第三話【幕は明けない】
「……フリードリッヒ王子……か」
腰に巻いた上着に手を当てながら、さっき出会ったばかりの彼の名前を口にする。
おそらくは少年だった。威風堂々とした出で立ち、そして日本人にはない深いホリからは正しい年齢を推測出来なかったけれど、上背はまだ中学生くらいだっただろう。
それでも、彼からは威厳と雄大さを感じた。セリフ回しについても、堂に入って非の付け所などはどこにも感じさせない。
「あれが俳優……それも、主演を張るレベル……か」
同じ志を持つ者として、これほど身の引き締まる思いはない。あれだけの演技が出来て、度胸もアドリブ力もずっとずっと高い。愛好会や部活動じゃない、きっとプロがいるような劇団に入ってるに違いない。
あるいは、もうすでに……
「……っ」
考えるだけで身震いしてしまう。
そりゃあ、自分より子供で自分よりずっと長く芝居をやってる人間なんてごまんといる。それは知ってる。
でも、それを間近で見るのは初めてだ。目の前で体感したその凄みは、テレビ越しには理解出来なかった。少なくとも、今こうして感じてるショックは本物なんだから。
ただしかし、根本的な問題……と言うか、疑問が解決していない。結局ここはどこなんだ。
さっきの大立ち回りでストップが掛からないってことは、まだ何か残ってるのか。はたまた、ここは撮影スタジオじゃなくて、俺がただ暴れてるだけの変質者になってるのか。うーん……
「……いや、それはない。でなきゃさっきの展開に説明がな」
怒られたは怒られたけど、結果として捕まってない。そもそも、あんな大きい剣がリアルで出てくるわけがない。
だから、ここは中世ヨーロッパ風の撮影スタジオ、その現場で間違いはないんだと思う。
で、さっきの反応を見るに、俺は勝手に迷い込んだ部外者ってわけでもない、と。もしそうなら、一回止めてつまみ出さなきゃいけない。演技続けてる場合じゃないので。
「シーンを変えてもう少しやらせてみよう……って、思われてるのかな。うーん……だとすると……」
この状況を好意的に捉えるなら、予想外の出来だったからもう少しだけ泳がせてみようと思われてる……とか。
もちろん、そんなのは勝手な思い込みかもしれない。いや、十中八九そうだろう。
でも、もしこれが本当に審査とか試験だったとしたら。これは千載一遇のチャンスなんだ。
これが試験かどうかは別としても、芝居の世界であることには変わりない。なら、ここで爪痕を残すくらいの気概は見せないと。目指してるものがある以上は。
「……よし、ならこっちだな」
さて。また仮定の話に戻るけど、もしもこれが試験なら……芝居の引き出しの多さとか、真に迫ったものがどれだけあるかとか、そういうのを見るためのものだとしたら……だけど。
市街地でのシーンが終わった。なら次は、もっとひらけた場所での撮影に進むんじゃないか……とも思う。
例えばの話だけど、これがアクション映画だったらどうだろう。もちろん、そんな規模じゃないのは承知の上で、例えの話。
中世を舞台にしてて、あれだけ立派な……豪華って意味じゃなくて、リアリティを求めた鎧や剣があったんだ。それが活躍するシーンは、間違っても平和な市街地での食べ歩きシーンじゃない。
求められるとすれば、今度は屋外での動きのあるシーンだ。
まず候補に挙がるのは、騎士の決闘……とか。でも、これには無理がある。それをするのは主役の仕事で、少なくとも半裸の俺じゃない。
もしそういう役が回ってくるとすれば、さっきのところで捕まえられて、コロッセオみたいなところに連れて行かれる誘導があると思う。でも、それはなかった。
じゃあ次に考えられるのは、戦争のシーン……そのエキストラのひとり、とか。でも、これも難しい。だって、それをするにはもっともっと広い場所と大勢の演者が必要になる。でも、そのどっちも見当たらない。
大きい候補がふたつ潰れると、次に考えられるのは……と言うか、メタ的に考え付いてしまうのが、林の中でのシーンだ。
別に、これはイメージ出来るものが多いわけじゃない。でも……冷静に考えて、だだっ広い場所に行って欲しいわけがない。
だって、人もカメラも隠れられないんだから。
この様子が観察されてるなら……って前提が正しいなら、ここは物や人を隠せる場所を選ぶしかない。
「そうと決まったら……靴も貰えば良かったなぁ……」
そういうわけで、市街地に背を向けて、少し遠くの林を目指すことにする。する…………うん。
さすがに生足半裸で進むのには険し過ぎる。いえ、道のり自体は平坦ですが。砂利混じりの土の地面を歩くだけで、現代人には大きな障害なんですなぁ。
「……ま、しょうがないか」
嫌だけど、くじけそうだけど、でも……さっきの今で貰ったばっかりのモチベーションを下げてても仕方ない。ここは割り切って行動あるのみ。
――――応えて――――
「……ほ? 今のは……はて」
さあ、腹をくくって進もう。と、ガッツを入れたばかりのところに、女の子の声が聞こえた……気がした。気がした……だけ?
