第三百二話【この足がすべてを踏み潰すなら】
フリードに見送られて、地下工房を出発する。
ルードヴィヒさんはなんとも思ってなさそうな顔をしていたけど、チェシーさんはすごく心配そうな顔でマーリンを見ていた。
それで……俺は、どんな顔をしてるだろうか。
でも、俺がどんな表情かとか、どんな気分でいるかとか、そんなのは関係ない。
マーリンは結論を出した。そして、そのために行動を起こした。なら、俺はそれを見守る以外にない。
「こんにちは。おじさん、出てきてよ。僕の話を聞いて欲しいんだ」
そしてあの魔術師の工房までやってくると、誰が何を言うでもなく、マーリンは自らそのドアを叩いた。
もしかしたら、彼女にとっては普通のことかもしれない。
いつもやっていた、つらくてもやるしかなかったことの繰り返しなのかも。
それでも俺は、マーリンの背中を見ているのがつらかった。
もしかしたら、前よりもさらにつらい思いをするかもしれない。もっと強く拒まれるかもしれない。
そう思うと、今からでも引き返そうと言いたくなる。
でも……
「こんにちは。お話し、しようよ」
返事はない。それでも、マーリンはドアを叩き続ける。
その姿を前にして、俺だけが逃げ腰でいるわけにはいかない。
もしも嫌な結果になってしまったなら、俺がマーリンを支えるんだ。そのくらいの覚悟を持たないでどうする。
「……いない、の? こんにちは」
けれど……どれだけしつこくドアを叩いても、中から返事が聞こえることはなかった。
拒んだハズの相手がまた来たんだから、当たり前と言えば当たり前の反応なんだけどさ。
それでも、また出てきて欲しい、話を聞いて欲しいと、マーリンは声をかけ続ける。
「……もしかしたら、本当にいない……のかもな。魔術師って忙しいんだろ? ルードヴィヒだって、しょっちゅう留守にしてるし……」
「チェシー、それは違うんだ。私は王宮勤めゆえに、工房を離れなければならない時間が多いに過ぎない。街の術師ならば、むしろ研究により多くの時間を割くだろう」
あまりの静けさに、チェシーさんはそんな可能性を口にする。
けれどそれは、ルードヴィヒさんによってすぐ否定された。
魔術師は魔術の研究をするもの。せずにいられないもの。
だから、工房であるこの場所にいないとは考えられない。
「それでも返事がないのは、集中しているから……実験によって周りの音が聞こえなくなっているから……と、好意的に解釈するにも限度があるだろう」
「やっぱり、意図的に無視してる可能性のほうが高いですよね。まあ、普通の反応ですけど」
関わりたくないと思ってるだろう。けど、それじゃこっちも困る。
なんとかして、もう一回だけ話をする場を……
「……しかたがないか。魔導士よ、少し下がれ。私が話をつける」
「……? ちょっとだけ待っててね。僕がお話ししたら、すぐに変わるからね」
ああ、そうじゃなくって……と、説明する暇も与えて貰えず、ルードヴィヒさんはマーリンをちょっとだけ乱暴にどかした。
どかされてしまったマーリンは、目を丸くして、そんなに急いでたのかな? と、首をかしげる。
なんと言うか……マーリンがまだその段階でちょっとだけ助かったよ。
横入り、ひどい。と、怒ってたら……まあ、それもそれでなんとかなだめようはあるけどさ。
「マーリン、こっちおいで。ルードヴィヒさんが呼んでくれるって。あの人は偉い人だから、おじさんも言うこと聞いてくれるよ」
「……? でも、おじさんに用事があるのは僕だよ。じゃあ、僕が呼ばなくちゃだめ……だよ」
うーん。と、悩んでしまう姿の、その素直さたるや。
俺はもう、こうするしかないかなって思ってルードヴィヒさんを頼ったけど、マーリンはまだ自分でなんとかするつもりだったんだ。
もっとも、そのまっすぐなところが裏目に出る可能性もある。
今回は大人を頼るべきだって、ちゃんと教えておくべきだったかも。
「……えっとね。あのおじさんは、マーリンが怖かったんだよ。マーリンがすごいから、それが怖かったんだ。わかりにくいだろうけど、そういうこともあるんだよ」
