第三百九十一話【ここで臥すわけには】
身体が熱い。手足が重い。意識がもうろうとして、焦点がどこにも合わない。
この感覚を――症状を、俺は嫌と言うほど知っている。ずっとずっとつき合ってきた、忌々しいあの毒の症状だ。
でも、どうして。医者に診て貰って、もうなんともないって言われたのに。
旅のあいだも長く残り続けた症状も、最近は感じなくなってたし、そもそもあれはプラセボみたいな、思い込みの症状で……
「――げほ――っ。げほっ、ごほっ」
まずい。身体の末端がしびれ始めた。咳をするたびに血を吐いてるから、だんだん呼吸が浅くなって、酸欠になりつつあるのかも。
あるいは……血液そのものが不足し始めた……なんてこともあり得るのか……?
なんで。どうして。俺の身体に何が起こってる。
この身体は、傷なら瞬時に癒えるんだ。マーリンがくれた治癒能力のおかげで、ケガはたちどころに治ってしまうように出来ている。
だから、内臓に傷がついたとか、気道が裂けたとか、そういうので血を吐くようなことは起こらない。起こっても一度二度で、すぐに治ってしまう。
なのに、どれだけ経っても咳は収まらないし、そのたびに真っ赤な血を吐き出してしまう。
痰や唾に血が混じってるのではない。溺れるくらいの量の血が、身体の内側からあふれ出てしまってる感覚だ。
「うぐ――ごぼっ。げぼっ――ごほ――っ。ま――魔獣――っ」
目が回る。どんどん身体の平衡感覚が失われていく。刺された瞬間の、一番症状がきつかったときの状態に近づいていく。
こんな状態で魔獣に襲われでもしたら、いくらなんでも太刀打ち出来っこない。
ぼやける視界をあっちこっちに向けて、周りの状況を確認する……けど……っ。
「はあ――はあ――うっ。げほ――っ」
確認が済むより前に吐き気が――あふれる血が抑えられなくなって、両手を地面についてそれを吐き出してしまう。
そしてそのたびに前後不覚になってしまって、自分がどっちの方向を確認し終えたのかもわからなくなった。
ひとまず、今この瞬間に死んでないってことは、魔獣に襲われてはいないんだろう。
でも……これだけ血の匂いをまき散らしたら、いつ迫ってくるかもわかったもんじゃない。
せめて……せめて、立って戦えるように……歩いてでも逃げられるくらいに回復しないと……
「――う――おえぇ――っ。ごぼっ、げほっ」
ゆっくりと、剣を杖代わりにして身体を起こせば、重力で内臓が全部潰されたんじゃないかってくらいの吐き気に襲われる。
それでまた地面に突っ伏せば、今度は血の海で溺れそうになって、たまらず口から全部吐き出した。
どうして、何が起こってる。俺の身体はいったいどうなってるんだ。
そもそも、毒の症状が強かったときでも、こんなふうにはならなかった。
生きるか死ぬかの瀬戸際みたいな苦しさはあったけど、内臓がどうにかなるようなことはなかったのに。
それが今のこれはなんだ、どういうことなんだ。
一番症状が重いハズのあのときより、どうして今のほうがひどいことになってる。
そもそもこれは、本当にあの毒の症状なのか。もしかして、全然違う何かをどこかで貰ったんじゃ――
「――げほ――ッ。げぼ――ぐ――がはっ」
吐き損ねた血が鼻にまで入って、一瞬だけ意識が飛びかけた。吐き気や熱っぽさよりも、吐血によって呼吸がままならないのがまずい。
ゆっくり、落ち着いて、冷静に。深呼吸をしよう。って、頭では必死にそう唱えるのに、身体は反射的に血を吐き出してしまう。
もしかして、肺なのか……? 人間の身体は、気管にものが入るとそれを吐き出すようになってるって言うし。
それで、ずっと異物が――血液が侵入するから、反射行動として咳が止まらないとか。
「――ごほ――っ。それが――げほっ、げほっ。わかっても――」
もしそうだとして、じゃあ俺には何が出来る。俺は何をしたらいい。
この身体は、傷なら治る。どんな重症だろうと、一瞬で治ってしまう。それこそ、魔獣にかじられた傷跡ひとつ残さずに。
でも、じゃあ、なんでこうなってる。もしかして、身体の内側は治らない……なんてことがあるのか?
いや、違う。そんなわけない。だって、もしそうだったら、口の中を切ったり、口内炎が出来たりって、そういう記憶が残るハズだ。
それにも覚えがないってことは、そっちもすぐに治るってこと。それも、気づくよりも前に。
じゃあ、体内だから……粘膜だから治らないってわけはない。この治癒能力は、どんな部分に出来た傷もすぐに治してしまうんだ。
でも、だったらどうして……
「げほっ……げほっ……ザッ……ク……っ。来て……」
何もわからない。自分がどうなってるのかも、どうしてどうにかなってるのかも、何も。
でも、この状況はまずい。俺の命が危ういし、この血の匂いでのせいで魔獣が集まる可能性も高い。そしたら街も危険にさらされかねない。
せめて移動しよう。せめて、どこかに身を隠そう。街へ戻って医者を探すのが一番だけど……っ。
考える余裕なんてない中で、俺が選んだ――縋った相手は、医者でも神様でもなく、一羽の大フクロウだった。
いつかそうなったように、お前がいてくれたらと念じて、声に出して呼んでみる。
これで来るとは限らない。でも、あのときマーリンが寄越してくれたわけじゃないなら、俺の呼びかけに応えてくれたハズ。
たった一度の出来事を頼りに、俺はその名前を呼んだ。そして……
「……はは……げぼっ。ごほっ、ごほっ。お前……すごいなぁ……」
ばさ――と、力強い翼の音が聞こえたと思えば、真っ赤になった地面に大きな影が落ちる。
振り返らなくても、上を見上げなくてもわかるそのシルエットは、伏せてなくちゃならない今の俺にはとても頼もしいよ。
「――ごほっ。ザック……お願いだ。俺を……ごほっ」
ずん。と、そいつが地面に降り立てば、まるで頼みを聞いてくれたように、ほろ。と、一度だけ鳴いた。
そしてすぐ、俺の身体を持ち上げようとして……でも、俺の様子がおかしいと気づいてか、前みたいに咥えるのを躊躇したように見える。
「大丈夫……だから。咥えてどこへなり連れてってくれ。でも……でも……」
俺はこれからどこへ向かえばいい。
マーリンには心配かけられない。もうあんな顔をさせるわけにはいかない。
フリードにも、やっぱり心配させられないし、ほんの些細なことでも足を引っ張りたくない。
王都へ戻るのも……ダメだ。せっかく信用を積み上げ始めたのに、主力のひとりがどうにかなったなんて噂が立ったら、騎士団にも迷惑がかかる。
街へ戻ったら……こんな姿をみんなが見たら、魔獣にやられたと思って不安になるだろう。じゃあ、それもなしだ。
「……山の中へ……人目につかない場所へ連れてってくれ。そこで……ごほっ、ごほっ」
休めば回復する……かはわからない。でも、最初に毒を盛られたときは、時間の経過で多少は楽になった。
なら、それに賭けるしかない。治癒能力はちゃんと働いてるハズだから、ゆっくり休んで、血が出ている部分が塞がりさえすれば……
ザックは俺の頼みを聞いてくれて、前より優しく俺を咥えると、ゆっくりゆっくりと空へ舞い上がった。
その進行方向が山の奥なのを見たら、やっぱりこいつは頭がいいんだなって、安心して――




