第五話【繋がった糸】
銀の髪。青い瞳。白い肌。そして、灰色の翼。
その影を見たとき、それは人ではないと思った。その姿を見たとき、やっぱり人じゃないと確信した。そして、何より……
「……今……のは、君……が……?」
まだ周囲を焼いている赤い炎に、彼女は一切驚いていない。火に対する動物的本能からくる恐怖心はどこにも見当たらない。彼女だけは、この炎の意味を理解している。
彼女こそが、この炎を使役しているのだろう。
「え、えっと……うん。ずっと探しててね、それでね、追い付いて……そうしたら、君が魔獣に襲われてたから……」
「魔獣……? それが……さっきの化け物の……」
魔獣……と、彼女はそんな呼び名を口にした。先ほど襲い掛かってきた――食い殺さんと牙を剥いていたあの化け物を、知っているものとして……
いや、待て。それよりもひとつ前に奇妙なことを言われた気がした。ずっと奇妙続き、理解出来ないこと続きだから流しそうになったけど……
「……探してた……ってのは、俺……を?」
「……? う、うん。そうだよ」
それはおかしい。だって、俺は君を知らない。告げる必要すらないその事実を握り締めたまま投げた問いに、彼女は当たり前と言わんばかりの顔で首を縦に振った。
待て。待て待て、待って欲しい。何もかもが急過ぎる。
あの化け物……魔獣についても気になるし、根本的な話として、ここまでの一連の出来事――目が覚めたと思った瞬間からのすべてが現実なのかもまだ理解出来ていない。
だと言うのに、この見知らぬ少女は俺を探してここまでやって来た……いや、“追って来た”と言う。
探していたと言った。けれど、ここにいると知っていたのだ、と。
つまり彼女は、おおよその場所は把握していたと言っている……のだ。
ダメだ、まったく考えがまとまらない。ひとつでも飲み込めないような事態がいくつもいくつも同時に迫るものだから、思考回路がパンクしてろくに機能してない。
もし……もしも、今の今まで考えてた全部が、間違っていたんだとしたら……
「……あ、あの……ね……っ。その……と、友達に……」
あの化け物は……魔獣とやらは、作り物――撮影用の小道具だとする。なら、どうして俺は噛まれたりした。痛い思いをして、大怪我もして、それが演出だなんて話があるものか。じゃあ……
痛みは現実のものだ。なら、魔獣も……現実……? ちょっ……と、待て。そんなことがあり得るのか。
ここは本当に日本なのか。ずっとあった違和感――景色とか、建物とか、空気とか、何もかもが外国のものに見えていた、感じてたものは、本当に外国の……?
「……? えっと……あの……あのね、友達に……なって欲しくて……だから……」
いや、違う。待て、根本的な部分――ここが日本だと信じられた、そう思い込めた原因は確かにあるんだ。
フリードリッヒと名乗った彼とは、日本語で会話をしたんだ。それに、今目の前に立っている少女とも。
ここがアメリカでもフランスでも、それこそアフリカでもなんでも、果たしてこうまですんなりと言葉が通じるものか。
答えは単純明快。絶対にありえない、だ。
絶対。そう、絶対なんだ。俺が日本語を話して、それを聞き取れて、そして日本語で返答をして、それを俺が突っ掛かることなく聞き流せる――不慣れさや不格好さ、他言語の訛りなんかが一切混じっていないなんてこと、仕組まなければ絶対に起こらない。
だからこそ、俺はこの場所を撮影現場だと断定して――
「――あの――っ!」
大きな声で呼ばれて、思考回路は一時的に遮断された。声の主は、やはり目の前の女の子。顔を真っ赤にして、うつむきがちに、それでも精一杯に自分を主張していた。
「……その、話を……聞いて欲しくって……っ」
「っ。ご、ごめん。えっと……」
話を聞け……とは、これまた耳も頭も痛くなる思いだ。
彼女が何者かは知らない。けれど、とりあえず俺に用事があることは聞いている。それなのに、勝手に自分の世界に閉じこもって、これっぽっちも関心を向けないのは問題があっただろう。
けれど……そう。彼女について聞いて考えるよりも前に、乗り越えないといけない問題が山積みになり過ぎている。それも揺るぎない事実なんだ。
良心か、それとも安心か。どちらも絶対に手放せないものなのに、天秤に掛けられてしまった気分で……
「……えっと……その、友達になって欲しい……って、言ってた……よね? それは……」
「っ! う、うん……えっとね、その……ね……」
仕方なく、安心の方を諦めることにした。状況を鑑みるに、どうあっても彼女は恩人で間違いないだろうから。無視なんて申し訳ない。
ただ……なんと言うべきか。いや、何を言わないでおくべきか。
とても可愛らしい女の子だと思った。
うつむいて影になっていてもわかるくらい大きくて綺麗な眼。煌びやかな髪。
華奢で儚げで、けれど……女の子だってことが服の上からでもわかる、少し丸っこいシルエット。
ただ……その背中から空に向かって伸びている翼が、どうしても飲み込めない。ただの可愛い女の子……では済まされない、とてつもない異常を感じ取ってしまう。
そんな彼女が、友達になって欲しい……とは、いったい……
