第八十話【魔術翁の名】
翌朝、俺は知らない天井を見上げながら目を覚ました。
そっか。そういえば、昨日は魔術翁のおじいさんの家に泊めて貰ったんだっけ。と、思い出すまでにかかった時間は、ものの数秒だった。
「……そっか。よかった。君はちゃんと、ひとりでも……いや。みんなと、生きていけるんだね」
それがすぐにわかったのは、夢を見たからだった。夢を――マーリンから貰った力で、いつかもわからない未来を視たから。
そこには、笑顔のマーリンがいた。その隣にいたのは、姿を隠していない、狼のような顔のおじいさんがいた。
この小屋の主であり、クリフィアを作った魔術師でもある、魔術翁のおじいさん。マーリンの友達の、そのひとり。
そして……そこに、俺はいなかった。
「……予定通りなハズなのに、なんだかさみしくなって……」
いかん、泣いてしまいそうですぞ。
そう。その未来は予定通りなんだ。予定通り……願った通り、望んだ通り、夢見た通りの理想の未来だったんだ。
俺はいつまでもこの世界にはいられない。いつかは元の世界に帰って、マーリンの友達のデンスケじゃない、田原伝助としての生活に戻らなくちゃならない。
今のこの旅は、そのときにマーリンがひとりぼっちにならないための、友達探しと、社会適応のためのものなんだから。
わかっていても、さみしくて泣きそうになってしまう。この子が大きくなったころには、俺は隣にいてあげられないんだな、って。
なんだか大病を患った親にでもなった気持ちだ。どうして。まだ高校生だし、マーリンも歳はあんまり変わらないって聞いてるのに。
「……ぶがっ。ぐぶぶ……ぐぁんむ。なんじゃ、もう起きておったか」
「お、おはようございます、おじいさん。その……なかなか大胆なあくびですね」
あくびかいびきかわかんない音を立てながら大口を開けて、それからのっそりと起き上がったのは、くだんの魔術翁のおじいさん。
寝ぼけた姿には威厳はなくとも、しかし狼男然とした風貌の威圧感だけは残っている。口でっか……マーリンなんて丸呑みされそう……
「マーリンはまだ眠っておるか。感心じゃの。よく学び、よく眠ってこそよ。魔術師たるもの、そして子供たるもの、健やかであらねばな」
よく学び、よく眠り、か。その言葉は、まったくもって同感だ。
でも、ちょっとだけ意外だったな。そういう、まともなこと言うの。
実験には人間を使ったほうが早いとか、昏倒して起きなかったら実験に使ってしまえばちょうどいいとか、物騒極まりないことばっかり言ってたのに。
「あの……こういうこと言うと失礼かもしれないんですけど、おじいさんは……その、どっちが本音で、どっちが建前……それだと悪く言い過ぎか。えっと…………重要。そう、どっちが重要だと思ってるんですか?」
「どちら……とは、なんの話じゃ。重要かそうでないかと、区分けすることがらがあったかの?」
えーっと、そうだね、今のは俺の聞きかたが悪かったかも。さすがに要点を飛ばし過ぎた。
「えっと……ごほん。昨日、人間を相手に実験すべきだ……みたいなことも言ってたじゃないですか。そういう考えかたと、今の……子供はちゃんと学んで眠るべきだ、みたいな……」
「……ふんむ。人権を蔑ろにする発言と、対して生命を尊ぶ発言と。そのどちらにわしの真意があるのか。と、そう問いたかったわけじゃな」
真意……とまでは言わないけど。どっちに比重が寄ってるのかな……くらいは、気になるよ。
しかし、俺の失礼な質問にも怒ったりせず、おじいさんは一瞬も迷うことなくうなずいて、そしてまだ眠っているマーリンへと視線を向けた。
「その答えは、どちらも同じく重要だと思っておる……に、なるかのう」
「どっちも……ですか。どっちかに偏ることも、どっちかを否定することもなく、まったく同じ……ってことですか?」
うんむ。と、おじいさんはまたうなずいて、ゆっくりと視線を俺のほうへと戻した。
「研鑽に、研究に、あらゆることがらに必要であるならば、人命も、他の動物の命も、あるいは植物、無機物の資源に至るまでをも、等しく扱うべきじゃと考える」
