第三十話【ふたつの水音】
街を離れ、そして別の街を目指すこともせず、俺達は山道を進んでいた。
今の目的地は、以前にマーリンが使っていたという寝床のひとつ……だそうだ。
「ここ。ここだよ、デンスケ」
「ここか。案外近く感じたな。久しぶりでも、身体はすぐに慣れるもんなのか」
山で生活してたのなんて、半月くらいしかないんだけどね。
それでも、はじめてマーリンの寝床にお邪魔したときに比べたら、全然疲れてない。うーん……これが適応……
そんな感慨にふける暇もなく、マーリンはまたこっちこっちと手招きをする。
どうやら、この近くに見せたいものがあるらしい。
いつかした約束の通り、彼女の好きなものを見せてくれようとしてるのかな。
「こっちだよ、デンスケ。はやく、はやく」
「はいはい、すぐ行くよ。荷物は……猿に漁られてもやだしな、持ってくか」
はやくはやく……って、急かす姿は少し珍しいかも。それだけ好きな場所……なのかな。
それとも、しばらくの街生活で、自然の恵みが恋しくなってる……とか?
もしそうなら……ほんのちょっとだけ、街に馴染むのは大変になりそうだな……なんて、考えたり考えなかったり。
うれしそうに手招きするマーリンに連れられて辿り着いたのは、まだ高い陽射しでキラキラ光る湖だった。
「ここがマーリンのお気に入り? たしかに、急かしてた意味もわかったかも」
水浴びをするため、飲み水を確保するため、その他多くの利用目的のため、水場を訪れる機会はそれなりにあった。
けれどここは、その中でも群を抜いて……広い。広くて、かつ周りを林に囲われた場所。
かつて空を飛べた彼女にとって、最高の休憩場所だったのだろう。
「……ああ、なるほど。街にいる間は、狭いシャワーで我慢してたもんな。便利な生活も、反面狭苦しく感じてたんだな」
今でこそ生えてないけど、大きな翼を持つ彼女にとっては、空間が狭い広いというのは、思ってた以上に重要なのことかもしれない。
俺だって、足を伸ばせる湯船が恋しいんだ。文字通り羽を目一杯伸ばして休める場所が、今のマーリンには必要なの……かも…………
「……ん? あれ、ってことは……」
ざぱん。と、水の音がした。うーん……なるほど。それも久しぶりですな。
「ぷはっ。デンスケ、気持ちいいよ。はやく」
「っ! マーリン! マーリンたそ! だから! そんな格好を男の子に見せちゃダメですぞ!」
いやん! えっち! って、絶対リアクションが逆なんですな。
しかしながら、これももう大丈夫。だって、マーリンはもう知ってるんだ。
いくら友達だとしても、一緒にシャワーは浴びないんだ、って。
そう、もうあの頃の世間知らずな彼女はいない。シャワーの使いかたからちゃんと教えたんだから、そのくらいのことももう弁えて……
「……? あっ、そっか。うんしょ……」
「マーリンたそぉおおお——っ⁉︎ 違う! 違うでござる! 服を脱いで入るんだよの部分ではなくてですなーっ⁈」
もう! この子、全然成長してないんですけど!
マーリンはおもむろに……そして、当然って顔でローブを脱いで、あろうことかワンピースにまで手をかけ始めた。ストップでござるけど⁉︎
街では湖に飛び込まないよ。シャワーがあるからそれを使うよ。ひとりずつ入るんだよ。
それと、服のまま水浴びはしないよ……の、最後の部分だけしか覚えてなかったんですかな⁉︎
「順番ですぞ! マーリンが入ってる間、拙者は木の実でも探してますので! 終わって、ちゃんと身体も服も乾かしてから、呼びに来てくだされ!」
とってもおいしい思いをしてる気はするんですが……どうしてですかな。
こう……あまりにも無防備過ぎて、罪悪感がとてつもないんですぞ。
そんなわけだから、俺は大急ぎでその場を離れて、身を隠すように林の中へと飛び込んだ。もう……
「……はぁ。根本的な部分で認識が間違ったままなんだな。早いとこ矯正してあげないと、本当に大問題が起こる……」
街には行かずにまた森の中へ……って提案も、今となってはとてもありがたい。正解の中の正解を引き当てた感じがするよ。
ああも羞恥心がない……のは、きっとそんなものを芽生えさせる機会さえなかったから……なんだろうけどさ。
もう……こう……なんと言うか。男として、とってもかなしいし、悔しいよ。
「はあぁ。遠くない将来、黒歴史にならなきゃいいけど……」
いざ羞恥心を手に入れたら、これまでのことを思い出して……なんて。はあ……そんな想像すらまだ出来ないけど……
ひとまず、逃げ出す言い訳に使った約束は果たさないと。
