第四百九十二話【そっか】
対策を。見て、気づいたものを共有して、対策を立てよう。そう言ってテントに戻ったのに、俺達は誰も口を開かなかった。
開けなかった。開けるわけがなかった。とてもじゃないけど、対処する手段があるだなんて思えなかった。
ゴーレムはマーリンの魔術でも壊しきれなかった。壊してもすぐに復活してしまった。あまつさえ、ついには壊せなくなってしまったんだ。
あんなものを相手に、いったい何を考えればいいのか、誰もわかりっこなかった。
俺が何か言わなきゃいけなかった。だけど、何も言えなかった。
マーリンにあれを壊せるような魔術を開発して貰って、マーリンにあれの再生を食い止める方法を見つけて貰って、マーリンに、マーリンに……
思い浮かぶ言葉のすべてが、マーリンに頼るものばかり。励ますどころか、ただ縋りつくだけになってしまう。
それに……その縋りつきたい相手が、マーリンが、誰よりも憔悴しきっていた。
自信を打ち砕かれ、勇気を挫かれて、呼吸の音すら聞こえないくらい静かに、小さく丸くなってしまっていた。
だから、誰も何も言えなかった。こんな状態のマーリンにこれ以上の重荷を背負わせる言葉なんて、俺にもフリードにも言えるわけがなかった。
だけど……マーリンに期待する以外に道がなかった。だから、何も言えなかった。
今日はもう休もう。明日、落ち着いてから考えよう。
誰が言ったわけでもないけど、勝手にそんな思いが芽生えて、三人の中になんとなく共有された気がした。
わかってる。それはただの現実逃避で、寝て起きたからって何かが好転することはない。
むしろ、部隊が突入しなくちゃならない期限が迫るばかりで、一分一秒を無駄にする余裕なんてないんだ。
でも、俺達は揃って、何も言わずに眠りに就いた。
寝て、起きて、そうしたら……まだ、旅の途中だったりしないかな、って。そんなくだらないことを考えたのは、俺だけ……かな。
ああ。旅をしてた頃はよかった。まだこんな絶望的な現実を知らずに、俺達ならきっと大勢を守れるって信じていられた。
その大言壮語な夢に向かって、本気で邁進していられた。そんな日々が、もうずっとずっと遠いもののようで……
――揺蕩う雷霆――
声が聞こえた。自分の中から……いや。自分の……口から。聞き馴染のある、強化魔術の言霊が聞こえた。
けれど、それは女の子の声だった。けれど、マーリンの声では――その術を唱えているべき彼女の声ではなかった。
ぶわ――と、視界が一気に明るくなって、青空の下の広い視野の中に、四足歩行の醜い獣が――魔獣の群れが映り込んだ。
そして俺は――俺の意識とは無関係に動くこの身体は、危険な生き物の群れのど真ん中へと飛び込んだ。
その手に、剣は握られていなかった。鞘つきの剣も、王様から貰った剣も、ましてや工事用のハンマーも、何も。
何も握っていない無手で、俺は――俺の身体は、魔獣の身体を突き飛ばす。まるでフリードみたいに、磨き上げられた技で敵を倒していった。
けれどその手は、その拳は――俺の意識が宿っているその身体は、俺のものじゃなかった。
――揺蕩う雷霆――
また、声が聞こえた。俺だと思っていた、俺じゃない誰かの身体から。
気づけば景色は変わっていて、目の前には別の魔獣の姿があった。
けれど、さっきとは少しだけ違うものが見えた。魔獣の種類が違うとか、場所が違うとか、そういうのじゃなくて。
マーリンがいた。髪が短くて、ちょっとだけ大きくなっていたけど、見間違えようもないくらいハッキリと面影を残した、大人の彼女が視界の端にいた。
マーリンが……俺のことを応援している……いや。見守って……違う。
教えて……導いてくれている……?
――揺蕩う雷霆――
また、声と共に景色が変わる。
今度は、空を飛ぶ魔獣の姿が見えた。魔獣……なのかもわからない、ドラゴンのような怪物が。
そこはきっと街中だと思う。見覚えがあったような気もする。けれど、わからなかった。
記憶が曖昧なんじゃなくて、そこに焦点を合わせられなかった。目が、景色を見ようとはしなかった。
目の前のドラゴンにばかり夢中になって、それ以外のものに集中出来なかった。だから、わからなかった。
でも、やっぱり彼女の姿があった。大人になったマーリンが、俺の前に立って、何かを……倒そうとして……?