「そのおおもとに根差すものは、そうでなければ正しい結果を得られぬからにほかならん」
そう言って、おじいさんは大きな手で俺の頭をボスンと撫でた。ちょっと乱暴に感じたけど、痛くもないし、嫌でもなかった。
「動物を相手の実験だけを繰り返して、そうして出来た薬品に、果たして人間を治す効果があると証明したことになるか。その答えは、ならぬ、じゃ」
治験……ってやつかな。あんまりわかってないことだけど、言われてみるとそれはそうだなと思える話だ。
おじいさんはそれを俺が飲み込んだと見ると、またうなずいて話を続ける。
人の大人だけを相手に試した実験も、同じく子供にも効果が望めるかと、あるいは大き過ぎる作用をもたらさぬかと、その証明は難しいものになる。
元来の人の営みから外れるからと、食さぬ、飲まぬものを体内に取り込む施術を非とすることは、試さぬうちには愚策と言わざるを得ない。
おじいさんが続けてくれた話を聞いていると、この世界に来てからのことよりも、むしろ元の世界にいたころを思い出した。
「……大人は三錠、子供は二錠みたいなもんか。それに……銀歯とか、骨折したとこにボルト入れたりとかも……」
この世界にはきっと、俺の知ってるものよりずっと未熟な技術と知識が広まっているハズだ。そういうところをこの目で見たのだから。
その中にあって、おじいさんの話は、ずっと先に訪れるのであろう元の世界の片りんを思わせる。
やっぱり、この人はただものじゃない。知識も知恵も、それに発想力も、ずば抜けて優れた学者なんだ。
「ふんむ。なんぞわからぬが、思い当たることがあったかの。そうであるなら話は早い。もうひとつの発言についても、同等に考えるべき理由もわかるじゃろう」
「……そっか。結果を求めるためには、手段を選んでいられない。でも、結果を求める理由は……」
何かを守りたいから。失いたくないから。あるいは、手に入れたいから。叶えたいから。
答えを口に出すまでもなく、おじいさんは深くうなずいて、もすもすと頭を撫でまわしてくれた。ちょっと爪が怖いけど、嫌な気分じゃない。
「医術とは、病人を守るためのもの。学術とは、未来に希望を拓くためのもの。魔術とは、未明から知識を得るためのもの。総じてそれらは、これからを生きる者達の世界を、よりよくするためにあるのじゃ」
「……そのためには、倫理観よりも最大の結果を出すほうがいい……と」
それは……ちょっと行き過ぎた考えにも思えるけど、否定出来る話じゃないよな。
俺が知ってる歴史の中にだって、似たような話はいくらでもある。
おおっぴらに人体実験だなんて言われてなくても、新薬の誕生した瞬間は、いつだって初めて投与される患者がいるんだ。
新しいものは常に、何かを踏み台にして現れている。
「もっとも、そうまで大げさに考えてはおらんがのう。都合がよいから使う。悪ければ使わぬ。明日を楽にするために学ぶ。どうにもならずとも、ひとまずは習う。それの繰り返しじゃ。ばっはっは」
「あ、あはは……いい加減なこと言ってるふうで、なんか真理を突きつけられた気になりますね……」
それはきっと、この人が本当にすごい人だってわかってるから……なんだろうな。心のほうは恐れ入りましたと平伏した気分だ。
「……んん……むにゃ、ふわぁ。デンスケ、もう起きてる……おじいさんも……」
「おはよう、マーリン。よく眠れたみたいで何より」
どういうこと? 何かあったの? とでも言いたげに、マーリンはまだ寝ぼけた顔のまま首をかしげる。
そんな姿を見れば、俺もおじいさんも笑うしかない。
こうしてマーリンみたいな子供が健康でいられるなら、そりゃあ人間の大人くらい実験に使っても…………よくない気がするね。
やっぱり、倫理観がおかしいんだ、魔術師ってのは。
そしてしばらく、ご飯を食べたり荷物をまとめたりしてから……
「――お世話になりました。また、立ち寄る機会があったら、次は手土産を持ってきます」