「僕が……? でも……僕は、おじさんみたいに暗号を書けないよ?」
すごいの? と、マーリンはやっぱり首をかしげてそう言ってしまう。
自己評価が低いんじゃなくて、評価基準があいまいだから。
自分に出来ないことがひとつでもあれば、その人は自分よりも上。
自分に出来ることが出来ない人には、ただただ不思議そうな目を向ける。
評価基準が曖昧なのは、その基準が自分だから。そして、その自分を誰かと比べたことがほとんどなかったから。
いっぱい褒められはしたけど、誰かと競う経験は結局一度も積んだことがない。
そのことが、今になっても足を引っ張ってるんだろう。
「誰かいないか。宮廷魔術師、ルードヴィヒだ。この工房の主に用がある。いるのならば返事をしろ」
っと。そんなことを教えてる時間はなさそうだ。
普段……ってほどそう親しい間柄でもないけど。
でも、今までに見たどのときよりも威厳に満ちた姿、声で、ルードヴィヒさんは工房のドアを叩いた。
するとすぐに、中から慌ただしく音が聞こえて、そして……
「申し訳ございません。機械を動かしていたものですから、聞こえておりませんでした。本日はどのようなご用件でしょうか、宮廷魔術師殿」
「そのような見え透いた嘘をつくくらいならば、はじめからすぐに顔を出せばよいものを。今回は不問とするが、行いを改めよ」
息を切らした男が姿を現して、頭を低くしながらルードヴィヒさんを出迎えた。
こういうやりかたは好きじゃない……というか、そもそもそんな立場になかったから。見ていてあんまりいい気分じゃない。
それでも、こうでもしなくちゃ話の場を設けられなかったと思えば、やっぱりルードヴィヒさんには感謝しなくちゃ。
あの人だって、権威を笠に着るようなことは好きじゃないと思うし。少なくとも、チェシーさんとのやり取りを見る限りでは。
「先日、この者達が世話になったそうだな。何、咎めるつもりはない。お前の反応、行動は、人道から外れたものでも、罪に問われるようなものでもないからな」
「……っ。これはこれは……申し訳ありません。研究が行き詰っていたものですから。心に余裕もなく、つい声を荒げてしまって……」
謝る必要はない。と、ルードヴィヒさんはもう一度念を押すけど、魔術師の男はやっぱりそうもいかないから。
宮廷魔術師の付き人が隣にいた時点で、こうなる可能性は多少考えたんだろう。だからこそ、今回も居留守を貫こうと思っただろうし。
それでも、まさか本人が出てくるとまでは思わなかった……かな。
思っていた以上に大ごとになってるって、変なふうに勘違いしてないといいけど……
「話があるのは私ではない。魔導士を名乗る、そこの子供だ。彼女はどうやら、お前に要件があるらしい。あの一件について……ではなく、な」
「先日の件とは関係なく……ですか。それは、ええと……」
なんでございましょうか。と、腰を低くしたまま、男は視線をマーリンへと向けた。
なんともいやらしい、媚びへつらうような表情に思えた。
そういうものになってしまったんだと、ルードヴィヒさんもちょっとだけ申し訳なさそうにしてる。
でも、マーリンにはそれがわからない。
立場が違うとか、媚を売るとか、気を揉むとか。そういうのと無関係だから。
だから、あのときと変わらないまま、まっすぐに向かい合う。
たったひとつ、お願いごとをするために。
「えっと……えっと、ね。僕は……僕は、魔導士、だよ。魔導士、マーリンだよ」
「……魔導士……でございますか。それは、魔術師とは違う……のでしょうか」
違うんだよ。と、マーリンは小さくうなずいて、けれど力強く言葉にする。
そして……ゆっくりと、お願いを口にする。言い間違えないように、間違って伝わらないように。
いつか、友達になってくれませんかと俺に言ったように、それとは違うお願いを。
「……僕は、魔導士……だから。だから、だいじょうぶ……だよ。安心して、ね。僕が魔獣を倒すから、おじさんは魔術の研究を頑張って欲しいんだ」
それを聞いた男の表情は、どこか暗く、重く、けれど……まだ、理解にも納得にも至っていない、困惑の中を漂うものだった。




