第五百五十五話【道を別つ】
全身を焼く毒の痛み、その幻。それが伝えてくれたのは、ドロシーの――大切な仲間の危機だった。
実際に見ているわけじゃない。けれど、証拠もなしに確信させるだけの熱が俺の中に流れ込んだのがわかる。
この世界に来た協力者のひとりは彼女で、その彼女が今、危険な目に遭っている、と。
そして、全身を巡る青白い雷光の力。それを伝えてくれるのは、俺の中にわずかに残された治癒の縁。
身体は癒されない、力も発揮されない、魔術の言霊には意味がない。それでも、たったひとりの後輩と繋げてくれる。
この世界に来たもうひとりの協力者のもとへ、どうか代わりに助けてくれ、と。
けれど――
「……っ。行くべきか……ここよりも優先して調べるべきか、それとも……」
この身体に報せられるのは、かつて結んだ縁の――デンスケと縁のあるふたりの危機だけ。そしてそれは、その周りにいる人間の窮地は教えてくれない。
そうと決まったわけじゃない。でも、一度としてそういう例はなかった。
ゴーレムと無限の魔獣の住むあの山のさらに奥地で、ドロシーが瀕死の重傷を負ったときにも。
機械人形の街でフリードが危篤状態になり、そのうえで連れ去られたときにも。
きっとどちらの場面でも、ふたりが守ろうとした誰かの危機がその直前にはあったハズだ。それでも、報せがあったのはふたりの窮地だけだった。
今、本当にドロシーがこの世界に来ているのなら。そして、勇者とは行動を共にしていないのなら。
ひとりでなんて動き回れるわけがないこの世界で、彼女を連れ歩くもうひとりの仲間がいるとすれば、それは間違いなくアギト氏だ。
ドロシーですら危険な状況に陥っていて、どうしてあの男が無事でいられるだろう。彼女の危機は、すなわちアギト氏の危機でもある。
もしも、そちらに新しく魔獣の手がかりが出現したのなら。俺もそちらへ駆けつけるべきか。
こんな場所で誰かがいたかもしれない証拠を探すより、明確に刻まれた魔獣の爪痕でも探すべきなんじゃないか。
何より――何よりも、かつての仲間と、今の友の窮地へ、今度こそ駆けつけて手を差し伸べるべきなんじゃないのか。
気づけば手のひらに血が滲むほど強く拳を握り締めていた。答えは……もう、とっくに決まっている。
「……任せるぞ、勇者。ドロシーを、アギト氏を、絶対に護ってくれ」
俺は、ここで俺がやるべきことをやる。
結局、これ以外にないのだ。アギト氏と、ドロシー達と協力するほどの価値を持たない俺は、単独で何かしらの手がかりを得る以外に報いる手段を持たない。
たとえここで俺が彼女達のもとへ向かったとしても、勇者が解決したあとか、あるいは勇者ですら間に合わない惨劇に遅れて乗り込むかのどちらかしかない。
そんなものは誰も求めていない。もしも俺が何かを求められるとすれば、このアクシデントに足を止めざるを得ない彼らの代わりに進むことだけだろう。
それに……被害が出かねないことは最初からわかっていたんだ。
魔獣が出現している。そしてそれが、段々と実体を伴い始めている。それが発覚した時点で、いつかはこの世界に住む誰かがケガをすると、とっくにわかっていたんだ。
そして、もしもそうなるのなら、俺かアギト氏か、事情を知っているどちらかが矢面に立とう、と。そうして、解決の糸口を掴もうと、そう思っていた。
これは想定外の事故じゃない。全部予定されていた、あると思っていたトラブルのひとつに過ぎない。
なら、どっちも同じ場所で足を止めるべきじゃない。俺はここで、現れた魔獣とは別の手がかりを探るしかないんだ。
「ふー……っ……ふーっ。落ち着け……落ち着け、落ち着け。ゆっくり吸って……長く……吐く……」
深呼吸ひとつ、ふたつ、みっつと繰り返して、ガチガチに強張った肩をゆっくりとほぐす。
