。

 海に風はなかった。大波が立つはずがないのだ。

 不審に思い、マッテーオは船の縁から身を乗り出して、真下の青い深淵を覗き込んだ。

 その瞬間、下から突き上げるような衝撃が船を襲った。船首が一瞬にして天を指し、漁師は水面に叩きつけられた。

 咄嗟に海中で姿勢を立て直す彼の腰を、水底の方から伸びた何かが掴んだ。無数の刃物を突き立てられたかのような激しい痛みが肌に走る。噴き出した血が潮を濁した。漁師の口から、ごぼごぼと気泡が吐き出された。

 マッテーオは海底に目を向け、喰らいついたものを見た。吐き出される気泡が、その勢いを増した。

 長い、蛇のようなものが彼の下へと伸び、海底の闇へと消えていた。

 マッテーオは瞬時に、その正体を悟った。漁師である彼にとって、その形はとても馴染のあるものだった。烏賊(いか)の触手である。だが、それだけに彼の驚愕は凄まじかった。

 その何と巨大なことか。太さは彼の腰ほどもあるではないか。カードのスペードに似た平たい先端が今、マッテーオの体をがっちりと鷲掴んでいる。そして吸盤の内に隠し持った虎挟みのような刃を彼の肉に突き立てているのだ。


 海面の光が遠ざかってゆく。マッテーオは必死に身をよじった。だが触手はびくりともせず、恐るべき力で彼を海底へと引きずり込んでゆく。

 その時、別の触手が目の前をよぎった。そこに絡まっているものにマッテーオは見覚えがあった。ズタズタに引き裂かれた、彼の置網だった。

 そして意識が途切れる寸前、暗黒の中から現れたそれをマッテーオは見た。幾本もの巨大な触手が放射状に広がり、その中心では鉤爪状の嘴が彼を呑み込まんと、その口腔を広げていた。


「マーガレット……ルーカ・マリーア……あばよ(アッディーオ)……」


 だが、彼の最後の言葉は気泡となって虚しく空に昇ってゆくのみだった。



 三日後、マッテーオのショットガンが潮に洗われ、錆だらけになった状態で浜に打ち上げられた。だが、その後数日を経ても、持ち主の遺体が揚がることはなかった。




 その男がミールズにやって来たのは、マッテーオ・ヴァレリの密かな死から一ヶ月が経ったある日のことだった。

 男が町に入った瞬間、道行くあらゆる人の視線が彼に集中した。東部の者にとって、その風体は小説や見世物でしかお目にかかれない、あまりにも非日常的なものだった。


 頭には鍔広帽(ステットソン)、首には紐タイを巻き、上はロングのコート、下は黒のデニムに、銀の拍車のついたブーツ。髭は伸び放題で、輪郭はほとんど茶色一色。そして、その長身が揺れているのは馬の上だ。

 これらの容貌だけでも充分異様だというのに、腰にはしっかりと回転式拳銃(リヴォルヴァー)を提げているではないか。まるで西部の牧童(カウボーイ)拳銃使い(ガンファイター)である。ホルスターから突き出た銃把(グリップ)骨組(フレーム)が、陽の光を浴びて目映い金色に輝いている――磨き抜かれた真鍮の色だ。

 四方から刺さる奇異の視線など意に介さずといった態度で、男は馬に跨ったまま町中(まちなか)を進んだ。


「おい、そこの流れ者(ドリフター)!」


 横合いから声がかかった。射るような目が、そちらを向く。山高帽と背広に身を包んだ、恰幅のよい男がいた。


「カリフォルニアは逆方向だぞ」


 気のよさそうな笑みを浮かべながら山高帽は言った。周囲で含み笑いが起こる。だが、流れ者は眉ひとつ動かさない。その目は相手の背広の胸元に光る、星形のバッジ(ティンスター)へと注がれていた。


「バンドン保安官だな?」


 髭に覆われた唇が動いた。

 保安官と呼ばれた男は山高帽の下の眉間に皺を寄せて、怪訝な表情を作った。


「そうだが……前にどこかで会ったか?」


 流れ者は答える代わりに、懐から四つ折りにした紙を取り出した。広げて保安官に差し出す。

 バンドン保安官の目に真っ先に飛び込んできたのは、紙面の上部に大きく書かれた『WANTED』の文字だった。手配書である。

 だが、そこに描かれている肖像は人間のものではない。

 細長い身体に三角形の頭部。まん丸い目。そして、下に伸びる十本の触手――内二本は特に長く、先端の形状はまるでカードのスペードのようだ。


『GIANT SQUID (巨大イカ)

