第五百六十六話【背を押す者】
「やっと来ましたな。はてさて……中はこんな様子ですが、アギト氏はどう考えられまする?」
怪しいと睨んだ空きビルに侵入して、そしてふたりが追いついたところでそんな問いを投げてみる。
アギト氏は……と、言葉の上では彼に尋ねたけど、しかし……当然ながら、意見が欲しいのは隣にいる勇者ちゃんのほう。
けどまあ、初対面でこんな小さな女の子を頼りにするのは、いくらなんでも変……不自然だから。
表面上は、偶然にも鉢合わせた友人の意見を聞いていることにしたいわけだ。
しかし……またなんとも……当然ながら……と言うと失礼か。うん……失礼だけど、実際にそうだから困ったものだ。
俺の問いに対してアギト氏は、どうって……と、周りをきょろきょろ見回して、困り果てた顔をして、なんにも答えらしいものが思い浮かばないらしくて……
なんて言うか、本当に……本当にこの男が魔獣を呼び出しているんだろうかと不安になるな……
こんなに平和ボケしてるのに、こんなに危機感を感じないのに、本当に厄介ごとの中心にいるんだろうか。
よもや……よもやよもや、本当は俺が原因なのか……? なんて、そんなわけないのに疑ってしまいそうになる。まったくもう……
まあ……いいや。のんびりしててくれるぶんには困らない。むしろ、変に緊張されるほうが厄介だし。
なら、俺ものんびり気分を表に出しておこう。それで危険が遠ざかるなら、ボケ得だ、この瞬間は。
「秘密基地みたいでワクワクしますな! しかし、もう子供のころの無邪気さを発揮出来る歳でないという残酷な現実……」
ボケよう。うん、それはもう、いっぱいボケよう。ボケボケにボケ倒そう。
幸いなことに、普段の拙者達は……普段のアギト氏とのやり取りは、拙者がボケでアギト氏が重ねボケ……ボケしかいない大ボケ空間なのですな。
だから、こんなときにも拙者がボケてることには違和感もなし。うーん……駄目な大人みたいで嫌だな……勇者ちゃんの前で見せたくない姿だ……
「あの頃ならコラーで済んだものの、今やると不法侵入……つまりはお巡りさん案件。ということで、外から見えるこの階は、なるたけサクッと通り抜けたいところですが」
「それだけわかってるならなんだって立ち止まったのさ……こんな、何もないでしょ。見た通りに」
うんうん、ナイスボケ返し。本人はつっこんでるつもりっぽいのが余計に……こう……真正のボケだよなぁ……と……
「……何もない……というのが気がかりでしてな。いえ、考え過ぎなら結構」
この場所が怪しいと思ったのは、俺ひとりだけじゃない。アギト氏だけでもない。最も脅威に対して鋭敏なセンサーを持つ、この小さな勇者ちゃんも同じ意見なのだ。
つまり、ここに魔獣の発生原因が存在することはほぼ間違いない。間違いない……と、そうするのなら、だ。
「もっとこう、待ち受けるのであれば、備えがあってもおかしくないかと。これだけ広い空間があるのなら、せめてあの怪物の一頭でも飼えばいいのに」
これまでの動向を鑑みれば、こちらの接近、そして侵入は、当然のごとく感知されているハズ。
ならば、ここに罠が仕掛けられていないのは不自然だ。少なくとも、魔獣の一頭や二頭は配備しておくべきだろう。
俺の言葉を聞いてようやく事態を把握したらしいアギト氏は、目を丸くして、ちょっとだけ考えた末に……外から見えて騒ぎになるのを嫌ったからではないかと言った。
なるほど、とっさに出る意見としてはスマートで、かつ理にかなったものだ。こうもボケ倒しておいて、案外冷静に状況は分析出来る男なんだな。
