第五百二十二話【prologue end】
アギト氏からあの世界の空気を感じなくなった。それは紛れもなく、もうひとりの彼の死を意味する。
その証拠……ではないけど、アギト氏は日に日にやつれて、ふくよかだった体型は、みるみるうちにやせ細っていった。
じゃあ、もう間違いないんだろう。アギト氏もあの戦いに参加していて、そこで……
けれど、俺では彼をどうにかしてあげる方法はなかった。
かつての俺がそうだったように、別の世界での出来事が原因で負った心の傷なんて、この世界にあるどんなものを使っても取り除けやしない。
だから俺は、ただ彼の傷が癒えるのを待つしか出来なかった。友達として、何も知らない顔で一緒にいるくらいしか。
正直、見てるだけでも滅入ってしまいそうだった。奇妙な話だけど、死の経験がある者同士として。
その精神的苦痛は、文字通り死に至るほどのものだ。ハッキリ言ってしまえば、それで心が壊れてしまっていても不思議はない。
少なくとも俺は、まともな思考回路で物を考えられる状態ではなくなってしまっていた。
そしてそれは、やっぱりアギト氏も同じ……だったと思う。
店に来てケーキを食べていても、美菜ちゃんも交えて楽しく話をしていても、ゲームをしていても、何をしていても、常に後悔がくっついているような。
露骨にテンションが低いとか、ため息が多いとか、そんな兆候だったらまだマシだ。でも、アギト氏はそうじゃなかった。
アギト氏は……むしろ、以前と変わらないようにと努めていたように思える。それは、周りに心配をかけまいとする、彼らしい優しさから来たのだろう。
俺は、後悔と自責から、自分を追い詰めるような方向に進んでしまった。
自分は笑ってはいけない。楽しんではいけない。絶望を押しつけたものとして、放棄した責任と向かい合い続けなければならない、と。
その中でも、戻ってきたばかりのころは特にひどかった。まだ子供だったこともあって、今思い返せば、過剰なまでの自傷思考に陥っていただろう。
今のアギト氏は、きっとそのころの俺に近いんだと思う。どんな結末を迎えたのかまではわからないけどさ。
でも、少なくとも、死んでしまったことへの絶望は、ほかにどんな要因があったとしても払拭出来るものじゃない。
あの世界で得られるハズだった幸福のすべてを失ったんだ。それは、ふたつの世界を行き来していたとしても、とても軽減されるものじゃない。
そんな中で、彼は今までどおりを貫こうとしている。
きっと、もうひとつの世界とこちらとは無関係だから……こちらでの責任を放棄していい理由にはならないから。とか、そんなふうに考えているんだろう。
あるいは、あちらでの成功や縁、責任を背負い過ぎて、こちらでも同じように立派であらねばならない……なんて、考えているのかも。
だって彼は、マーリンと近い場所にいたハズなんだ。じゃあ……彼が負っていた役目は、こちらの彼からは想像もつかないような大きなものだったに違いない。
つまるところ……今の彼には、逃げる場所がないんだ。
誰かといても、もうひとつの世界の断ち切られた絆に苛まれ、ひとりでいれば、途方もない孤独感に追い詰められる。
それで……もう、食事もまともに喉を通らないんだろう。
店に来ても、以前の半分未満の量しか食べてくれなくなった。
本人はそれを、健康を意識してのダイエットだ……なんてうそぶくものだから……
俺も美菜ちゃんも、それ以上のことは突っ込めなかった。その嘘はつまり、これ以上踏み込まないでくれという拒絶の表れなんだから。
しかしながら、そんな暗い話題ばかりではない。当然のことだけど、勇者の死とこの世界は無関係だから。
そしてそれは、かつての俺にも、今のアギト氏にも当てはまる。
たとえば、アギト氏が働いているお店。パン屋さん。
あのお店は、しばらくの低空飛行が続いたものの、どうやらしっかりと軌道に乗ったようだ。
うちでも宣伝したから……と、アギト氏も美菜ちゃんも、それに店長さんも感謝の言葉を尽くしてくれたけど……しかし、どうだろうな。