――揺蕩う雷霆――
真相を掴めないうちにまた景色が変わった。そこは……見覚えのある山の中……だった。
積み上がった岩の壁があって、大人になったマーリンの姿があって、そして……フリードだ。マーリンと同じように大人になったフリードもそこには立っている。
今はマーリンよりも小さいのに、俺よりもずっと大きくなったあいつが、マーリンの隣に立っていて……
「――ゆめ――か。ああ、そうだ。寝たんだっけ」
そして、俺はひとりで目を覚ました。
自分の手、自分の声、自分の身体。胸は苦しいけど、ちゃんと俺の身体だ。
外はまだ真っ暗で、ふたりも当然起きていない。真っ暗闇で、俺だけが目を覚ましたみたいだ。
「……今の夢……」
ひとりで目を覚まして……ぽつ。と、自分の見た夢を呟いた。俺が……俺じゃない俺が、マーリンやフリードといた夢。
そして、見覚えのある場所を思い出して、それから……
「……そっか」
胸が熱い。
あの夢は、未来だ。これから先に訪れる、希望ある未来の光景だ。
マーリンは大人になった。フリードも大人になった。ふたりとも、すごく頼もしい姿をしていた。
そして、ふたりがいた場所――最後に見た景色、あの場所は――
「……っ。やっぱり……やっぱり、やっぱり! そうだ……そうだったんだ……っ」
胸が、身体が熱い。
ふたりを起こさないように、ゆっくり、静かに、俺はテントを出た。
そして、森の終わりを――あのゴーレムを閉じ込めた、地面の壁を見に行った。
そこは……間違いなく、夢に出てきた場所だ。
「土は削れて岩が露出して、森も季節が変わって雰囲気は違った。でも、間違いない。ここだ。また、この場所に来られたんだ」
胸が、身体が、心が熱い。
いつかの未来に、あのゴーレムを倒すための戦力を整えて、また山を登る日が来る。
勝てるって決まったわけじゃないけど、勝算もなしには飛び込まないだろう。マーリンも、フリードも、ふたりを取り巻く環境も。
じゃあ……期待していいんだ。あのゴーレムを倒して、魔獣を倒して、その向こうにいるかもしれない、もっと厄介な敵を倒す日を。
みんなに平和と幸せをもたらす日が、絶対にやってくるって――
そっか。ああ、そうか。ああ――
「――俺じゃ――ないのか――」
熱い。
熱い。熱い。熱い。身体が――指が、手が、腕が、腹が、はらわたが、何もかもが――
「――ごぼ――げほっ」
気づけば俺の視界は回っていて、我慢も抵抗も許されないままに血反吐を吐き散らしていた。
ああ。そうか。俺じゃないのか。その場所にいるのは――その未来にいるのは――ふたりと一緒に戦うのは――
「おえ――っ。げほっ、げほっ……ぶ――ごぼ――」
あれ、なんでだっけ。なんで……? なんで俺は……こんなにも苦しいのを、ずっとずっと我慢していたんだっけ。
内臓が全部焼けて炭になるくらい熱い。指先から全身の皮膚がめくれ上がるように痛い。
あのとき、腹を刺されて、毒を盛られて、それからずっと――なんで俺は、これを我慢していたんだっけ――
「――っ。げぼ――うっ……ごほっ……おれ――ごぼ――」
なんで――なんで、なんで、なんでなんでなんで――なんで、俺じゃない。
隣にいたいって、ふさわしくなりたいって、ずっと頑張った。頑張り続けた。結果も出して、みんなにも、ふたりにも認められた。
なのになんで――俺じゃ――
「げほっ、げほっ……おれ……な――」
気づけば目が見えなくなっていた。視界が全部赤黒く塗りつぶされていて、もう何も見えなかった。
身体の感覚は消えてくれなかった。砂の一粒を踏んでいる感触さえはっきりとわかって、そのすべてが痛みと苦しみを突きつけてきた。
こんなにも苦しい思いをしてきたのに。それに耐えて、こんなに頑張ったのに。
ずっとずっと、ふたりと並ぶために戦ってたのに。なのに、なんで俺じゃ――
「――おれ――るな――っ。折れるな――っ!」
ごぼ――と、腹の奥からとめどなく血が逆流し続ける。苦しい。痛い。熱い。もう嫌だ。
でも――
「折れるな――折れるな――折れるな――折れるなぁ――ああっ!」