そう考えて、俺は木の実や果物を探し……探……そんなもん、マーリンに見つけて貰わないとわかんないんだけど……っ。食べれるの、どれ……
「……デンスケ。水浴び、嫌いだった……のかな」
ちゃぷん……って、気持ちいい音を鳴らして、僕の身体はまた水の中へと沈んだ。
デンスケと出会ってから、もうすごく長い時間が経った。
ひとりぼっちだったころに比べたら、ずっとずっと短いハズなのに。
とっても楽しくて、一日があっと言う間に終わっちゃうような、幸せな時間。
あっと言う間に終わっちゃうのに、ずーっとこうだったみたいに感じられる時間。
デンスケは……やっぱり、街へ行きたかった……よね。
でも、僕のわがままに付き合ってくれて……
水浴びなんて気分じゃなかった……のかな。
でも……僕はデンスケに、これくらいしか楽しいことを教えてあげられない。
デンスケがたくさんの幸せを僕にくれるのに、僕はデンスケに何もしてあげられない……のかな。
「……ごめんなさい」
デンスケは言ってくれた。僕はこれから、人間になるんだ……って。
翼も、髪も、瞳も、それに名前も。全部捨てて、マーリンって人間になるんだ……って。そう言って、僕を引っ張ってくれた。
僕はそんなデンスケに、出来るだけの恩返しがしたい。
デンスケにして貰ったうれしいことと同じくらいのことを、僕だってデンスケにしてあげたい。
でも……僕にはそれがわからない。僕には……まだ、人間になれてない僕には……
「……デンスケ……」
ざぷん。と、ちょっとだけ暗い音がして、僕の全部が湖に沈む。
水の中は嫌なことも忘れさせてくれる……気がするから。だから、好き。
身体が軽くなって、気持ちよくて、嫌なものが何も見えないのが好き。
でも……デンスケは違う……よね。
だってデンスケは、あんなにたくさん幸せなことを知ってるんだ。
楽しいことも、好きなことも、きっと僕よりいっぱい知ってる。
じゃあ……水の中に沈んだら、その好きなことが見えなくなっちゃう……だけ、なのかな。
それじゃあ、デンスケがここを好きになるわけない……んだ。
「……ぐす」
なんでか、涙が出た。
せっかく水の中にいるのに。
せっかく、デンスケがいてくれるのに。
ひとりぼっちのときにいっぱい出た涙が、また今も出てきてしまった。
そうしたら、水の中が途端に怖くなって……僕は慌てて自ら顔を出した。
こんなこと、今までに一回もなかった。楽しい場所が、まさか怖いところになるなんて。こんなの、今までに一回も……
「——何者だ——っ!」
「っ!」
ばしゃばしゃ、ざぷざぷと音を立てたから……かな。人の声がした。
ここにはあんまり人なんて来ない……と思ってたのに。怒ったような、警戒した声が聞こえた。
怖い。すごく怖くて、また涙が出そうだった。でも……
僕は……人間になるんだ……っ。デンスケが出来るって言ってくれたんだ。だから……ちゃんとしなくちゃ。
「僕は——僕は……人間で……」
声が聞こえてきた方向を振り返ると、少し遠くに……湖岸の岩に隠れた向こう側に、人がいるのが少しだけ見えた。
でもきっと、向こうからはこっちが見えない。音だけで僕に気付いたんだ。
なら……黙っていれば、やり過ごせるかもしれない。
そんなことも思ったけど……でも、デンスケなら、それよりもっといい方法があるって背中を押してくれる……よね。だから……
「僕は……マーリン、だよ。人間の……危なくない、魔術師……だよ……っ」
隠れるのはやめよう。デンスケがやってたみたいに、胸を張ってみんなの前に出よう。
あの街では出来たんだ。だから、また……今度は、デンスケに全部やって貰わなくてもやらなくちゃ……っ。
ざぱざぱ……って、足がつくところまで泳いで、それから岩の向こう側に顔を出した。するとそこには……
金色の、綺麗な髪だった。銀色とは違う、あったかい色だ。
デンスケより、僕より小さい、男の子……だよね。
剣も持ってて、僕と違ってすごく堂々としてて……
そんな彼が、やっと僕を見つけて……
「——美しい——」
「……え……?」
その金色の目と僕の目があったら、その男の子は……服も脱がずに湖に飛び込んで、僕の近くまで急いで走ってきて、それで……
「——なんと美しいのだ、君は——っ! どうか——どうかこのフリードリッヒの伴侶となり、子を残してくれないか——っ!」
「——え——」
美しい……って。その人がそんなことを言うから、僕はびっくりして声を上げてしまったんだ。
今まで出したことなんてないくらい大きな声を。