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第三十一話【三人】


 眩しい陽射しの照らす湖に、そのひとはいた。


 ぱしゃり——と、水の跳ねた音が、そこで止まってしまったかのようにさえ錯覚する。


 私の呼びかけに応えるように、彼女は岩陰から姿を現した。その瞬間から、世界の全てから切り離されてしまったのだ。


 その姿を目にしたときから、初めて世界が始まった。

 そう断言しても構わない。それほどの衝撃が、私の全身を駆け巡った。


「——美しい——」


 陽に照らされた髪は、まるでカラスの翼のように艶やかな黒だった。


 水に濡れた肢体は、まるで絹のようになめらかで、しかしまだ青い果実のように張りがあった。


 どこか儚げなその表情は、消えてしまわぬように強く抱き留めなければと、私の心を焦らせた。


 まだ幼なげな姿と、それに似つかわしくない子を成すに足る豊満な肉体は、けれど肉欲よりも感嘆へと心を突き動かした。


 言葉は、何を思うよりも先に口を衝いていた。


 美しい。称賛として使われるその言葉が、あまりに不足した陳腐なものに思えるほどに、そのひとは美しかった。


「——っ! なんと美しいのだ、君は——っ! どうか——どうかこのフリードリッヒの伴侶となり、子を残してくれないか——っ!」


 私の心はすっかり魅了されていた。


 何をしても手に入れたい。共に立ち、笑い、未来へと歩みたい。欲よりも先に、願いが私を駆り立てる。


 湖のはたに立っていたはずの私の身体は、気付けば膝の上までを濡らしていた。


 岩の向こうに見つけたはずのそのひとは、気付けば私の目の前に——跪く私の見上げる先にいた。


 小さなその手を取って、私はそのひとに求婚する。

 他のどの女も、もはや私の心を埋められぬ。

 このひとを知ってしまったから、どのような願望も飢えを満たさぬ。


 そのひとが困惑に震え、悲鳴をあげて、たじろいでしまっているのはわかった。

 それでも、私はこの手を放すわけにはいかない。


 このひとを手に入れられぬのならば、ゆうとして在る私にはなんの価値も残らない。ならばこそ——


「——マーリン——っ! 大丈夫か! 何があっ——うちのマーリンたそに手を出す不届きものはどこのどいつですかなぁあああああ——ッッッ‼︎」


「——っ! で、デンスケ……っ」


 そのひとがまだ戸惑っている、その真っ只中のことだ。

 湖の向こう側——岩陰よりもさらに向こうから、男の声が聞こえた。


 そしてその主は、ざぶざぶとまるで海原のような波飛沫を上げながら、そのひとの前に——私の前に立ちはだかった。


「——君は——っ!」


「——ほ? よよ? そのお顔はもしや……」


 私の前に立ちはだかった男の姿には、顔には、覚えがあった。いいや、忘れようはずもない。


 そのひとにデンスケと呼ばれた彼こそが、今の私がここに立っている理由。

 かつて私に、己の器の満たされなさを理解させてくれた、名も知らぬ恩人だったのだ。


「やはり! 貴殿はフリードリッヒ王子! いつかの街でお世話になった、フリードリッヒ王子ですな!」


「……デンスケの……友達……?」


 っ! 名を……名乗ったわけでもない私の名を、彼が覚えていてくれた。そのことが、堪らなくうれしかった。


 私を知っているふうな彼の様子に、そのひとも少しだけ警戒を緩める。そして……


「ま——ままままマーリンたそ! はやく! はやく服を着てくるんですぞ! 女の子が人前で肌をやたらに晒すんじゃありません!」


「えっ……え、あわ……う、うん」


 彼に歩み寄ろうとしたそのときに、その彼自身から叱責を受け、なんとも慌てた様子で——しかしながら、羞恥の感情ではなく、もっと別の理由で岩陰の向こうへと走り去ってしまった。