でも、その声には覚えがある……気がした。その言葉も……たぶん、聞いたことがある……気がする。
「……むむむ?」
気がする気がすると、何もかもがあいまいな話なんだけど……どうしてか、妙に気をひかれて仕方ない。
かわいい声だったから? イエス。でも、それだけじゃない。もしかしたらそういう設定で話が進行してそうだから? それもイエス。そんな気もしなくもない。
でも……やっぱり、それだけじゃない。気がするんじゃなくて、これは確信。
自分の中に、なんだかとてつもなく大きな力を感じる。実体のあるものじゃないけど、引力が働いてるような。
「直感……なんてものをアテに出来るほど、積み上げたものがあるつもりはないんだけど……」
このわくわく感には従ってみたい。
これはあれですな、夜中に散歩してると全然知らない道に入りたくなるアレと似ていますな。え? ならない? そもそも夜中に徘徊しない? またまた御冗談を。と、まあそんなふざけた考えばかりではなくて。
この引力はつまり、直感的に面白そうな場所――自分だったらここで何かをしたい、させたい、しているところを見たいと思う場所……なんだと思う。
これがあってるか間違ってるかなんて関係ない。そもそも正解なんて知らないんだから。
あと、もっと根本的な話として……
「……こっちだった……よな? おーい、誰かいるんでござるかー? 返事するでござるー」
声が聞こえた気がしたほうが、もともと行く予定だった林の辺りだったんですなぁ、これが。
理屈に基づいた自分の考えと、直感的に面白そうと思った自分の思い付きとが合致したなら、それはきっと正解なんだ。
自分の考えを正当化するために勝手に紐づけしただけとか、変なバイアスだろjkなどなど、耳の痛いご意見もきっとあるでしょうがそれは拙者には届かなーい。
行くと決めたからには行く。それでもって、まあ何も起こらなければそれはそれで良しとして帰ってご飯食べる。それだけですぞ。
と言うかですな、そろそろネタバラシしてくれないとダレてしまいますな。拙者がどれだけ良いリアクションを取ったとしても、だらだら引き延ばせばそれは惰性に過ぎなくて……
「…………ほ? ほーむむ……ほう。これは……あれですかな?」
行くと決めたからにはと突き進んで、振り返りもせずに林の入り口を通り過ぎて、じみーに足の裏とか切った気がしたりしなかったりするころのこと。なんだか、ちょっと……こう、嫌な予感のするものを見つけてしまいましたぞ。
目の前にあったのは、それなりに太い木。樹木。ツタとか巻いてる系、ジャングルツリー。で……それ自体は良くてですな。
問題があるのは、それに大きな傷が付いていること。それだけならば、手の込んだセット……という話でスルー安定。安定……とは問屋が卸さなかった理由が……
「……ちゃんと臭いですな。これはまた立派な……立派も立派な、本物の……」
その木の根元に、動物のものと思しきうんちを発見してしまったんですなぁ。
これはセットに不必要なものだ。少なくとも、本物である必要も、本物に似せた臭いものである必要もない。
では……これは何か。答えは……
「ここは……撮影用のセット……の、外……? あるいは、自然環境を利用した、本格的なもので……」
セットがどう作られているかに関わらず、ここにはうんちをする動物がいる。つまり……
「――素足――切り傷――破傷風――――っっっ⁉ ほーっ⁉ ほっ⁈ だ、だだだだだ大問題でござるぅーーーっ!」
し、死にとうないでござる――っ!
ここは準備されたスタジオではない。少なくとも、それよりも外の空間。つまり、衛生面には問題しかない場所。
こんなところで裸足半裸はアウト! アウト過ぎる! 足のケガからも、それにおちんちんからも病原菌が入って……しまって…………
「……あ……れ? 足、さっきちょっと切ってた気が……」
ひとまず傷口の消毒を……と、ケガをした気がする方の足を持ち上げて、じっくりと見て……も……
「勘違い……でしたかな? ちくっとしたのは、ちょっと石がめり込んだだけ……? それで……」
それで……いやいや。それでも、こんなところで半裸が結局まずい。本当にケガをする前に、そして大切な息子が腫れ上がってしまう前に脱出……を……
「……なんですかな、それ…………っ。なんだよ……これ……っ!」
ちょっとしたパニックの隙、ほんのわずかな一瞬。ただの高校生の、もともと高くもない警戒心がさらに下がってるその間。異変はもうそこまで迫っていた。
ここには糞をする動物がいる。それも、かなり大きなものだ。
ここは管理された場所の外だ。であれば、カメラも誰も入ってくることはないのだろう。
では、こんなところで問題が起こったらどうなる。どうする。たとえば……
「――嘘――だろ――っ」
気付いた時にはもう手遅れだった。
目の前には、五匹の動物がいた。そのどれもが大型犬よりもひとまわり大きくて、ぎらついた眼を――作り物じゃない証拠を、顔のど真ん中にひとつだけ持っていた。
体温が高い、興奮状態にあることが離れていても分かった。息遣いから。そして、漏れ出すよだれの悪臭から。
これは――撮影でも演技でも――――