第七十三話【主】
この場所は何かがおかしい。
沈まない太陽、進まない道、変わらない景色にそう思った。
けれど、場所の問題じゃないのかもしれないと、その可能性を提示された。
マーリンが口にした言葉。それは、結界魔術という、まったく聞き馴染みのないもの。
あるいは、聞き馴染んでこそいるものの、この世界に存在するそのものとは根本から違う、なんの役にも立たない知識だけがある言葉だろうか。
「時間感覚が狂わされてるのか、それとも視覚を乗っ取られてるのか。本当にそんなこと出来るのかってとこから、マーリンはどう思う?」
俺の手を引っ張ってずんずん進むマーリンの背中に、俺は情けないくらい丸投げな質問をぶつける。それしか出来ないとはいえ、本当に歯がゆいばかりだ。
「……感覚に働きかける魔術……っていうのは、聞いたことがある……よ。でも……こんなに大げさなことをする魔術なんかじゃなかったと思う」
大げさなこと……ってのは、いったいどんな視点から見た、どんな事象を指す言葉だろう。
マーリンは優秀な魔術師だが、しかし学者としては評価も難しい。彼女の中にはきっと答えがあるのだろうが、それを周りに伝える手段が乏しいんだ。
でも、今はそれをどうこう言っても仕方がない。もっとわかりやすく。と、まっすぐお願いすれば、マーリンはちょっとだけ困ったふうに首をかしげて、必死に言葉を探してくれた。
「……見えるものが違う……とか、動いたつもりにさせる……とか。そんなのは、出来ない……と思う。僕が知ってるのは、視界の一部分に意識を向けさせるとか、逆に一部分には集中出来ないようにするとか……」
それは……ええっと、錯覚を利用した、手品みたいなもの……って認識でいいんだろうか。
しかしながら、そうなればなるほど納得だ。そんなレベルの魔術とは、とても比べ物にならない事態が目の前に広がっているんだから。
足元の影は……やっぱり、まったく伸びていない。この草原に到着したころからだと推測して、もう三時間近く太陽が動いていないことになる。
こんなの、錯覚なんて話じゃ済まされない。
あるいは、時間が進んでいること自体が錯覚……実際には、草原に来てからまだ数分しか経っていない……なんて、それももっとあり得ない。
没頭して時間を忘れることはあっても、その逆はどれだけ頑張っても限界がある。
退屈過ぎて長い時間に感じたとしても、時計の針は着実に前へ進む。そこにギャップこそ生まれても、停滞は絶対にありえない。
「……じゃあ、もしもこれが本当に結界魔術とやらだとしたら……っ」
これをやってるのは、マーリンの持ってる知識をはるかに凌駕する魔術師……ってことか。
もちろん、知識について彼女がこの世界で一番だ……とは思っていない。どちらかと言えば、その分野に限ってのみ、並の魔術師よりも劣るのだろう。
けれど、それと目の前の事象を解読出来るかどうかは別だ。
マナが見える……って話を、俺が勝手に過剰解釈してなければ、マーリンは魔術の組成が目で見てわかるんじゃないだろうか。
オールドン先生の魔術を真似たときには、きっとそういうことをやったんだ……と、思ってる。
「……デンスケ、こっち。こっち……じゃない、やっぱりそっちかも」
そのマーリンが手がかりひとつを掴むことさえ出来ないで、あるのかもわからない魔術の痕跡を探しながら、ただやみくもに草原を走り回らされている。
しばらく無為に歩き続けると、マーリンの手に汗がにじんでいるのがわかった。俺のも混じってるだろうし、そもそもこれだけ歩けばそりゃあ……ってのもある。
でもそれが、彼女焦りや緊張から来るものだとも理解出来た。
「……こっち……でもない。あっちは……さっき、行った……? でも、ここは……」
「こうも景色が変わらないんじゃ、どこを調べてどこを調べてないのかもわかんないな……っ。って、そうだ」
じゃあ、目印をつけながら進めばいいじゃないか。なんでこんな簡単なことにも気づかなかったんだ。
「マーリン、何か印を残しながら……あ、いや。地面に何か書いても、その場所に行くまでは見えない……よな。何かを置いてきても……」
なんで気づかなかったんだ……と、ひらめいてから数秒後。それを口にしてから、簡単じゃないんだとも気づいた。
この場所は草原で、何もない場所だ。
何もない……が、しかし本当に無の空間ではない。足元には、背の高い草が生い茂っている。