でも……だ。
「あるいは、手懐けられていないのかもしれませんな。ゆえに、自身も出入りするこの地点に怪物を置くのは下策、と」
魔獣はすでにあちこちで実体化し、いくらでも騒ぎを起こしている。少なくとも、アギト氏が被害を受けた地下駐輪場での一件は、ニュースにもなっているわけだから。
それに、ここに来るまでのあいだにも多くの魔獣が出現した。俺達が出現させてしまった……のだけど。
しかし、経緯はどうあれ、魔獣を出現させる――衆目に晒すことについては、もう抵抗がないと思っていいだろう。
それに、この場所は周りに人がいない。人通りがなく、近隣に住民もいない。
だからこそ怪しいと思ったし、怪しいと思ったからには、やはり待ち受けるものがあるだろうと身構えたんだ。
でも、ここには魔獣の姿がない。最悪の場合、建物の中はすでに魔獣の巣窟と化していた……なんて事態まで想定していたにもかかわらず、だ。
なら、それには何かしらの事情があるのだろう。そのひとつが、犯人はまだ魔獣を完全には使役出来ていないのでは……というものだ。
「とすると……もしかして、この先にはもう魔獣はいない……? なら、サクッと解決出来そうだね」
とまあ、そんな話をした途端に、アギト氏の表情からは緊張の色が薄れ、またなんとものんきな言葉が飛び出した。
さっきはちょっと見直したのに……なんだってそうボケボケにボケてくれるんですかな……
「階段階段……っと、あっちか。外階段じゃなくて助かるね。見られるとちょっと困るし」
「そうですなぁ。外に人の気配はありませんでしたが、しかしこの監視社会で人の目がないなどという場所もなく」
ボケててくれるぶんには……と、これもあんまりフォローにはなってないけど。
さっきまで怯えた目をしていたくせに、ちょっとだけ元気になって、誰よりも前を勇敢に歩き始めた姿には……こう……おお、もう……という気持ちが……
「……アキト、ちょっと待って。すん……嫌なニオイがする」
「ふむ、奇遇ですな。重苦しい気配が一気に膨れて来ましたぞ」
しかし、アギト氏がどれだけボケていようとも、隣の勇者ちゃんはさすがに違う。
アギト氏はもちろん、俺よりもずっと早い段階で脅威を嗅ぎわけ、幼い表情のくせして警戒心を剥きだしにした。
どうやら……いや、これもまた当然、か。アギト氏がどれだけボケていようとも、ボケたように見えていても、やはり、その根幹にあるものは……
「――っ。この先ね。この先に、デカいのがある」
「デカいの……って……っ。それ、つまり……」
前にいたアギト氏を押し退けるように俺と勇者ちゃんは階段を上って……そして、二階の扉の前で足を止めた。止めざるを得なかった。
俺はあくまでも普通の人間で、魔獣との戦闘経験があるとは言え、脅威を肌で感じ取るなんてことは出来ない。
それでも、勇者の言うことがわかった。言われるよりも前から、あまりに大きな気配に本能的な恐怖を感じ取ったんだ。
ここは雑居ビルで、階段とフロアとはドアを隔てて切り離されている。そう、ここからはどのフロアの様子も見えはしないのだ。
何も見えやしないのに……とんでもなく強烈で、醜悪な気配が……
「……でも、ちょっとだけドジと言うか、間抜けだな。じゃあ、この部屋に入らなきゃいいんだろ? 幸い、階段はこのまま上に繋がってるんだし」
気配が……するんですがなぁ。拙者でも感じ取れるなら、アギト氏も感じられて然るべき……だと、思うんですが……なぁ……?