この約束、これから先にもいっぱいするんだろうなぁ。と、今更になってそんなことを考えながら、俺達はおじいさんに別れを告げる。
出発しなくちゃ。まだ目的は果たしてないんだ。
「おじいさん、またね。次は一緒に遊びに行こうね。キリエにね、きれいな湖があるんだ。一緒に水浴びしたら、きっと楽しいし、きもちいいよ。街もきれいだし、おいしいものもあるし、それに……」
「そうか、そうか。では、その日を楽しみにするかのう」
あいかわらず水浴びが好きだね、マーリンは。なんて、これのほうがもっと今更か。
炎を出せる彼女にとっては、寒さより暑さのほうが嫌な相手なんだろうし。
「……わしも、魔術師でなければ、おぬし達のように旅でもしていたのかのう。姿も隠せず、人に紛れられずに。そうなっていたならば……」
そうだったら……のあとを口にはせず、ばっはっは。と、おじいさんは笑った。楽しい可能性が思い浮かんだのかな。
でも……ちょっとだけ、その話には言いたいことがあるかも。あんまり偉そうなこと言える立場じゃないけどさ。
「旅なら、魔術師でも、今からでも、したらいいじゃないですか。楽しいですよ、本当に。まあ俺は、マーリンがいなかったらもう野垂れ死んでるかもしれないですけど」
魔術師じゃなかったら……って前提は、別にいらないと思う。
きっと、おじいさんはクリフィアを守るためにここを離れなかったんだ。この街の魔術師を導くために。
でも、それで我慢ばっかりしてるのも変な話だ。
それに……そもそもの話、こうやって隔絶されたとこで暮らしてるなら、結果は一緒だしね……
「……そうか。そうかそうか、そうだったの。ばっはっは! 魔術師であっても、姿を隠せても、それで暮らせていても、歩き回ってはならんわけではなかったの」
そんな簡単なことにも気づかんとは。と、おじいさんはまた大笑いして、俺の頭をボスンボスンと撫でた。ちょっとだけ痛い。あと、背が縮む気がするからやめて……
「魔術師ではなく、旅人として。あるいは次に会うときには、名を変えておるかもしれんのう。はて、しかし……そうとなれば、なんと名乗るべきか」
名前がないの? と、マーリンが躊躇なく尋ねると、俺がそれを諫めるよりも前におじいさんはうなずいてしまった。
ちょっと。かなりデリケートな話だと思うんだけど。ぶっこみ過ぎだよ、いきなり。心臓がどうにかなるところだった……
「……あっ。じゃあ、あだ名をつけましょう。次に会ったとき、俺達が呼ぶ名前を。そうだな……えっと……」
いや、これもいきなりだし失礼かな。って、ちょっとだけ不安になって様子を窺うと、おじいさんはなんだか楽しそうに何度もうなずいていた。
うれしい……のかな。よろこんでくれてるのか。そうだったら……俺もうれしいな。
「……マグルでどうでしょう。魔術翁だと威圧感あるし、かと言ってそこから離れ過ぎても馴染まないし」
その名前は、俺の知ってる大人気小説の中の、まあ……蔑称に近いものだけどさ。でも、魔術師じゃない人間って意味は、とてもマッチしてる気がする。
魔術師としてじゃなく、俺達の……マーリンの友達としての名前。うん、これほどぴったりな名前もないだろう。
「……マグル、か。ばっはっは! それはよいな、そう呼んでくれ。何より、短いのがよいな。どれだけ経っても忘れずにおれそうじゃ」
「わ、忘れる前には遊びに来るよっ。またね、おじいさん……じゃなかった。またね、マグル」
元気いっぱいにマーリンが手を振って、マグルも笑顔で見送ってくれた。それで……すぐに、この場所を覆っていた異変は消えてなくなった。
「……ま、まじかよ……やっぱり、いろいろと規格外過ぎるって……」
草原に伸びる影は、朝日を浴びて長く伸びている。それに、見えているクリフィアの街も、今度は俺達の歩みに合わせて動くのだろう。
で……振り返った先には、小屋もマグルの姿もなかった。
願わくば、幻の存在だったなんて話にはならないで欲しいところだ。ま、そうじゃないのは、視えた未来が証明してくれてるんだけどさ。