 REWARD 5000$ (賞金5000ドル)

 DEAD OR ALIVE(生死にかかわらず)』


 その下にミールズの場所、そして責任者としてバンドン保安官の名が添えられている。


「ああ、確かにうちの町が出した。しかし変だな。こいつは東沿岸沿いにしか回してないんだが……お前さん賞金稼ぎか。どこから来た?」


 バンドン保安官は手配書をたたみ直すと、男へ返した。それを受け取り、もとの懐に収めながら男は答えた。


「西だ」


 そりゃそうだ、と保安官が肩を竦める。


「馬を預けたい」


 保安官は再び眉間に皺を寄せて、しばし考えるような素振りを見せたが、やがて一人頷いて表情をもとに戻した。


「まあ、いいだろう。だが馬屋はない。事務所の厩舎を貸してやろう」


 案内しよう、と言ってバントンは歩き出した。男がその後を馬で追う。


「名前はなんていうんだ?」


 やや進んだところで、バンドンは歩きながら、唐突に訊ねた。だが、男に答える気はないようだった。


「状況が聞きたい」


「何?」


「この町で何が起こっている? 詳しく知りたい」


 バンドンはしばらく考えるような素振りを見せた。先刻から質問をはぐらかされ続けているため、その表情は渋い。


「一ヶ月前、一人の男が漁に出たきり消息を絶った」


 そして言葉を選びながら、ゆっくりと語り出した。


「恐らく、それが始まりだったんだろう――いまだに死体も船も揚がらんから、はっきりとは言えんがな。

 いずれにせよ、その時を境に海難事故が頻発し出した。漁船、我々の警備艇、ガキどものボート、とにかく船を出せば沈んだ。生存者は皆無。原因は全くの謎だった。出航禁止令を出すまでの最初の二日間で六隻がやられ、十人の死体が揚がった。死体といっても、決まって腕とか足先だ――身元確認にどれだけ苦労したか」


 保安官の口調に、先刻の飄々(ひょうひょう)とした雰囲気はなかった。


「それで、なぜ烏賊だと?」


「港を封鎖した一週間後だ。私の知らぬ間に、漁師どもが徒党を組んで船を出した。自分達で原因を調べるためだ。だが、八隻も出して結果は…………」


 保安官は肩を竦め、溜息を吐く。


「全滅か」


「だが、一隻が帰ってきた。無事に、とは言い難かったがな。船主は酷い錯乱状態で、今も病院のベッドで悪夢にうなされている――こら、見せものじゃないぞ! 帰って家の手伝いをせんか!」


 男の物珍しさからか、いつの間にやらぞろぞろと後ろに集まっていた子供の群れを、バンドンが一喝した。蜘蛛の子を散らすように子供達が離れてゆく。だが流れ者に好奇の目を向けているのは子供達だけではない。二人はいつの間にか、メインストリートに沿って延びる市場の活気の中へと足を踏み入れていた。


「その狂人が証言を?」


 自分に注目する周囲の人々などまるで路傍の石であるかのごとく無視し、男は保安官に話の先を促した。


「それだけじゃない。決め手はやっこさんの船を調べた時に出てきた。船底にバカでかい吸盤の跡があった」


(のこぎり)状の歯形つきか」


 バンドンが驚いたように、馬上の流れ者を仰ぎ見た。


「分かるのか?」


 荒野で生まれて荒野で死んでゆくような男が、烏賊の特徴を言い当てたことに、保安官は面食らったのだった。


「船の経験がある」


「それは、それは……多彩な人生だな」


 目線を逸らし、保安官はふて腐れたように呟いた。


「大きさは?」


「件の船主の言では、一〇ヤード」


 歩き出してから初めて、男が保安官の方を見た。


「嘘か誠か……しかも胴体だけでだ。足も入れたら、一体いくらになるのやら」


 バンドンは溜息を吐く。


「まあ、言ってる当人があれだからな。本当のところはどうだか――」


 その瞬間、甲高い爆発音が響いた。海の方角からだ。


「ここで待て!」


 流れ者をその場に残し、バンドンは鈍重そうな図体に似合わぬ俊足で音のした方角へと走り去った。

 男はしばらく保安官の背中を見ていた。だが、やがて思い立ったかのように馬を歩かせ、その後を追った。


「いい加減にしないかルーク、ああ!? ただでさえ、みんなピリピリしてるんだぞ!」


 辿り着いた先の埠頭で保安官はすぐに見つかった。

 彼の目の前には、彼より頭二つほど背の低い、黒髪の少年がいた。年は十五にも満たないであろうその子に向かって、バンドンは怒鳴り散らしているのだ。

 ルークと呼ばれた少年の口は一文字に結ばれ、切れ長の目が前髪の下から保安官を睨み上げていた。

 その手に握られているものに男の目が吸い寄せられる。小さな体には収まりきらないほどの、大きなショットガン――レミントン製の元折れ式だった。表面の錆を擦り落としたのだろう、銃身は傷だらけで、銃把の木材もぼろぼろの状態だ。