「えーと……友達になって欲しい……なんて、その。見ず知らずの俺に言うこと……じゃないよね。いやその、えっと……嫌なわけじゃないんだけどさ」
不自然だろう、どう考えても。
その真意を確かめたくて、けれどもう回りくどく探りを入れるだけの余裕もなくて、うっかり……そう、うっかり。少し……傷付けてしまいそうなことを聞いてしまった。
ああ、ごめん。申し訳ない。そんな意図はなかったんだ。って、心の中で謝って、それをちゃんと……今度はちゃんと考えてから口にしよう……と、思っていた矢先。
また、違和感が目の前を通り過ぎた。
「……嫌……じゃない……えへへ。えっと……その、じゃあ……友達に……」
少女は俺の言葉に傷付くでも落胆するでもなく、あろうことか嬉しそうに頬をほころばせていた。
「えっと、うん。嫌じゃない。嫌じゃないから、友達になろう。なる……けどさ」
けど。と、俺の口はまた考えもまとまらないうちに言葉を発し始めた。
ああ、まずい。これはいけない。とても……とてもとても大きな問題を引き起こしかねない。そう思った、後悔したのは……全部言い終わってからだった。
「……その、なんで俺なのかな、って。今初めて会ったのに。それこそ、街に行けば他にも人はたくさんいて、知り合いだっているだろうに。なんで……」
口の中が苦くなった。血の味……じゃない。これは……たぶん、後悔の味。
概念的なものだと思ってたけど、本当にここまで苦いんだなって驚くくらい苦くて……そして、嫌な味だった。
無神経な言葉を聞いて、彼女は――さっき頬をほころばせていた少女は、とても寂しそうな顔でうつむいてしまった。
理由は……きっと、語られるまでもない。自分がそうなんだから、考えるまでもなかったのに。
少女は苦々しい顔で黙っていた。けれど、言葉よりも雄弁に語り掛けるものがあった。
空に向かって伸びていた翼が、小さく小さく折りたたまれてしまった。天を衝かんばかりに広げられていたその影は、もう彼女の背中に隠されてしまいそうだった。
それでも、その翼が見えなくなることはなかった。それが理由なんだろう。
「……友達は……いなくて。誰も……なって……くれなくて……っ」
もう理解した――してしまった答えを、少女はつらそうに語り始めた。
見るに堪えないと目を背けそうになって……もう散々ひどいことをしたのだから、せめてそれだけは……と、俺は必死にその姿と向き合い続けた。
姿形が他の人とは大きく異なるから、自分は誰とも友達になって貰えなかった。
どこへ行っても居場所がなかった。山へこもっても、登ってくる村の人に怯えて隠れていないといけなかった。
「……それでも、どうしても……っ。どうしても……寂しかったんだ。だから……」
少女は今にも泣きそうな目をこちらへ向けて、一歩だけ――慎重に、それがとても重大な出来事であるかのように、そうとまで錯覚してしまうほど弱り切った心で、たった一歩を必死に踏み出した。
その姿を見るだけで、俺の中では答えが決まっていた。彼女の友達に……なんて、傲慢かもしれないけれど、求められたからには応えたい。だって、こんなにも健気で、頑張ってるんだ。
こんな俺で報いになるなら、どんなことでも…………
「……だから、君をここへ召喚したんだ。えへへ……えへ……」
「……うん? 召喚…………召喚?」
ワッツ? え、今……なんと……?
理解出来ない単語だった。いや、知ってる。知識としてはある。
召喚。裁判所が証人なんかを呼び出すことを、ちゃんとした言葉では召喚って言うんだ。
それとは別に、その……サモン的な。査問じゃなくて、サモン。RPGとかカードゲームでありがちな方の召喚…………えっ?
「えへ……あっ。えっとね、怪我もね、痛くないようにね……」
「へ……? 怪我……怪我…………大怪我っ⁉」
待って、待って待って、なんか話が違う。流れが違う。思ってたのと違う――ッ⁉
健気な女の子だと思った。報われなくて、それでも頑張ってる子だと思った。でも……なんか、それだけじゃないらしい。
怪我がどうこうという彼女の発言に思い出したのは、ついさっきまであの化け物――魔獣に、腕を噛まれてそこらを引っ掛かれてたってこと。
だから、もうそこかしこから大量出血しててもおかしくない……ハズだった……こと…………
「すぐにね、治るようにね……えへへ。そういう風にしてあるから、安心してね」
見るまでもない。大きな牙が食い込んでいた腕からは、もう血なんて一滴も流れていなかった。
「……安……心……?」
安心。はて、俺の知ってる単語と意味が違う。
事情はまだ理解出来てない。そして、納得も出来てない。ただ……ただひとつ。たったひとつ、わかったことがある。
これが夢でないのなら、目の前の存在は常識からあまりに掛け離れた特異な存在だ。そして……そんな存在から、どういうわけか俺は目を掛けられている……らしい。
だから……俺は、彼女の機嫌を損ねてはならない。たったひとつ、これだけ。これだけを理解して……そして、遵守しなければならない。
えへへと笑う弱々しい少女を前に、俺の心臓は爆ぜてしまいそうなくらい速く脈打っていた。