第二話【出会う】
何が起こっている。
私は自ら発したその言葉の解を導き出すことも叶わず、その光景を呆然と見ているしか出来なかった。
ここは安全な街だ。前線から遠く、でありながらに兵の武装も十分な、誰もが安心を考える必要すらない場所。
王都やほかの主要都市と比べるには不足すれど、民が気を安らかに過ごすには満ち足りている場所……だと、そう思っていた。
しかしながら、あるいはそうではなかったのかもしれないと、肝の芯までが凍り付くような錯覚に陥った。
この街の安全は、より安全な場所にいる我々が、役人が、そして王が、押し付けがましく断定しただけのものだったのではないだろうか、と。
その狂気は、およそ平和の中に芽生えるものとは思えなかった。その男の姿は、安らかさからは遠いものにしか見えなかった。
武装した憲兵に囲まれながらに、怯えを押し込めてまで堂々と胸を張っている。そんな勇ましい様相を見せるその男が……
「……ど、どうして服を着ていないのだ……」
どうしたことか、一糸纏わず風に吹かれていることが、私には大きな矛盾を孕んでいるようにしか思えなかった。
この男はなんだ。気が狂っている、理性を失っている……わけではない。そうであるわけがない。
この男の目には、まっすぐな、そして強い意志を感じる。これは、我を忘れた人間の、弱った目などではない。断じて違う。
ならば、どうだろう。この男は、氷よりも冷めた理性で、灼熱とも思える野心で、その相反する心の位相ふたつを織り交ぜてここに立っている……と、そう考えるべきなのか。
私にはその男の在り方が理解出来なかった。いや、違う。想像出来なかった。
果たして私は、この人物と同じだけの冷静さで、同じだけの情熱を内に秘められるだろうか。
そんな問答を己の心へと投げ掛ければ、煮えた油に冷水を注いだかのような激しい反発が生まれる。自らの心の内で、自らの問い掛けに対して。
そんなことを問うなと、まるで幼子のように突っぱねたくなった。私の中心は、悲しいかなそうであってしまった。
後ろめたさがあるから、及ばぬことを自覚しているから、当たり前の問いを鋭い刃であるかと錯覚するのだ。
なんと幼稚で、なんと見苦しく、なんと愚かしい。私は――このフリードリッヒは、その中心で自らの不出来を覆い隠さんと見栄を張ろうとするのだ。
見よ、目の前の男を。その男の在り方を。たたずまいを。
彼は自らを恥じるだろうか。否、そうではない。彼は自らを恥じることを、果たして恥と感じているだろうか。
己を鑑みて、反省し、そして大きく成長する。恥を糧とし、前に進む。その在り方を、私は果たして模倣出来ただろうか。
いいや、出来ない。ただの一度として、そうはならなかった。
私は王子だ。私は騎士長だ。私は権力者の子で、分身で、そうであるからこそ権力を持つものだ。
私はそれが煩わしかった。そして、そうでない自分というものが欲しかった。
栄誉を与えられることが憎たらしければ、どうしてそれを跳ね除けなかった。舗装された道の上を進むことが許せなければ、どうしてそこから飛び出さなかった。
先に氷詰めにされたと思った肝は炙られるように痛み、その熱は腹から胸へと、そして顔へと伝播する。
私は――私も、この男のように――
「――君は――どうして服を着ていないのだ――」
気付けば私は、答えを聞いたかも定かではない問いをもう一度投げ掛けていた。目の前の男へ――素晴らしい彼へと。
「どうして……どうしてと問われれば、どうしてもですぞ。気付いたらこうだったんですからな。まさか、追剥まがいのことをして服を手に入れるわけにもいかんでしょう」
「――っ。そう……か」
気付いたら――か。彼の答えは、今の私にはあまりに堪えるものだった。
その在り方は、目指して至った境地ではないのだな。環境か、それとも本能か。とにかく、幼少の彼を形作ったものが…………いいや。
なんと滑稽だろうか。ことここに至り、まだ言い訳を作っている。逃れられると思っている。
私は、なんと矮小なのだろう
幼少にあった彼でさえ気付き、辿り着いた答えに、私はまだ爪先すら触れていない。それが事実で、揺るぎない差なのだろう。
彼の中には狂気がある。己の不出来を真正面から受け止め、糧として前に進む、常人ならざる精神力。これを狂気と呼ばずなんと呼ぼうか。
そのうえで、やはり彼には凍て付かんばかりの理性が備わっている。
追剥まがいの行為はすべきでない。それは、罪を犯すべきでないという意味で言っているのではないだろう。
己が打ち立てた正義に背く行為をしてはならない。きっと彼はそれを言いたいのだ。