この草が厄介だ。地面に印を打ったとしても、その目前まで行かなければ視認出来ない。それじゃあ目印には到底なりっこない。
「……あっ。そうだ、この草を目印にすればいいんだよ。デンスケ、ちょっとだけ離れててね」
目印が準備出来ない……と、苦悩する俺に、マーリンはひとつの解を見せてくれる。
何度か聞いた言霊を唱え、何もないところに炎を灯し、そしてそれで草原の一部分を……今立っているこの場所から周囲数メートルを、思い切って焼き払った。
「お、思い切りが良過ぎる……気もするけど、これなら目印になるね。マーリン、定期的にこれを残しながら進もう」
ミステリーサークルと言うか、キャトルミューティレーションと言うか、しっかりと不自然な目印が草原に刻まれたのを見れば、どうして最初からこうしなかったのかと……ごほん。これで、やっと前に進めるんだと実感を得られた。
得られた……のに……
「……? マーリン、ちょっと待って。一回戻ろう、なんかおかしい」
「デンスケ……? どうしたの?」
じわりとまた汗が背中を濡らして、それが気になって後ろを振り返った……真後ろを、進んで来た方角をまっすぐに振り返った……ハズなのに……っ。
「……さっきの炎、そんなに小さなものじゃなかったよね。焼き払った草は、片手で束ねられる程度のものじゃなかった。じゃあ……」
その穴は、くっきりと見えてなければおかしい……だろう。
もちろん、離れ過ぎれば見えなくもなる。周りの草が高くて、その場所だけ歯抜けになっているわけだから。隠されれば、それは当然見えなくなる。でも……
「……っ! もう、そんなに進んだ……の? でも、じゃあ……えっと……」
足元の影はまだ短い。一ミリとして伸びた気配はない。でも……
背後、まだ数メートル先にあるハズの焼けた穴は、もうどこにも見当たらない。
嫌な感じに背中を押されて、今度は俺がマーリンの手を引っ張って走り出す。その穴があったハズのほうへ。さっき来た道を、まっすぐに戻ろうと…………
「……っ。ああ、もう。これにもなんで今になって……っ。目印は駄目だ、まったく意味がない」
ふたりが通ったその場所が、どうしてまたまっすぐに伸びた草に覆われているんだ。
そのことに気づけば、戻ることに意味がないんだともすぐに理解した。理解……させられた。
「この場所は……この光景は、一度目を離せば全部元通りになる……ってことか……? じゃあ、これは幻で……?」
幻覚……だとして。じゃあ、手の甲をこする草の感触はなんだ。
マーリンから貰った体温まで奪いそうな風の冷たさも、全部でっちあげ……なんてことがあり得るわけ……
「……っ! デンスケ、ちょっとだけ……ちょっとの、そのもうちょっとだけ無茶するね。だから、僕のそばから離れないで」
「マーリン……? 何するつもり……いや。わかった、任せる」
力が抜けそうになった手をまたぎゅっと握られたから、マーリンが何をするつもりなのかもすぐに伝わってきた。
伝わったら、それがどれくらい危ないかも予想出来ないから。
離れるなと言われた以上、肩がくっつくくらい近くまで寄って、彼女のしでかすこれからをじっと見守る。
「……すう。燃え盛る紫陽花――っ!」
大きな叫びとして唱えられた言霊は、真っ赤な炎を噴き上げる。これまでに見た中でも、かなりの高出力だ。
その大火力を以って、あたり一面の草原すべてを焼き払う。そうすれば、きっとこれまでには見えなかった何かが見えるハズだ……と、そう信じて――――
「――なんじゃ――わしの庭で、ずいぶんと無礼な――」
――――いたのに――――
炎は何も焼き払うことはせず、燃料を失ったようにすぐさま消えてしまった。
こんなことは一度もなかった……と、そう言わんばかりに、マーリンは目を丸くして、大慌てで周りを警戒し始める。けど……
その警戒はもう必要なかった。いや……警戒は、まだ必要かもしれない。
ただ、どこを見ればいいのかと、見回す必要はどこにも残っていない。
「――誰じゃ。この魔術翁の庭に立ち入って、挙句に暴れ始める不届きものは」
「……魔術翁……っ。この……人が……」
目の前には、小柄な男性が立っていた。深く被ったローブで顔はよく見えないが、しかし低くくぐもった声から、老齢の男性であるとだけは推察出来た。
けれど、それ以外はわからない。何もわからない存在が、一度聞いた名前を口にしてそこに立っている。
魔術翁。それは、ガズーラじいさんから聞いた、クリフィアを作ったという魔術師の肩書きだった。




