第四百九十四話【身を焼く王子】
にげろ。それが、彼が遺してくれたたったひとつの繋がりだった。
その場所には、剣があった。その場所には、血痕があった。
けれど、彼が遺したものはそれひとつだった。
にげろ。それが、たったひとつだけ、私達全員を救う手段だと、彼はとうに気づいてしまっていたのだ。
「……ザック、ここでいい。下りてくれ」
マーリンと共にザックに乗り込み、私達は“ふたり”で部隊の元へと戻った。
大フクロウが降り立つ姿を待つ皆の顔には、いくらかの期待と、それ以上の不安が見て取れる。
けれどそれも……この場所に彼がいないことが知れれば、たったひとつの色に染め上げられた。
「デンスケ! デンスケ、いる? デンスケ、先に戻ったみたいなんだ。えっと……ここには来てない……? じゃあ……街まで行っちゃったのかな?」
「……え……た、隊長……が……」
どうやらマーリンは、まだ事態を飲み込めていないようだ。あるいは……本能が、それを拒絶してしまっているのか。
無理もない……などと、私が言えたことではない。事実、私も未だどこかでその可能性を望んでいる。そんな甘えた妄想に浸っていたいと願ってしまう。
けれど、事実以前の段階すらも理解していない、何も知らされていない皆は、ただひとつの災厄だけを想起して……ゆえに、彼女の様子に、しぐさに、目を伏せるばかりだ。
「……部隊長デンスケが戦死した。全軍、これより直ちに帰還しろ」
血に塗れた勇者の剣を掲げれば、もはや誰の中にも疑いは残らなかった。ただひとり、彼女を除いて。
悲鳴は上がらなかった。ため息もこぼれなかった。けれど……予感していた事実を突きつけられ、全員の目から生気が奪われたように見える。
彼の存在は大き過ぎた。彼の人柄は、彼の努力は、彼の偉業は、ここにいる皆を強く惹きつけ過ぎていた。
――ゆえに、この部隊はもう……
「……? デンスケ……えっと……街にいる……よね? フリード、今からデンスケのところに行くんだよね?」
まるで魂の抜けた人形のように、全員が私の言った通りに動き始めた。
もとより、死地より脱したい気持ちは皆の中にあったのだから、準備は整っていたのだろう。
けれど、それを見た彼女は、皆の様子がおかしいことに気づき、不安からそんなことを尋ねた。
ほかでもない、同じ夢に片足を踏み入れたままの私に。
「……マーリン。デンスケは……デンスケは……っ」
デンスケは……もう、いない。それを告げて、果たして彼女はそれを信じるだろうか。
それを受け入れ、事実として認め、そして……心を砕かれずに耐えられるだろうか。
「……フリード? どうしたの?」
私は……それを告げて、果たして耐えられるだろうか。
きっと彼女は、事実を受け入れるだろう。受け入れ、納得し、そして……絶望してしまうだろう。
その姿を見て、私は正気を保てるだろうか。
恐ろしかった。恐ろしくてたまらなかった。
私自身、未だ彼を失った事実を受け入れられていないのだ。
ただ、彼女の手前、毅然とした態度でいなければなるまいと、義務感によってのみ背筋を伸ばせているのだ。
それが……っ。それが、彼女が絶望の底に沈み、心を砕かれ、もはやこれまでと打ちひしがれる姿を前にしてしまったら……
「……マーリン、君も馬車に乗れ。ザックにはしばらく無理を強いたのだ、帰りは荷を軽くしてやらねば」
「そうだね、ザックも疲れたもんね。デンスケを送って、すぐに戻ってきてくれたんだもんね。大変だったよね」
言わねばならない。理解させねばならない。そのうえで、彼女を支えてやらねばならない。
そういう意味が、意図が、意志が刻まれていた。彼は、その願いだけを私に遺したのだ。
私だけに――私だけが、その願いを叶えられると信じてくれたから――
「――っ。すまない……すまない、デンスケ……っ」
