表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/504

第二話【出会う】



 何が起こっている。


 私は自ら発したその言葉の解を導き出すことも叶わず、その光景を呆然と見ているしか出来なかった。


 ここは安全な街だ。前線から遠く、でありながらに兵の武装も十分な、誰もが安心を考える必要すらない場所。


 王都やほかの主要都市と比べるには不足すれど、民が気を安らかに過ごすには満ち足りている場所……だと、そう思っていた。


 しかしながら、あるいはそうではなかったのかもしれないと、肝の芯までが凍り付くような錯覚に陥った。


 この街の安全は、より安全な場所にいる我々が、役人が、そして王が、押し付けがましく断定しただけのものだったのではないだろうか、と。


 その狂気は、およそ平和の中に芽生えるものとは思えなかった。その男の姿は、安らかさからは遠いものにしか見えなかった。


 武装した憲兵に囲まれながらに、怯えを押し込めてまで堂々と胸を張っている。そんな勇ましい様相を見せるその男が……


「……ど、どうして服を着ていないのだ……」


 どうしたことか、一糸纏わず風に吹かれていることが、私には大きな矛盾を孕んでいるようにしか思えなかった。


 この男はなんだ。気が狂っている、理性を失っている……わけではない。そうであるわけがない。


 この男の目には、まっすぐな、そして強い意志を感じる。これは、我を忘れた人間の、弱った目などではない。断じて違う。


 ならば、どうだろう。この男は、氷よりも冷めた理性で、灼熱とも思える野心で、その相反する心の位相ふたつを織り交ぜてここに立っている……と、そう考えるべきなのか。


 私にはその男の在り方が理解出来なかった。いや、違う。想像出来なかった。


 果たして私は、この人物と同じだけの冷静さで、同じだけの情熱を内に秘められるだろうか。


 そんな問答を己の心へと投げ掛ければ、煮えた油に冷水を注いだかのような激しい反発が生まれる。自らの心の内で、自らの問い掛けに対して。


 そんなことを問うなと、まるで幼子のように突っぱねたくなった。私の中心は、悲しいかなそうであってしまった。


 後ろめたさがあるから、及ばぬことを自覚しているから、当たり前の問いを鋭い刃であるかと錯覚するのだ。


 なんと幼稚で、なんと見苦しく、なんと愚かしい。私は――このフリードリッヒは、その中心で自らの不出来を覆い隠さんと見栄を張ろうとするのだ。


 見よ、目の前の男を。その男の在り方を。たたずまいを。


 彼は自らを恥じるだろうか。否、そうではない。彼は自らを恥じることを、果たして恥と感じているだろうか。


 己を鑑みて、反省し、そして大きく成長する。恥を糧とし、前に進む。その在り方を、私は果たして模倣出来ただろうか。


 いいや、出来ない。ただの一度として、そうはならなかった。


 私は王子だ。私は騎士長だ。私は権力者の子で、分身で、そうであるからこそ権力を持つものだ。


 私はそれが煩わしかった。そして、そうでない自分というものが欲しかった。


 栄誉を与えられることが憎たらしければ、どうしてそれを跳ね除けなかった。舗装された道の上を進むことが許せなければ、どうしてそこから飛び出さなかった。


 先に氷詰めにされたと思った肝は炙られるように痛み、その熱は腹から胸へと、そして顔へと伝播する。


 私は――私も、この男のように――


「――君は――どうして服を着ていないのだ――」


 気付けば私は、答えを聞いたかも定かではない問いをもう一度投げ掛けていた。目の前の男へ――素晴らしい彼へと。


「どうして……どうしてと問われれば、どうしてもですぞ。気付いたらこうだったんですからな。まさか、追剥まがいのことをして服を手に入れるわけにもいかんでしょう」


「――っ。そう……か」


 気付いたら――か。彼の答えは、今の私にはあまりに堪えるものだった。


 その在り方は、目指して至った境地ではないのだな。環境か、それとも本能か。とにかく、幼少の彼を形作ったものが…………いいや。


 なんと滑稽だろうか。ことここに至り、まだ言い訳を作っている。逃れられると思っている。


 私は、なんと矮小なのだろう


 幼少にあった彼でさえ気付き、辿り着いた答えに、私はまだ爪先すら触れていない。それが事実で、揺るぎない差なのだろう。


 彼の中には狂気がある。己の不出来を真正面から受け止め、糧として前に進む、常人ならざる精神力。これを狂気と呼ばずなんと呼ぼうか。


 そのうえで、やはり彼には凍て付かんばかりの理性が備わっている。


 追剥まがいの行為はすべきでない。それは、罪を犯すべきでないという意味で言っているのではないだろう。


 己が打ち立てた正義に背く行為をしてはならない。きっと彼はそれを言いたいのだ。