「お前のお袋さんに免じて今まで大目に見てきたが、もう我慢ならん。その銃は没収だ。みんなが迷惑する!」


 バンドンの手が銃身を掴んだ。少年は渡すまいとして銃を抱きかかえる。取り上げようとする保安官と頑として放さない少年。両者共に譲らず、睨み合いが続く。

 不意に、少年の目が保安官からその背後へと逸れた。

 それに気づいたバンドンは手の力を緩めて、訝しげに少年の視線を追った。いつの間にやら、馬に乗った流れ者が彼らの傍までやって来ていた。


「ちょっと待っててくれ。一仕事終えたらすぐに――」


「何を狙った?」


 男の言葉がバンドンを遮る。バンドンは一瞬、その意味を図りかねて首を捻ったが、すぐさま男の目が自分に向いていないことに気づき、振り返った。

 流れ者は少年を見ていた。


「何を狙ったんだ?」


 男はもう一度訊いた。

 少年は銃から手を放さぬまま空を見上げた。男の目もそれを追って天を仰ぐ。

 鴎が飛んでいた。先刻の一発は見事に外れたらしい。


「は、鴎か」


 同じく空を見上げていた保安官の声に侮蔑が混じる。


「ヴァレリは名手だったが、どうやらお前は血を継ぎ損ねたらしいな。さあ、銃を寄越せ! こんな所で油を売ってるより他に、もっとやることがあるだろう!」


 少年の抱きかかえた銃に今度は両手を添え、保安官は力任せに引ったくろうとする。


「いやだ!」


 その時、初めて少年が口を開いた。


「やることなんて他にない! 父さんの仇を討つんだ!」


「死体も見つかっとらんのに勝手なことを抜かすな! 銃を持ってうろうろしてる暇があるんなら、お袋さんの手伝いでもしたらどうだ!」


「偉そうに言うな! 母さんに言い寄ってるくせに!」


 その一言でバンドンの目つきが変わった。ショットガンもろとも少年を引き寄せ、拳を振り上げた。

 だが、その拳が少年に落ちることはなかった。

 横から伸びた手が、バンドンの手首を掴んでいた。

 少年と保安官、二人の目が手の主に向けられる。流れ者だった。いつの間に馬から降りたのか、二人は全く気がつかなかった。

 バンドンは改めて男の背の高さを実感した。目線ひとつ分は高い、六フィートと四インチはあろうかという長身が彼を睥睨(へいげい)していた。


「離してくれ! こいつは一回痛い目を見た方が……」


 それ以上、言葉を発することは出来なかった。流れ者の手に力が籠められた。まるで万力だった。振りほどこうにも、一寸たりとて腕を動かすことが出来ない。

 悲鳴を殺して、バンドンは流れ者を睨めつけた。だが、鋭い眼光に射抜かれたのは保安官の方だった。凄まじい殺気を秘めた、それでいて恐ろしく冷徹な目だった。

 いつしかバンドンの顔は脂汗にまみれていた。だが、男の面にはそれが一滴たりとも浮かんでこない。

 結局、少年のショットガンも鉄拳による制裁も諦めて両手を降ろす以外、バンドンに術はなかった。

 それ以上事を荒立てる気はないらしく、流れ者も手を放した。そして、顔を少年に向けた。

 少年が一瞬、体をビクつかせる。


「なぜ、鴎を撃つ?」


 男の目から殺気は消えていた。それに気づき、少年は安堵の表情を見せた。


「食べるんだ――鶏なんて買える余裕ないから。それに、父さんもよく狩ってたし……」


 だが、その口調にはまだ緊張と恐れが混じっている。


「食えたら、無闇に銃は撃たないんだな?」


 少年は恐る恐る、こくりと頷いた。


「おい、お前何を……」


「馬を頼む」


 横から割って入ろうとしたバンドンを遮って手綱を手渡すと、流れ者は埠頭から沖に伸びる桟橋(さんばし)に目をやった。数羽の鴎がその縁で羽を休めていた。

 おもむろに男が屈み込んだ。だらりと下に垂らした手が足下の小石を掴む。訝る二人の目の前で、石が群れへと投げ込まれた。

 突然の投石に驚き、鴎の群れが一斉に飛び立つ。匆匆(そうそう)たる羽音が辺りを支配したかに思えた。

 その瞬間、三発の銃声が空を裂いた。

 咄嗟に顧みた少年と保安官の目に、両手を右の腰元に添えた男と、その右手に握られた拳銃が飛び込む。コルトS.A.A.(シングル・アクシヨン・アーミー)――通称〝ピース・メーカー〟の五・五インチモデルだ。