そもそも店長さんは、ある程度の不調は見越していたように思う。それと併せて、どれだけ低いところから始まっても、絶対に墜落はしない自信を持っていたのだろう。
単純な話だけど、あの店にはあの店にしかない強みがある。そしてそれは、しっかりと軌道に乗ってさえしまえば、そう簡単には失われない。
アレルギー性物質を排しているという看板は、学校や保育園、あるいは病院なんかからの需要が尽きないから。
飛び抜けて売れることはそうないかもしれないけど、一定の需要を長く維持出来る見込みはあったんだ。
そういう綿密な策があったからこそ、あのお店はしっかりと軌道に乗って、今ではアギト氏を正社員として雇用するに至っている。
うん、これもアギト氏にとっては前向きな出来事だろう。三十歳の社会不適合者だった彼が、半年ほどのあいだに職と責任を得たのだから。
そんな彼に触発されたのか、美菜ちゃんも進路を決めた。
元いた学校に戻ることはしなかったけれど、自分で新しい居場所を見定め、そこからさらに向こうの目標も打ち立てたのだ。
定時制の高校に通い直し、元同級生と同じように大学へと進む。
退学から再入学の一年、そして四年制ゆえのもう一年と、合わせて二年のビハインドがあっても、絶対に置いて行かれない……と、そう意気込んでいた。
まあ……俺が大きな顔をすることではないんだけど、こちらについてはこれっぽっちも心配しなくていいだろう。
そもそも、彼女は精神的に追い詰められていただけであって、立ち直ってさえしまえば、ぶっちゃけアギト氏よりもずっと太い神経をしている。
そして、氏との触れ合いを経て、完全に立ち直った今……もう何も、彼女の行く手を阻めないだろう。
願わくば、躍進する彼女の姿が、アギト氏の励みになると幸いなんだけどな。
彼は他人の不幸にまで人一倍悲しんでしまう反面、人の幸せにも人一倍喜べるタイプだから。
そんな願いを勝手に胸に抱きながら、俺も俺で、友達の店が営業不振だ……なんて落ち込まれないように頑張らないと。
実際問題、アギト氏のいるお店が繁盛すると、うちもちょっとだけ割を食うんだよな。
アレルギー不使用のパン屋とケーキ屋とじゃ、客層はそう被ってない……けど、完全にすみわけがなされているわけでもない。
甘いものが欲しいと思ったときには、より安全で、かつ安価で、カロリーを抑えられる気がする菓子パンに人が流れることもあるだろう。
うちが繁盛しても向こうにダメージはないのに……なんだか不公平な気がしますな……
もっとも、そんな愚痴をこぼす暇があれば、味の改良に時間を費やすほうが合理的なので。
日常の甘味としての席を取り合うのはそもそも不利。ならばこちらは、特別なご褒美としてのグレードを上げる方向で邁進するまで。
値段を上げないように、しかし味はより美味しくなるように。毎日が研究ですぞ。
そうして俺は……俺達は、悲しい思い出を内側に秘めながら、この世界の当たり前の日々を過ごしていく。
それこそ、いつか美菜ちゃんがおばさんになって、ケーキ屋もパン屋も姿を変え、俺もアギト氏もまったく別のことをしている。そんな未来が来たとしても。
そう……思っていたんだけどな。
「……アギト氏。あんまり美菜ちゃんを……みんなを心配させてはいけませんぞ」
もう、いったい何件のメッセージを送っただろう。一度として返信はなく、既読すらもつかない。
もうひとつの世界のアギト氏が亡くなってから、半年としばらく。突然、アギト氏は目を覚まさなくなった。
眠ったままになって今日で二週間。わかっているのは……ただの病気が原因ではないこと。健康なまま、ただ深く眠り続けているのだ、と。
病院でご家族からそう聞かされた時点で、俺はすでに結論を出していた。
出していた……からこそ……
「……ドロシー」
信じている。また、一緒に遊べる日が来ると。
だからこそ……この願いを、祈りを、抱かずにはいられなかった。
それでも、俺は――