大丈夫。ドロシーがいる。ドロシーが来ていて、彼女に鍛えられた勇者がこの世界にいるのなら。魔獣程度はなんの障害にもなりはしない。
ただ今は、きっと魔術の発動に手間取っているんだ。今までに訪れた異世界と違い、勝手を知るアギト氏がいるからこそ、それを使ってはならない意識が強く出ているから。
それと……さっき、強化魔術の言霊を自分で呟いたときにわかったこともある。
たぶん、今のドロシーは、そして勇者は、本来持っていた魔術のほとんどを使えない状態だ。
これはきっと、俺とアギト氏がこの世界にいるから……この世界に、向こうの魔術の言霊が意味を持たないと知っている人間が近くにいるから、だろう。
言霊は命令式だ。魔術を発動するための、魔力の練りかたや、放出のしかたを、克明に刻み付けた式。
それがあの世界とはまったく違う意味を持つ――あまつさえ、意味のない音の羅列だと知っている俺達が近くにいるせいで、魔術が発動しなくなっている……んだと思う。
こんなことわかるわけないのに、どうしてかそれだけ理解出来る……のは、やっぱり……
「……すう。聞こえるか、勇者。聞こえてなくても、なんとなく理解してくれてるよな。もし……もしも、まだ魔術の発動に手間取ってるのなら……」
ぱち――と、指先がほんのわずかにしびれた。それは、強化魔術の発動――俺の身体じゃなくて、ここから遠く離れた場所にいる誰かの背中を押した合図だった。
間違いない。ドロシーがくれた治癒の力は、その残滓は、彼女の危機を教えてくれる。
そしてその残滓は、引き継いでくれた今の勇者に、俺の意志を伝えてくれる。勇者の苦悩を俺に共有してくれる。
「――言霊なんて捨ててしまえ。かつて、ドロシーがそうしていたように」
ぎゅっと拳を握り直して、自分に言い聞かせるように、俺は勇者におせっかいなアドバイスを送った。
かつて彼女は、自らを魔女と呼んだ。翼を持つ、人間とは違う存在だと。
そんな彼女は、魔術の発動に言霊を用いなかった。
彼女は人として生きるために、人と同じ工程を経るためだけに、魔術に言霊を付け加えていた。
裏を返せば、言霊がなくとも、発動する手段自体は存在するんだ。たとえそれが、人間の領域を逸脱したものだとしても。
「戦うところを見たわけじゃない。その痕跡をうっすらと確かめることしか出来てない。でも……俺は、君なら出来ると思ってる」
もう、身体のどこにもしびれはなかった。じゃあ……そうか。あんなに遠くで嫌な気配がしたのに、もう到着して、もう解決したんだ。
そんなに……そんなにも強いのか、君は。そんなにも疾く、そんなにも逞しいのなら、彼女の領域に手が届くハズだろう。
だとすれば、どうだ。世界を隔てたくらいで、言霊が使えない程度で……
「立ち止まるな。俺に出来なかったことを果たした君は、俺の先を進んでくれ。きっと、今度は俺も追いつくから」
び――と、背中がしびれて、まるで拳で突かれたような感じがした。返事……だとしたら、なかなか体育会系なんだな、今の勇者も。
しかしそうか、ちゃんと届くんだな。じゃあ……もう、のんびりはしてられない。
「恥ずかしいところは見せられない。ドロシーも来てるならなおのこと」
そっちに出た魔獣のことは任せた。それと……アギト氏のことも。
そのあいだにこっちも進むから、そのうちに合流出来たらしよう。
それから半日以上かけて空きテナントを確認すると、俺はそのまま近場のカプセルホテルに宿を取った。
地図の上で今日調べたポイントをなぞりながら、魔獣を観察出来そうな場所があったかを確認する。
でも……そうして浮かび上がったのは、あの大きな団地の上空を観察出来る場所なんて、このあたりにはなさそうだ……ってことだけだった。