私はまだ、君の期待に応えられる男ではないらしい。我が身かわいさから逃避を繰り返すばかりだ。
ああ……そうか。王よ、貴方はこのことを見抜いていたのだな。
ゆえに、私が彼を隣に立たせると宣言したあの日、私に蔑如の眼差しを向けたのだな。
私はいつか、君の背中をずっと先に望んでいた。大きな男だと、底知れぬ器だと、心底憧れた。
そんな君と旅を共にし、慣れた王都にまで……招き入れたと思いあがったその時点で、すべては破綻していたのだな。
君は私の手引きなどなくとも、あの場所を訪れただろう。私の助力などなくとも、その地位を手に入れただろう。
それを私は、この場所でならば私が彼を引き上げられる……などとのぼせあがり、いつか遠くに眺めた君の背中を見失ってしまっていたのだ。
大馬鹿者だ。私は、救いようのない愚か者だ。
遥か先にいた君に背を向け、こちらへ続けなどと口にして、いったいどうして肩を並べられると思った。
私は今、憧れた君から顔を背け、己が安寧に目を曇らせて、得るべき信頼のひとつも手にせずここで立ち尽くしているではないか。
だから……だから君に、身体のことを打ち明けさせられなかったのではないか……っ。
「――ぁ――ぁああ――っ。ああ――っ!」
マーリンを馬車に乗せ、私はひとり建物へと入った。彼と話をした、展望を語った、希望を掴むために建てた砦の一室へと。
そこで……涙を流すことも出来ず、後悔を振り切ることも出来ず、ただ声を上げ、懺悔の祈りを繰り返し続ける。
「――すまない――すまない――っ。私は君にふさわしい男になれなかった。君が抱えていた苦しみの、そのほんの一端すらも担ってやることが出来なかった――」
どれだけ祈ろうと、どれだけ悔恨に身を焼こうと、決して報われることはない。
そんなことは知っている。理解している。それでも、私の身体は、心は、前に進む力を残していないのだ。
「――私だ――その役割を担うべきは、買って出るべきだったのは、私だった――っ。私が……っ」
誰かが死ねば、王宮は目を覚ます。いいや、違う。熱狂から一転し、戦慄に凍りつかされて退避を繰り返すようになる。
そんなことは、私とてとっくに想定していた。けれど、それだけはするまいと心に決めていた。
甘かった。そんな考えが、保身が、根本的に甘ったるかったのだ。
どんな手段であれ、全員を無事に帰還させる。彼は、ただその一点に集中していた。
私などよりもずっとずっと広い視野を持ち、何よりも強い覚悟を胸に抱いてあの場所にいた。
鍛えた拳が通じず、規格外の魔術ですら封殺された現実を前に、ただ心を閉ざすしかしなかった私とは違い、彼だけは未来を見ていたのだ。
「――私が――なんの価値も持たず、強さもなく、覚悟すらも決まっていなかったこの愚かな私が死ぬべきだったのだ――っ。君ではなく、この私が――」
君だ。生き残るべきは君だったのだ。命を投げるべきは私だったのだ。
君は優秀過ぎた。私が愚か過ぎた。ゆえに、その決断を君ひとりに決めさせた。君が自らを投げ出さねばならない状況に追い込んでしまった。
「なんだそのざまは――っ。王子として、騎士団の創設者として、君を補佐する副官として、お前はいったい何をしていた! ふざけるな――っ!」
無様。そのひと言だけが私を表す言葉だ。
どれだけの言葉で飾ろうとも足りない君の気高さの隣に、これほどまで薄汚い男が立っていたのかと思うと、それだけで強い殺意を覚えてしまう。
今、このときにでも、自らの喉を掻き切り、この身のすべてを君に差し出したい。命の交換を申し出たい。
なのに……っ。それは……叶わない。どれだけの謝意を込めようとも、どれだけの憎しみをぶつけようとも、この身では君を……
「……ぐ……ぁあ……ぅぐううぁあ――っ!」
立たねばならない。立って、皆を導かねばならない。立ち上がり、彼女と共に前へ進まねばならない。
にげろ。君が遺したこの意志に背くことだけは決して――