――お前にはまだ、やれることがあるハズだ――
「――っ。お前は――勇者だろうが――っ! だったら最後まで――」
ふたりを守る。みんなを守る。そのための策は、ずっとずっと前から、たったひとつだけ思いついていた。
折れるな。逃げるな。負けるな。諦めるな。何よりも――その覚悟を違えるな。
お前自身が打ち立てた目標から目を背けることだけは、どんなことがあってもするんじゃない。
「――マーリン。絶対――絶対に、君はあの魔獣を――いや、どんな障害も打破する大魔導士になる。絶対だ。絶対に――」
目は見えない。でも、自分がいる場所はわかる。自分が持っているものはわかる。
剣を握り、地面に突き立て、それで深く文字を刻む。
この世界のものではない、たったひとりに少しだけ教えた、俺の世界の言葉を。
「――フリード……っ。お前には、俺の意思を残しておくから。お前にだけ……お前だけが、真意を汲み取ってくれるって信じてるからな――」
にげろ。ただそのひと言を地面に刻んで、そして……王様から貰った豪奢な剣を、そっとその場に置いた。
もう、これは俺にふさわしいものじゃない。その看板を下ろそうとしている男には、栄誉が与えられる道理もないだろう。
「……折れるな。折れるな、冒険者デンスケ。お前が……お前だけが、ふたりを守れるんだ。お前だけで――」
前が見えない。でも、向かうべき先はわかってる。
ああ、よかった。向こう側に倒しておいて。あいつらが登れないようにって、傾斜をつけておいてよかった。
手探りで地面を這って、ゆっくり、ゆっくりとでも、その壁をよじ登る。最後の目的を果たすために。
「……ここが頂点か。じゃあ……よう。もう、俺が見えてるだろ」
登って、登って、手をつく場所がなくなったから、頂上に着いたことがわかった。
そうしたら……ゆっくりと立ち上がって、向こう側へ飛ぼうか。
怖くはなかった。恐ろしくも、悲しくもなかった。ただ……悔しくはあった。
「――どりゃぁああ!」
鞘つきの剣を握り締めて、それを振り下ろしながら地面へと叩きつけられる。
痛い……かどうかは、もうわからない。でも、着地も受け身も出来なくて、腕も足も全部ぐちゃぐちゃになったのだけはわかった。
そして……俺に向かってそいつらが迫ってくる音も、ちゃんと聞こえた。
「……マーリン。きっと、幸せになって。そのために俺は君を連れ出したんだ。そのために、俺はこの世界にやって来たんだから」
ごり――と、腹に硬いものが突き刺さった。ゴーレムが突進したらしい。
勢いのまま突き飛ばされて、硬い壁へと叩きつけられる。いや……違う。たぶんこれも、別のゴーレムなんだろう。
「フリード。絶対に、マーリンを守ってくれ。そのために俺はお前と出会ったんだ。そのために、俺はその背中に追いついたんだ」
ご――ごっ――と、何度も何度も突き飛ばされる。痛みはもうない。感じるけど、それがなんなのかを判別する余力がない。
それでも、俺は死なない。死ねない。どれだけボロボロにされても、ぐちゃぐちゃにされても……
「……もう、いいよ。俺のことは守らなくていい。その代わりに、頼みがあるんだ」
剣は……もう、握っていないみたいだ。最後まで放さないつもりだったけど、そう都合よくはいかないか。
じゃあ、これも手放そう。フリードがくれた剣と、マーリンがくれたこの身体。そのどちらも、もう、俺にはもったいないものだから。
「……未来を、守ってくれ。ふたりを助けてくれる、そんな未来を。ずっとずっと、何があっても、守ってやってくれ」
ぐしゃ――と、両足がひしゃげた。立っていられなくなったから、ひしゃげたんだと、折れたんだとわかった。
そして……もう、立ち上がることは出来なかった。立ち上がれるようには、治らなかった。
剣も、治癒能力も、全部手放した。もう俺は、この岩の塊に踏み潰されるのを待つだけだ。
でも……意志は残した。マーリンに、フリードに、希望を託した。
ああ……それでも、やっぱり……
「――死にたくない――」
ずっと、一緒にいたかった――




