第五百二十話【勇者の意志】
これは夢だ。まず、そう思った。それだけがわかった。
自分の足で地面に立っていない感覚。自分の身体で風を浴びていない感覚。そういった不自然さが、今のこの状況を、夢の中なんだと教えてくれた。
それからあとに認識したのは、目の前の風景。
街を見下ろしながら、平原を見下ろしながら、そして高い山を見下ろしながら、ゆっくりと後ろに進む空の景色。
はるか上空を滑空しているという、摩訶不思議で、けれど……すごく懐かしい。これは、そんな夢……で……
――ほろ。
「……ザック」
ばさ――と、羽ばたく音が聞こえた。けれど、その姿はどこにも見当たらなかった。
それでも、音の正体にはすぐに気づいた。これは、ザックが羽ばたいている音だ。ザック……が……懐かしい、あの大きなフクロウが……
「……そっか。そんな夢を見るくらい……」
ほろ。と、返事をしてくれた。ザックって呼んだから……かな。呼んだら返事をしてくれるくらい賢いやつだったもんな。
でも……ザックの姿はない。前を見ても、後ろを見ても、自分の真下……本来なら灰色の背中があるハズの場所を見ても、どこにもいない。
じゃあ、もしかして……自分自身がザックになる夢を見てるのかな? なんて思ったけど……
「……手、ないんだ。ていうか……そっか。そう……だよな」
俺の身体はどこにもなかった。大人になった田原伝助の身体はもちろん、あのころの、十六歳のデンスケの肉体も、どこにも存在しなかった。
これはきっと、潜在意識で諦めてしまっているから……なんだろう。俺はもう、この世界とは無縁の存在だから……って。
だから、自分自身がこの場所にいないことは……まだ、納得出来た。でも、しかし……じゃあ、ザックはどうして……?
「……いる……のか? このまま、ゆっくり、進んだ先に。お前はもう、ここを通ったあと……なのか?」
このまま進んだら、お前に会えるのか? そして……お前に会ったら、そうしたら、また……ふたりのところへ連れて行ってくれる……のか……?
ああ、そうか。と、今更になってひとつの出来事を思い出す。そう言えば、寝る前に変なことを考えたっけ。
このまま眠ったら、ドロシーのもとへ……きっと、大きな戦いを控えているのだろうアギト氏と、一緒にいるハズのドロシーとフリードのもとへ行けたらな、なんて。
それで……いまさらになって、こんな夢を見てるのか。
十六年。あれから十六年のあいだ、一度も現れることはなかったのに。
「……ザック。待ってくれよ、置いて行かないでくれ。もしそこにいるなら、もうちょっとだけゆっくり飛んでくれよ。俺はお前みたいに速く飛べないんだ」
ほろ。ほろ。と、何度も何度も、催促するように、ザックは鳴いていた。
それがうれしくて、おかしくて、夢の中だってわかってても、ついつい声をかけてしまった。
ああ……こんな夢を見ると、起きたときにつらいのに。苦しいのに。また、あの世界に行けたら……なんて、叶わない願いで胸を焼かれる羽目になるのに。
それでも、前へ進むのをやめられない。ザックがいるのだろう方向へ行かずにはいられない。
これが夢でもいい。幻でもいい。どんな形でもいいから、もう一度……たった一度だけでいいから、ドロシーに――
「――っ。この……場所……もしかして、夢じゃない……のか? 夢……じゃなくて、これが……」
会いたい。そう思って、ほんのわずかなさみしさが胸を刺したその瞬間に、自分がどこにいるのかを理解した。
いや……突きつけられた……と、そう言うべきなのかもしれない。
ここは……あの山だ。ゴーレムと、そして増殖する魔獣がいた……俺が死んだ、あの……っ。
でも……ちょっとだけ違う。ちょっとだけ……細かく見れば、多くのものが変わっている。
ここ……は……今、現在のあの場所……なのか……? だとしたら……
「……っ! ザック! お前……お前、俺を案内してくれるのか……っ⁈ ドロシーのところへ連れて行ってくれるんだな!」
ふたりは今、戦っているんだ。ゴーレムと、魔獣と。あのとき倒せなかった、乗り越えられなかった因縁と。
それがわかった瞬間に、もう心地いい夢気分ではいられなくなった。
今すぐに追いつかないと。身体もない俺が何を手伝えるともわからないけど、それでも早くふたりに追いつかないと。
だって俺は、隊長だったんだ。だって俺は、勇者だったんだ。だって俺は――ふたりの仲間なんだ――っ。
「――ザック――ッ!」
ほろろ。と、力強い返事が聞こえると、俺の身体は一気にスピードを上げた。
急激に流れる景色をじっと見ていれば、眼下にはやはりゴーレムの姿が……あのころよりももっと大きくなった泥人形の群れが見えた。
それを越えてすぐに、無限にも思えるような魔獣の群れ……と、それと戦う騎士の姿が……いや、違う。
「……王様……っ! 王様が……なんで……」
王様だ。王様が……こんなところにいちゃいけないハズのあの人が、最前線で戦っている。ど、どうして……っ⁈
それに、一緒に戦っているのは騎士じゃない。王宮騎士団の装備じゃない。そこにいるのは、腕は立つけど、まったく知らない格好の……
「……冒険者……なのか……? もしかして、一緒にいるのは……」
そう名乗っているかは知らない。でも、俺が願ったような存在……なんだとしたら。
胸の奥が熱くなる。でも……そんな感慨に浸っている暇も与えられずに、俺の身体はもっと先へと――山の中腹へと進まされた。
じゃあ……ふたりはあの場所をあの人達に任せて、もっと奥を調査しに行ってる……のか?
