第四話【その物語の始まり】
目の前に並んでいるのは、まるで見たことのない異形な獣だった。
これがファンタジーの世界なら、きっとモンスターやクリーチャーなんて呼ばれ方をしているんだろう。
けれど、この瞬間にそんな呼び方をしようなんて思わない。思っていられない。もしも思ってしまったら――
「――っ」
足の裏がちくりと傷んだ。やっぱり、どこかで切っていたんだ。ただその傷が小さくて見つけられなかっただけ、なんだろう。
気にすれば気になるけれど、気にしなければどうってことのない痛み。今はそれがとても恨めしい。その痛みが、この窮地を現実だと――夢の中でないと報せている気がしてしまうから。
ここはどこだ。そして、これはなんなんだ。思考の一番奥に根差した致命的な不明が、現状の打破を画策する邪魔をしている。
ここは撮影用のスタジオで、セットで、作り物で、安全な場所……じゃなかったのか。そう思っていたのは、勝手に安心していたのは、俺だけだったのか。
この生き物はなんなんだ。群れを成している、そして発達した犬歯を剝き出しにしている以上、集団で狩りをする生き物である可能性は高い。
弱い生き物を取り囲んで、逃げ場を潰してからいたぶって食らう。きっとそういう生き物で……そして、その準備はすでに完了しているのだろう。
これは、モンスターやクリーチャーと呼ばれる、ファンタジーの中の存在ではない。この獰猛な獣は、姿形に見覚えがないだけの、危険極まりない現実の存在なんだ。
「っ! だ――誰か――」
誰か、近くに誰かいないか。いてくれないか。縋る気持ちで声を上げて……けれど、それよりもずっとずっと大きな遠吠えにかき消されて、必死に保っていた平静があっけなく崩れる。
死にたくない。殺されたくない。こんなものに食われたくない。
考えれば考えるほどに頭がおかしくなる。
ひとつ眼の化け物に食われて死ぬなんて、それのどこが現実なんだ。まだ夢の中から覚めないでいるのか。と、思考回路が現実逃避を繰り返す。
これは現実ではない。これは夢だ。あるいは、まだ何かの撮影中――ど素人の高校生なんかじゃ知る由のない、特別にリアリティが高められた特殊撮影技術が開発されて、今はそれのテストなのかもしれない。
こんな馬鹿げたことがあってたまるか。痛いのも嫌だ、死ぬのも食われるのももっと嫌だ。けれどそれ以上に、そんな恐怖を前にくだらない妄想に逃げてしまっている自分が嫌だ。
もっと強くて、かっこよくて、マシな人間だと思ってたのに――
「――――っ! うわぁああ――っ!」
グワァウ! と、一頭が吠えたから、俺は情けないくらい大きな悲鳴を上げた。けれど、その大きな声にも化け物は怯まなかった。
このまま死ぬのか。ついさっきひとりで勝手に盛り上がって、理想と夢に向かって頑張ろうって気分を高めてたばかりじゃないか。なのに、死ぬのか。
あっけないにもほどがある。ふざけるなよ、どうしてそんなことがまかり通る。
死にたくない。死にたくない死にたくない死にたくない――っ。
でも――念じて何が変わるでもない。化け物はついに様子見をやめて、一斉に飛び掛かろうとしていた。
牙を剥き出しにして、よだれをぼとぼと落として、どっちを向いてるのかがはっきりわかり過ぎる単眼を見開いて、そして――
「っ! い――ぁあああ!」
五頭のうちの一頭が今までで一番強く吠えると、残りの四頭がものすごい勢いで突進してきた。大きく開いた口からは、生き物とは思えないどす黒い色が見えていた。
痛みは……もう、わからなかった。牙を突き立てられて、そこがじわじわと熱くなって、ただそれだけ。もう、恐怖さえ湧かなかった。
これで死ぬ。もう、覆すことは出来ない。食い殺される。これで――終わる――
頭の中は諦念でいっぱいだった。ただそれでも、身体だけが必死になって抵抗している。
痛いから。理解出来ないだけで、実感が追い付いていないだけで、それは当然痛いのだから。身体は反射で防御をしようとする。でも……
食い付かれた腕を振りほどこうともがいても、化け物が首を振るう度に肩が外れそうなくらいの力で引っ張られる。
頭に齧り付こうとしている化け物を追い払おうとしても、他の二頭が覆い被さるようにのしかかって身動きが取れない。
死ぬ。このまま、痛みも恐怖もわからないくらいぐちゃぐちゃにされたまま、あっけなく死ぬ。
嫌だ。嫌だ、死にたくない。まだやりたいことがある。死にたくない。死にたくない。死にたくない。まだ――
――――応えて――――
声が聞こえた気がした。走馬灯なのか、幻聴なのか、現実なのかもわからない、わかる必要のない声。
聞いた覚えがある。それは、この場所へいざなう声だった。いや、違う。ここへ来ようと勝手に舞い上がるきっかけになったひとつだ。
もしかして、人の声まねで獲物をおびき寄せる化け物だったのかな。諦めた頭は、そんなくだらないことを考える。
腕を噛まれ、振り回され、のしかかられて息も苦しい。そんな地獄の中で、その声だけがはっきりと聞こえた。
はっきりと――
「――誰――だ?」
腕から痛みが消えた。実感出来ない、理解の追い付いていない痛みが、確かに消えてなくなった。
息が楽になった。苦しさを与えていた重さがどこかへ行って、胸がすっと通るようになったらしい。
恐怖がどこかへ行ってしまった。目の前に迫っていた大きな口が、もうどこにも見当たらないから。
だから、まだそこらじゅう痛いハズで、息も整ってなくて当たり前なのに、全部が解決した気分になった。
それはきっと――もっともっととてつもない終わりの形を目にしたから――なのかもしれない。
炎だ。目の前には、さっきの化け物の口の中よりもさらに黒い煙を噴き上げる、腕から流れる血よりも赤い炎がごうごうと燃え盛っていた。
どうやら化け物は、この炎に巻かれたらしい。それに囲まれていた俺だけを残して、五頭が残らず焼き尽くされて……
「――間にあった――っ。やっと追い付けたよ――」
声が聞こえた。さっき聞いたのと同じ声――でも、さっきよりずっとずっと切羽詰まった様子の、けれど明るい声。
炎の向こう側に影が見えた。それは、人影にも見えた。二本足で立っていて、小柄で、こちらと正対しているか、あるいは背中を向けている影。
けれど、人間のそれとは掛け離れた影。
髪は銀色だった。炎に照らされて赤らんでいても、それは見間違えようのないものだった。
瞳は綺麗なスカイブルーだった。瑠璃とか、海の色とか、言い表す言葉はいろいろあるだろう。赤色に負けないくらい強い、輝かしい青だった。
手が小さくて、華奢で、少しうつむき気味な立ち姿は、どうにも頼りない印象と、気弱なのだろうという思い込みを押し付ける。
なのに――俺はその姿を、人間のものだとは断定出来ないでいた。それは――
「――――天使――――?」
小さなその身体にはあまりに似つかわしくない、大きな大きな羽が――猛禽のような翼が、その背中から天に向かって伸びていたから。
「――は――はじめまして。僕と……僕と、友達になってくれませんか……っ?」
次に聞いたのは、化け物の咆哮でも、炎が木々を焼き倒す音でもなくて、まるでこの場に相応しくない、女の子が振り絞った、平和でのどかなお願いだった。