 しかし、何という早撃ちか。間近にいた二人にすら、ホルスターから抜く音は聞き取れなかった。なにより、男は三発撃つのに一秒も要していなかった。

 金色に光る用心鉄(トリガー・ガード)にかかった人差指が銃をくるくると回す。コルトはそのまま、流れるような動きでするりとホルスターに収まった。


「ショットガンを取り上げる理由はなくなったな」


 唖然とする二人を尻目に、男は桟橋へと歩を進めた。


「大した早撃ちだ。だが、当たらなければ意味はない」


「当たってるよ……全部」


 少年が桟橋の先端を指差した。その足下で揺れる波の上に、白い塊が三つ浮いていた。

 男が桟橋の床で腹這いになった。上半身を投げ出すかのような滑稽な姿勢で一羽目の獲物を掴む。だが、二羽目を掴む前に男は体を起こした。姿勢に無理があったようだ。

 そして、それが男にとっての命綱となった。

 突如、男の眼前の海面を破って、巨大な何ものかが飛び出した。長い紡錘状のそれは潮をしぶかせて天を突くように高く伸びるや、男に覆い被さってきた。

 烏賊の触手だ。

 男は腹這いの姿勢から、腕と脚のばねを使って横へ飛んだ。巨大な触手が肩口をかすめて桟橋を叩く。分厚い木の板を軽々と破壊し、海中へ没した。


「奴だ!」


 埠頭の保安官が叫ぶ。背広の下から、彼のコルトが姿を現した――七八年製のダブル・アクションだ。

 保安官が銃を抜いたことに応えるかのように、幾本もの触手が、水柱とともに海中から昇った。

 男が走った。それを狙って触手の群れが覆い被さってくる。男の背後で次々に床板が砕け散り、水しぶきが上がった。追いすがるように襲いくる触手を全て紙一重でかわし、男は猛然と走り抜けた。

 男が桟橋から埠頭へ渡りきるや、バンドンは一番手前でゆらゆらとうねる触手に向けて引金を引きまくった。男も振り向きざまに銃を抜き、親指で撃鉄を起こして一発、二発と撃った。

 二人は確かな手応えを感じた。しかし、攻めているという実感は遂に湧かなかった。標的はあまりにも巨大で頑丈だった。


「保安官、援護します!」


 その時、背後の群衆の間から一人の青年が駆け出してきた。革のジャケットの胸に保安官助手を示す星形のバッジが光る。手に握られている回転式拳銃は英国のウェブリー社製ダブル・アクションだ。


「オーランド! 来るんじゃない!」


 バンドンが叫んだ。しかし遅かった。流れ者と保安官を押しのけるように前へ出たオーランド保安官助手の足に、触手が絡みついた。

 悲鳴を上げて倒れるオーランド。男達が手を差し伸べる間もなく、その体が海中へと消えた。


「オーランドー!」


 叫ぶバンドン。新たに伸びた触手が、その足を掴んだ。図体に似つかわしくない甲高い悲鳴を上げ、保安官は地面に引き倒された。だが保安官助手の時とは違い、その重い図体と筋力とが、僅かながら触手に対する抵抗を見せている。それでも海中に引きずり込まれるのは時間の問題だ。