なんと……なんと美しく、雄大な精神だろう。羞恥で焼けるように熱かった顔が、胸が、もっともっと強い炎にさらされているようだ。
どくんどくんと脈打つ度に四肢の末端までが温められ、胸の高鳴りはそれが高揚感であることを教えてくれる。
私は今、途方もない憧憬を抱いている。偉大なるアンドロフ王にも向けたことのない、純粋で、無垢で、無邪気な、子供さながらの憧れを。
私が目指すべきは、彼だ。彼の隣にふさわしい男になることこそ、私が――フリードリッヒが目標として掲げるべき最大なのだ。
頬がほころんだのが分かった。これほどまでの喜びを覚えたのはいつ以来だろう。いいや、果たしてこれまでにあっただろうか。いや、あろう筈もない。
私はついに、これまでにあったすべての苛立ちを脱ぎ捨てる日を迎えるのだ――
「王子、お下がりください。貴様、そのまま大人しく投降しろ。街の女だけにとどまらず、よもやフリードリッヒ王子の御前での無礼、到底許されるものではない」
「王子……王子……ふむ。なるほど、合点がいきましたな。なるほど、かもす空気が違うわけですな。主要キャストともなれば、出で立ちひとつでこれほどの説得力を持つとは」
不敬な――ッ! と、憲兵のひとりが声を荒らげ、固く握った剣を高く振り上げる。それを前に、彼は…………っ。
「――待て――ッ! 剣を収めろ、全員だ」
彼は……私を見たまま、竦むことなく胸を張っていた。
憲兵を制止するのに、それ以上の理由はいらなかった。彼は、自らが害されるその瞬間にも――あるいは殺されかねない場面においても、自らを隠さなかった。
間違っていたのならば、どうか教えて欲しいと。正す機会を設けられたなら、必ず応えてみせると。そう言われているようだった。
その証拠に……さあ、皆のもの見てみろ。私が発した憲兵を制止する言葉も、それによって収められた剣すらも気に掛けず、彼はまだまっすぐに私だけを見ている。
「……ここで彼が裁かれる理由はなんだ。彼の罪はいったいどこにある」
「お、王子……? それは……公衆の面前で、衣服を身に着けず……」
公衆に裸をさらせば罪になる。そうだ、それは紛れもない事実。そう法に定められている以上、覆ることはない。だが……
「――ならば――そんなものは私が踏み越えてみせよう――ッ!」
だが、それがどうした。
私は儀礼用の鎧も、礼服も、そして肌着に至るまでもすべて脱ぎ捨てた。彼と同じく己の足のみで、この地面に降り立ったのだ。
「――どうした――っ! 不埒者はここにもいるぞ――っ! 捕らえると言うのならば、この私の手にも縄を掛けて見せろ――っ!」
この彼は、なんとしても失ってはならない。法も、規則も、常識も、そんなものは知ったことか。
私の行動に――奇行に、皆が目を丸くしていた。ただひとり、彼を除いて。
彼だけは、いまだ私をまっすぐに見つめていた。
「――っ。事情があると見える。君はただいたずらに人を怯えさせるような人物ではない。その目は、正しい志のもとに邁進する男のものだ」
私の奇行は、とても褒められたものではないかもしれない。
王子として、騎士長として、国の名を背負うひとりとして、間違っているのだろう。
だが、それがどうした――っ!
「偶然にも衣服を失ったようだが、しかしこれもまた偶然にも、ここに頃合いの衣類が落ちている。どうにも大きさは合わなさそうだが、腰布として巻く分には問題にならないだろう」
私は彼を守ろう。いつの日か、その隣に立つ者として。
「――っ!」
私の提案に、彼は目を丸くして呆然とした。しかしすぐに、にやりと笑って頭を下げた。この偉大な彼が、この矮小な私に。
胸の高鳴りは最高潮に至った。ほんの一瞬にも、私は彼のいる境地へ指を掛けた。錯覚だとしても、そう思えたのだから。
「……感謝するでござる、名も知らぬ国のフリードリッヒ殿」
「構うものか。どうか息災で過ごしてくれ、名も知らぬ君よ」
ごめん。と、彼は上着だけを腰に巻き、そしてまた深く頭を下げた。
それから……もう、こちらを振り返ることなくどこかへ行ってしまった。その足取りは、迷うことなく、しかし何かを探しているようだった。
「……あのような男が存在するのだな」
身を隠すように路地を曲がることもせず、ただまっすぐに進んだ彼の背中が見えなくなると、私の身体はどうしようもなく火照って仕方がなかった。
進もう。私も、この時この場所からでも。
王子でも、騎士長でも、あらゆる肩書持つ人間でもないこのフリードリッヒが、たったひとりとして前へ進もう。
ずっと願っていた瞬間は、とっくに許されたものだったのだ。それを教えてくれた彼のように、私は――