ここから先には、いったいどんな――
「――っ。これ――この炎――ッ。まさか……」
進んでいるうちに、視界が全部真っ白になるくらいの光が一帯を照らした。それは、とてつもなく大きな爆発だった。
あまりにも見覚えのある、馴染みのあるそれは、間違いないと確信させるには十分なものだ。
ドロシーだ。今のは紛れもなく、ドロシーの――力を加減するなんてことをしなかったころの、魔女としてのドロシーの魔術だ。
じゃあ、この先で彼女が……
――マーリン様ぁ――ッ‼
声が聞こえた。女の子の声だ。知っている――どこで聞いたかはわからないけど、でも、間違いなく聞いたことのある声だった。
知っている声が、彼女の名を叫ぶ――
「――ドロシーっ!」
走ろうとしても泳ごうとしても、俺の身体は決まったスピードでしか進まない。それがもどかしくてたまらなかった。
でも……どれだけ焦らされても、景色はちゃんとその場所に追いついた。追いついて……
「……ドロ……シー……」
そこには、フリードの姿があった。いつか夢に視た、大きくなったあいつの姿が。
けれど……その隣にいるハズのドロシーの姿は……
「…………先へ進むぞ――」
焼けて赤く輝く地面の真ん中に、彼女は横たわっていた。
美しい銀の髪は、ほとんど燃え尽きてしまっていた。愛らしい顔は、焼け焦げて個人の判別もつかなかった。
けれど……そこに横たわる焼死体は、まぎれもなくドロシーで……
「……そっか。そう……か。そう……だったんだな。だから……」
あのとき俺は、この未来を招くために、あんな最期を迎えたんだ。
理解した。すべてを理解した。理解して……納得は、出来なかった。
不服だと、今すぐにやり直させろと、神がいるなら怒鳴りつけてやりたかった。
でも……だからこそ、俺はこの現実を受け入れる。受け入れないなら、俺がここに来た意味なんて――
「――だから――君は、魔術師なんだね」
――力を貸して――
たったそれだけの言葉を伝えるのに、勇気なんて必要なかった。
当たり前のこととして、いつもやってたこととして、俺は、このときに、託した希望を繋ぐんだ。
そのために――俺は――
声が聞こえた。怒鳴り声だ。あいつの……声変わりしきった、フリードの声だ。
急かしてるらしい。ドロシーはここに捨て置け、って。死んだ人間のことは諦めて、使命を果たす努力をしろって。
まったく……お前、どっちかって言ったら足を止めるほうだったくせに。
王子なのに無鉄砲で、人情家で、変なところで頑固で。そんなお前が、大切な仲間を見捨ててでも使命を果たそう……なんて。
「……俺がそうさせちゃったんだよな。わかってる。わかってる……けどさ」
また、怒鳴り声が聞こえた。うん、わかってる。わかってるって。そうしないと、お前の心が折れちゃいそうなんだよな。
だけど……だけどさ、フリード。
「――そう急かすなよ、フリード――」
力を貸して。俺のお願いは、すんなりと聞き入れて貰えた。いいや……違う。たぶん、“この子”はすぐに理解してくれたんだ。
じゃあ……ここは任せて。先輩として、その力の――治癒の力の使いかたを教えてあげる。
俺には出来なかったことだけど、でも……魔術師の君の手を借りられるなら……
「ここで終わりになんてさせない。絶望なんて、もう許さない」
身体を借りるよ。力を借りるよ。見返りは何も準備出来てないけど、それでも……君は俺に手を貸してくれるんだね。
ありがとう。どれだけ感謝してもしきれない。本当の本当に、ありがとう。
俺の願いを聞いてくれて――俺の最期の願いを叶えてくれて――
なら、応えよう。ただひとりの俺としてではない、君の先輩にふさわしい“勇者”として。
じゃあ……もう、怖がってちゃかっこ悪いよな。
「――死なせるものか――マーリン――」
その名を呼ぼう。その命を救おう。その祈りを――君の祈りを、彼女へと届けよう。
それが、かつて彼女の隣にあったものとしての、最後の――――
ゆっくりと、目を覚ました。長い長い、懐かしい夢から。
「……ありがとう」
感謝の言葉は自然にこぼれていた。けれど、それが何に向けてのものか、誰に宛てたものかはわからなかった。
でも、それはどうでもよかった。
「ありがとう。願いを叶えてくれて。ありがとう。頼みを聞いてくれて」
何度も、何度も、何度でも、その言葉を繰り返した。
もう慣れた自室のベッドの上で、こことは関係のない世界に遺したものへと感謝する。
ありがとう。未来を守ってくれて。ありがとう、マーリンを守らせてくれて。
ありがとう。もう一度だけ、俺を勇者にしてくれて。
名も知らぬ、顔も知らぬ、身体を貸してくれた声の主よ。君の勇気と優しさに、心からの感謝と、敬意を。
「……マーリン。俺は……」
報われたよ。って、伝える方法がないのは悔しいけど、でも……胸は満たされた。
きっとまだ戦いは続くんだろう。でも、君と、フリードと、そして君が見つけたあの子がいればきっと大丈夫。
俺はそれを……君達の勝利を、遠くから祈っているよ。もう、それくらいしかしてあげられないからさ。
それでも、君なら……