 なんと……なんと美しく、雄大な精神だろう。羞恥で焼けるように熱かった顔が、胸が、もっともっと強い炎にさらされているようだ。


 どくんどくんと脈打つ度に四肢の末端までが温められ、胸の高鳴りはそれが高揚感であることを教えてくれる。


 私は今、途方もない憧憬を抱いている。偉大なるアンドロフ王にも向けたことのない、純粋で、無垢で、無邪気な、子供さながらの憧れを。


 私が目指すべきは、彼だ。彼の隣にふさわしい男になることこそ、私が――フリードリッヒが目標として掲げるべき最大なのだ。


 頬がほころんだのが分かった。これほどまでの喜びを覚えたのはいつ以来だろう。いいや、果たしてこれまでにあっただろうか。いや、あろう筈もない。


 私はついに、これまでにあったすべての苛立ちを脱ぎ捨てる日を迎えるのだ――


「王子、お下がりください。貴様、そのまま大人しく投降しろ。街の女だけにとどまらず、よもやフリードリッヒ王子の御前での無礼、到底許されるものではない」


「王子……王子……ふむ。なるほど、合点がいきましたな。なるほど、かもす空気が違うわけですな。主要キャストともなれば、出で立ちひとつでこれほどの説得力を持つとは」


 不敬な――ッ! と、憲兵のひとりが声を荒らげ、固く握った剣を高く振り上げる。それを前に、彼は…………っ。


「――待て――ッ! 剣を収めろ、全員だ」


 彼は……私を見たまま、竦むことなく胸を張っていた。


 憲兵を制止するのに、それ以上の理由はいらなかった。彼は、自らが害されるその瞬間にも――あるいは殺されかねない場面においても、自らを隠さなかった。


 間違っていたのならば、どうか教えて欲しいと。正す機会を設けられたなら、必ず応えてみせると。そう言われているようだった。


 その証拠に……さあ、皆のもの見てみろ。私が発した憲兵を制止する言葉も、それによって収められた剣すらも気に掛けず、彼はまだまっすぐに私だけを見ている。


「……ここで彼が裁かれる理由はなんだ。彼の罪はいったいどこにある」


「お、王子……? それは……公衆の面前で、衣服を身に着けず……」


 公衆に裸をさらせば罪になる。そうだ、それは紛れもない事実。そう法に定められている以上、覆ることはない。だが……


「――ならば――そんなものは私が踏み越えてみせよう――ッ!」


 だが、それがどうした。


 私は儀礼用の鎧も、礼服も、そして肌着に至るまでもすべて脱ぎ捨てた。彼と同じく己の足のみで、この地面に降り立ったのだ。


「――どうした――っ! 不埒者はここにもいるぞ――っ! 捕らえると言うのならば、この私の手にも縄を掛けて見せろ――っ!」


 この彼は、なんとしても失ってはならない。法も、規則も、常識も、そんなものは知ったことか。


 私の行動に――奇行に、皆が目を丸くしていた。ただひとり、彼を除いて。


 彼だけは、いまだ私をまっすぐに見つめていた。


「――っ。事情があると見える。君はただいたずらに人を怯えさせるような人物ではない。その目は、正しい志のもとに邁進する男のものだ」


 私の奇行は、とても褒められたものではないかもしれない。


 王子として、騎士長として、国の名を背負うひとりとして、間違っているのだろう。


 だが、それがどうした――っ!


「偶然にも衣服を失ったようだが、しかしこれもまた偶然にも、ここに頃合いの衣類が落ちている。どうにも大きさは合わなさそうだが、腰布として巻く分には問題にならないだろう」


 私は彼を守ろう。いつの日か、その隣に立つ者として。


「――っ!」


 私の提案に、彼は目を丸くして呆然とした。しかしすぐに、にやりと笑って頭を下げた。この偉大な彼が、この矮小な私に。


 胸の高鳴りは最高潮に至った。ほんの一瞬にも、私は彼のいる境地へ指を掛けた。錯覚だとしても、そう思えたのだから。


「……感謝するでござる、名も知らぬ国のフリードリッヒ殿」


「構うものか。どうか息災で過ごしてくれ、名も知らぬ君よ」


 ごめん。と、彼は上着だけを腰に巻き、そしてまた深く頭を下げた。


 それから……もう、こちらを振り返ることなくどこかへ行ってしまった。その足取りは、迷うことなく、しかし何かを探しているようだった。


「……あのような男が存在するのだな」


 身を隠すように路地を曲がることもせず、ただまっすぐに進んだ彼の背中が見えなくなると、私の身体はどうしようもなく火照って仕方がなかった。


 進もう。私も、この時この場所からでも。


 王子でも、騎士長でも、あらゆる肩書持つ人間でもないこのフリードリッヒが、たったひとりとして前へ進もう。


 ずっと願っていた瞬間は、とっくに許されたものだったのだ。それを教えてくれた彼のように、私は――

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