「そうはいきませんな、残念ながら。アギト氏、冷静に考えてみて欲しいでござるよ」
この気配を前に……と言うか、この気配を後ろに置くとか、正気の沙汰じゃないんですが、それは。
でも、アギト氏はなんにもわかってない顔で、早く上に行こうと言わんばかりに手すりに手をかけて……ああもう……
「バカアギト、ちゃんと考えなさい。これを放って上に行けば、当然そこにも何かが待ち構えてるでしょう。とするなら……」
もう、魔獣は完全に支配下に置かれているものと考えるべき。と、勇者ちゃんは怖い顔でそう言った。子供なのに、そんな顔も出来てしまうんですな。
さっきはまだその段階にないんだろう……と、何もいないフロアを見てそう思った。でも、どうやらそういうことじゃないらしい。
ここに控えさせているとんでもない化け物がいるからこそ、それ以上の備えは必要ない……と。つまりは、圧倒的な安心材料がここにあるんだ。
あるいは、これの気配が強過ぎて、魔獣を呼んでも逃げ出してしまう……なんてこともあるのかな。
なんにせよ、ここにあるとんでもない気配さえもが支配下だとするのならば……
「全員で上に向かえば、容赦なく下から挟み撃ちを仕掛けてくるでしょうな」
「つまり、ここもしっかり片付ける必要があるってわけ」
うーん、勇者ちゃんとは本当に意見が合致しますなぁ。そして……たぶん、拙者よりも更に克明にこの先の脅威を認識出来ているのでしょう。
本当に……本当の本当に、頼もしく、輝かしい勇者だ。そうか……こんな子が、俺達の意志を継いでくれたんだな。
うれしいなあ。誇らしいよ。でも……今はそんなことに頬をほころばせている場合じゃない。
何よりも頼もしくて心強い後輩がいるのなら、なおのことしっかりしないと。だって俺は……俺も、勇者だったんだから。
「……しかし、残念ながらそう時間もかけられないでしょう。ここまで迫っているとバレれば、必ず逃げられますな。というわけで、ここは二手に分かれる一択」
「ここの魔獣を足止めしながら、上で全部解決してくる。同時進行しかないわね」
うん、やっぱり意見が合った。でもって……やっぱりそうなっちゃうよな。と、がっかりもした。
そうか、勇者ちゃんの力を以ってしても、やっぱりそれ以外にないか、と。
ただ……そうだなぁ。もうひとつだけがっかり要素があって、それは……それも、か。
そっちについても意見が合致したのが……またなんとも、情けなくて仕方がないと言うか。
「――となれば、話は早いですな。アギト氏、あとは頼みますぞ。むふふ、まさかリアルでこのセリフを口にするときが来るとは。では、ごほん――」
ここは任せて先に行け――ですぞ! 俺がそう言えば、勇者ちゃんはちょっとだけ困った顔で、けれど納得した笑みをアギト氏に向けた。
で……肝心のアギト氏は……目を丸くして、困り果てて……慌てて、ふためいて……
「アギト、アンタは上に行きなさい。ここ片付けたらすぐに行くから」
「っ。ミラ……流石にわかってるな。デンデン氏のこと任せ……待って、それだと僕ひとりにならない? そ、それは……」
今更になって事情を呑み込んで、顔を真っ青に……それはそれはもう、無限に広がる大海の如く真っ青にして、恐怖に震え始めてしまった。なんと……おお、もう……
「……アギト氏……よもや、こんな小さな子をここにひとり残すつもりですかな……? 分かれるとしたら拙者とアギト氏、この子はどちらかにつくというだけ」
まったく……空気の読めない男ですなぁ、アギト氏は。二手に分かれるとなったら、そりゃ大人が分かれるに決まってるんですな。
この子は小さな女の子。その実、ここにいる誰よりも頼もしくても。社会的に、子供ひとりにするなんてのはあり得ませんぞ。
それと……まあ、なんだ。ちょっとだけ、貸して欲しい。この子を。この、今の代の勇者を。
話がしたいからさ、ふたりきりで。というのが……まあ、建前。
ボケ半分、建前半分で、真意は全部伏せたまま、アギト氏をからかうように言いくるめる。
でも……アギト氏はあまりにも素直だから、そんなでも言いくるめられてしまう。本当に大丈夫ですかな……このダメな大人……
しかし……だ。しかし、そのダメな大人が……なんだよな。まったく、もう。
「――待ってるから。勝ってきなさい、アギト」
「――っ。うん、わかった。ちゃんと帰るから、今回は」
そのダメな大人のアギト氏は、ドロシーに、この勇者ちゃんに、あの世界に、救ってくれと請われてもう一度縁を繋いだのだろう。
そんな男を信頼しないで、いったい何を信じると言うのか。俺も勇者ちゃんも、最初から、こうなるとなんとなくわかっていたんだ。
ここにいるのは、別の世界の勇者と、かつてその世界で勇者だった男。そして……この世界で、勇者と共に戦う英雄だ。
「……行ってくる。ふたりとも、早く来てね。本当に急いでよ? マジのやつだからね⁉」
「わかってる、さっさと片付けて行くわ。だから、それまでに解決しておきなさい」
そうだ。この世界においては、アギト氏こそが世界を救う勇者になり得るのだ。
なら、よその勇者と隠居勇者はここでその背中を守るとしよう。
真っ青な顔で、震える足で、けれど勇敢な歩みで階段を駆け上がるアギト氏を見送って、そして……