「撃て!」


 流れ者が叫んだ――バンドンではなく、傍らでショットガンを握った少年に向けて。

 だが、少年に動きはない。銃を抱えたまま、目を丸くして立ち竦んでいる。

 その間にも保安官は次第に海へと引きずられてゆく。


「助けてくれー!」


 バンドンはめったやたらに引金を引いた。だが彼のコルトは撃鉄を前後させ、輪胴(シリンダー)を回すのみだった。

 とうとう男は少年からショットガンを引ったくった。片側の撃鉄を起こし、至近距離で引金を引く。銃声が轟き、撃ち出された三百発の鉛の粒が触手の表面を深く抉った。

 .四五口径をものともしなかった触手も、これには一溜まりもなかったようだ。バンドンを放すや、そそくさと海へ帰っていった。

 その隙を突いて男はバンドンを引き起こし、少年を連れて埠頭から離れた。

 触手はもう襲っては来なかった。


「まさか、こんなところまで……」


 バンドンは右足を引きずり、肩で息をしていた。


「港を封鎖したから、餌がなくなったんだろう」


「奴は人間を食うってのか!?」


「きっと味をしめたんだ」


 保安官が舌打ちをして、なんてこったと吐き捨てる。

 メイン・ストリートの方から、蹄の音が近づいてきた。男の馬だ。触手が現れるや町中へ避難していたのだ。


「忠誠心のない馬だな」


「賢い奴だ。自分が役に立たないことを知っている」


 バンドンは肩を竦めて溜息を吐いた。無謀な保安官助手のことで言い合いをする気にはなれなかった。彼は右足を引きずりながら周囲に出来た人集(ひとだか)りへと向かった。騒然とする人々に大声で状況を説明し、警戒を促す。

 保安官を目の端に置きつつ、男は馬の首筋を撫でた。それから思い出したかのように、手にしていたショットガンを傍の少年に差し出した。

 しかし、少年は首を横に振る。


「おじさんにあげるよ」


 力ない声だった。バンドンと言い争っていた先刻の威勢のよさは微塵も見られない。


「大事な銃なんだろ?」


「僕が持っていても、意味がないよ」


 巨大な触手を目の前にして一歩も動けなかったことが、少年の心にとって相当の痛手だったようだ。


「奴を見たのは初めてか?」


「うん……」


「なら、しかたない」


「おじさんは?」


 何かを言おうと口を開いたその時、流れ者は自分が鴎を持っていないことに気づいた。巨大烏賊に襲われた拍子に、海に取り落としてしまったのだ。


「烏賊のお化けに取られちまった」


 男はショットガンを小脇に抱えてコルトをゆっくり抜いた。撃鉄を半起こし(ハーフ・コツク)にして輪胴後部の装填蓋(ローディング・ゲート)を開き、輪胴を手で回して空薬莢を一発ずつ上着のポケットの中へと落としてゆく。


「しかたないよ」


 ふっと男の口角が一瞬上がった。

 だが、その手は休むことなく、黙々と装填作業を進めてゆく。ガンベルトの表面に並ぶ弾薬輪(カートリツジ・ループ)から新しい弾薬を抜き取っては、一発ずつ込めてゆく。五発込めたところで撃鉄をゆっくりと倒し、コルトをホルスターに収めた。

 次に少年のショットガンを両手で持った。上部のテイクダウン・レバーを繰って銃身を折り、左右の装弾(シェル)を取り除く。そして、完全な筒となった銃口を覗き込む。


「装弾はあるか?」


「家にあと何発か。それも、おじさんにあげる」


 眉根を顰めて銃口から目を離した男に、その代わり、と少年は付け加えた。


「お願い……あの化け物を殺して」


 流れ者は顔を少年に向けた。射るような眼差しが彼を見上げていた。自分の中の憎悪や殺意を、まるごと男に注ぎ込もうとしているかのようだった。

 男は目を少年に合わせたまま、銃身をもとに戻した  がしゃり、とショットガンが音を立てる。


「ルーク……だったか?」


 先刻、保安官が少年をそう呼んでいた。


「ルーカ――ルーカ・マリーア・ヴァレリ」


 少年はフルネームをイタリア読みで名乗った。


「でも、ルークでいいよ」


 はにかみながらルークは言った。


「そういうおじさんは?」


 流れ者はショットガンを片手に提げた。少年から逸らした目が遠いものになる。


「名はない」


 ルークの眉間に皺が寄る。


「どうして?」


「俺のいる世界では意味を持たない」


 ルークが首を傾げて、今度は不思議そうな表情を作る。


「じゃあ、おじさんでいい?」


「好きにしろ」


「そういう投げやりな言い方……父さんみたいだ」


 男は何も答えなかった。

 ルークはまだ何か言おうとしたが、横合いから割って入った声がそれを妨げた。


「やれやれ……ようやっと話がついた。さあ、お前達もそこから離れるんだ」


 バンドン保安官が二人の傍までやって来ていた。右足はまだ辛そうだ。

 その保安官の目の前に、男の手が差し出された。馬の手綱が握られていた。


「乗れ」


「いいのか?」


 受け取ってからバンドンは訊いた。


「ついでに預かっといてくれ。俺は用事ができた」


 男は視線をルークに向け、ショットガンを掲げてみせた。


「分かった。こっちだよ、おじさん」


 軽く頷き、少年は先だって歩き出した。その後を男が追う。一人残された保安官はしばらくの間、遠ざかってゆく大男と少年の背中を見ていたが、やがて溜息をひとつ吐いて、おもむろに男の馬へと跨った。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