 もしや……そうか。いや、なるほど。ならば納得だ。


「……そうか。あのひとは君の……」


 彼ほどの器量ならば、どのような女も惹かれようもの。

 それがたとえ、すべての男を魅了する天女であったとしても。


 同じように、あのひとに魅了されぬわけもなし。

 彼が私と同じ……いいや。私よりもずっと優れたゆうであるならば、然してその色香に導かれぬ道理もないのだろう。


「……いいや。今はまず、再会を喜ぶべきだろう。息災そうで何よりだ、かつては名も知らなかった君よ」


「っとと。王子様に頭を下げられて、まだ名乗らないなんて話はないでしょう。私はデンスケと申します、恩義あるフリードリッヒ殿」


 彼は……デンスケは、礼をした私の前に膝を突き、深く頭を下げて名を名乗った。


 ピンと張り詰めた鉄線のような、美しい在り方は変わらない。

 彼は私を王子と知り、かつてには恩を受けたとも思い、敬うべき相手と扱いながらも、かつて見た姿と変わらぬ心の在り方をして見えた。


「……王子はよしてくれないか、デンスケよ。私は今、その名を持ち合わせていないのだ」


「……王子の名を……持ち合わせない、ですか?」


 互いの立場など関係ない、凛とした彼の在り方には心の底から敬服する。


 だが、誤解のひとつはきちんと解いておかなければなるまい。

 この私が彼を敬うのならば、その心の内は曝け出すべきだろうから。


「私は今、ひとりなのだ。近衛も道連れもなく、ただひとりでに旅をしている。いいや……」


 逃げてきた……と、何を恥ずこともなく彼に打ち明ける。

 すると、それを聞いたデンスケは……やはり、私の思った通りの顔を見せた。


「逃げてきた……ですか。では、貴方は王子ではないひとりとして、やりたいことが出来てしまった……のですかな?」


「……ふふ。まったく、その通りだ」


 なるほど。と、頬をほころばせるデンスケの表情は、どことなく……まだ、私が幼い頃に見た父の顔と似ていた。

 偉大なるアンドロフ王と同じ、私の歩みを見守るのではなく、期待しているものの笑みだった。


 けれどきっと、彼は知らないのだろう。


 私が歩むその先は、君のその背中へと通じているのだ。

 私は今、君のようになりたくてひとり歩いているのだ。


 そんなことを、君は決して知る由もないのだろう。


「……デンスケ。その……ともだち……?」


 ほんの一瞬の出来事にも思えた彼との再会に、また玉の音を思わせるそのひとの声が差し込んだ。

 岩の向こうに目をやれば、どこか寂しそうな顔でそのひとが彼を見ているではないか。


「ああ、すまなかった。あまりの美しさに、つい声を荒げてしまったのだ。心から謝罪する。併せて……デンスケ、君にも。君の伴侶に手を出そうとしてしまった」


 申し訳ない。私がそう言って頭を下げると、デンスケは少しだけ困った顔をしてしまった。

 謝られても困る……か。そうだな、その通りだ。


 どれだけ美しいひとであっても、不貞を疑わねばならなくなる事態に良い気分などするものか。


 私がした行為は、それだけ卑怯で、醜悪なものだ。

 私はふたりの間に、要らぬ傷を付けようとしてしまったのだから。


「……ごほん。その……ですな。拙者とマーリンたそとは……いえ、別に……」


「……? デンスケ……?」


 どれだけの叱責も、罵倒も、謹んで受け止めよう。そう覚悟しての申し出だった……が……


 私の耳に届いたのは、どうにも歯切れの悪い、彼らしくない言葉だった。

 それからすぐに、そのひとが彼のそばまでやってきて……


「えっと……えっと、ね。僕は、デンスケの友達の、マーリン……だよ。君は……君も、デンスケの友達……なの? なら……」


 僕とも友達になってくれる……? と、どこか期待に満ちた子供のような眼差しを私に向けた。

 美しいひとと思った彼女のその姿は、まるであどけない子供のようにも思えた。


「……ああ、なるほど。では……なおのこと、か。デンスケ、ここに心から謝罪を」


「あ、謝らないで欲しいんですな⁉︎ と言うか、わかってるなら絶対に謝っちゃダメだと思うんですが‼︎」


 いけない。と、そうわかっていても、頰が緩んだ。

 そんな私を見てだろう、デンスケもまた赤い顔で笑っていた。


「……マーリンと言ったな。私はフリード。そこなデンスケの親友ともである、フリードだ。どうか、君とも親しい間柄になりたい」


「フリード……えへへ。友達……フリードも、友達……」


 まるで子供のように無邪気な顔で、そのひとは……マーリンは笑って、そして……どうしたことか、私に一歩近寄って、頭を差し出した。これは……


「マーリンたそ、違うでござるよ。なでなでは友達の証ではないんでござる。ちょっと、マーリンたそ」


「……ふふ。はっはっは。デンスケ、君にも振り回されるものがあるのだな」


 笑いごとではござらんが! と、憤慨するデンスケを、マーリンは何もわかっていなさそうな目で見つめていた。なんと罪な女だろう。


 照れ隠しもあったのだろう。デンスケは早く水から上がろうと提案して、マーリンの手を引いて湖岸へと進み始めた。

 私はその背を、ゆっくりと追い掛ける。


 案外、手の届きそうなところにいたのだな。と、その言葉は秘することにした。


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