第二十四話【たったひとり】
それは、大翼を羽ばたかせて空から現れる。
生物のものとは思えぬ、白金の如く輝かしい銀の毛。
生者のものとは思えぬ、凍り付いたかのような青い瞳。
それは、空から現れ、すべてを焼き尽くす。
「――私どもは確かに見たのです――っ。あの魔女が、森を焼き払うさまを。いいえ、森だけではありません。私どもが手を尽くしている畑や、女子供が洗濯に出かける河川すらをも」
銀の毛は炎を映してなお赤く染まらず、紅蓮の中にあってその瞳は凍て付いたまま。
大きさは人間の娘と変わらぬ程度。けれど、翼を広げた姿は大木が伸ばす枝にも劣らぬほど。
きわめて凶暴で、危険な存在。その名を、ドロシー、と。
「……あろうことか、魔女は人の言葉を喋るのです。我々の真似をしている……のでしょう」
魔女はかつて、自ら名乗りを上げた。その姿は、人の子供と変わらぬと錯覚させた。
そうすることで、男を、子を、かどわかし、食ってしまうつもりなのではないか。
「……かつて、私の息子も魔女に魅入られたことがあります。ああ……思い返すだけで恐ろしい。あの時、猟師が通りかからなかったならば……と、考えるだけで身が凍る思いです」
「……そう……でしたか」
畑のわきで、男は身を震わせながら語ってくれた。自らが知っている、この村が知っている、魔女ドロシーという存在を。
それを聞いて……俺の胸は、すごく……すごくすごく、熱くて痛かった。吸った息で身体の内側から焼かれるみたいだった。
「どうか……どうか、あの獰猛な魔女を討伐してください……っ。もう何十日になるでしょうか。あの魔女が山に現れてから、私たちはその恵みを受けられない生活を余儀なくされています。どうか……っ」
男の言葉には、強い感情が乗っている。本心からそれを願っているのが伝わってきた。伝わって……しまった。
きっと、この男の言葉に嘘偽りはない。伝聞や、それに伴う多少の誇張はあるだろうけど。でも、虚偽の証言はない……のだろう。
ドロシーには大きな翼がある。大きな大きな、大人が両腕を広げても到底届かないくらい、大きな翼が。
その銀の髪は、炎の中にあっても白んで見えた。貴金属を思わせるほど美しく、人の体の一部だとは信じられなかった。
空か、あるいは海かを思い起こさせる青い瞳は、どこか冷たい印象を与えただろう。透き通った水晶にも似たそれが、人に現れ得る色と思えないことにも納得は出来る。
そして彼女は、あまりに苛烈な炎を使役する。それを当たり前のものとして。魔獣を焼き払うのにも、野ウサギを捕って食べるのにも。
この男の言葉には、一切の虚偽がない。見たものについても、感情についても、どうして欲しいかについても。
だからこそ、胸の奥があまりに熱く、痛かった。
「それで、被害はどれほど出ているんですか」
「……山の中に作った作業小屋がひとつ。畑は二面、この村の重要な食糧源でした。かつては山の中腹にも採取に出ていたのですが、今ではとても……」
ドロシーは何もしていない。何も、悪意からの行動はしてないんだ。なのに……
きっと、魔獣を倒しているところを見られたんだ。あるいは、自分が食べるぶんの野生動物を焼いていたところか。
畑についても同じ。きっと、荒らしていた魔獣を追い払っていたんだろう。ただそこが、畑というものであることを知らずに。
そして彼女は、ついに決心して声をかけたんだ。何度か姿を見て、見られて、互いに面識が出来たころだろう……って。
友達になってくれませんか――って。きっと、ずっと変わらずその言葉を口にしたんだ。
「人的被害は……出ていない、と」
「……っ。はい。幸いなこと……なのでしょう。あるいは、魔女には高い知性があるのかもしれません。人を直接害すれば、裁かれる可能性がある……と。そう考えているのやも……」
どうして。どうして、こうなってしまったんだ。
人的被害なんて出るわけない。だってドロシーは、魔獣の群れから俺を助けてくれた。あれだけの火力を振り回しながら、やけどのひとつも負わせずに、だ。
どうして気付いてあげられなかったんだ。って、そう責めるのはきっと間違っている。でも……思わずにはいられないじゃないか……っ。
ドロシーは、ただ他人と少し違うだけなんだ。
翼が生えていて、空も飛べる。とてつもない魔術を使って、辺り一面を焼き払ってしまえる。
けれど、その特徴で人を傷つけることはしない。していない……のに……っ。
「……っ。なるほど、わかりました」
「ッ! そ、それでは……」
きっと、何かが少しだけ噛み合わなかっただけなんだ。
たとえばそう、はじめに出会った瞬間が、俺の時と同じだったら。
誰かが魔獣に襲われているところへ、彼女が助けに現れていたら。
溺れている子供のもとへ、空から駆け付けていたなら。
あるいは、彼女は恐れられずに済んだんだ。
恐れられてさえいなかったら、その優しい言葉が……さみしそうな顔が、それでも勇気を振り絞っている目が、この村のみんなにも見えた……
……ハズなのに……っ。
男は俺に期待のまなざしを向けている。それは決して、汚い考えで頼みごとをしている大人のものではない。ようやく射した光に、わらにも縋る思いで希望を見出している目だ。
何かがひとつ噛み合っていたら、ドロシーに向けられていたかもしれない。その目で、俺を見て……っ。
「魔女は二度とこの村に現れません。ここに約束します」
お礼を言われた気がした。でも、きちんと聞こえなかった。聞きたくなかった。そんなものを称賛として受け取りたくなかったんだ。
心の底からの感謝と善意が、どろどろになった廃油みたいに感じられたから。
それからはもう、記憶もあいまいだった。ただ、この熱さと痛みから逃げたい一心だった。
村を出て、道を進んで、山道に入って、獣道さえも外れて。そして――
「――ドロシー。帰ったよ、ドロシー」
約束の場所へ戻れば、そこには火が灯っていた。かがり火……かな。目印として、わかりやすくするため……とか。
けど、ドロシーの姿は……見当たらなかった。でも、彼女がいた形跡はあった。火と、その周りに準備された、たくさんの約束とが。
「……じゃあ、今はちょっと出かけてるのかな。ほんと、素直でまじめだなぁ」
ひとりで先に食べるわけにはいかない。きっと、明日はすごいところへ連れて行ってくれるのだろう。その話を聞く前に勝手にくつろいでいたら罰が当たる。
ごろんとその場で寝転んで、うっすらと星が見え始めた空を眺める。こんなに近くに火があっても見えるくらい、きれいな空だった。
そして……
「――デンスケ――っ! デンスケ、デンスケ!」
声が聞こえたと思ったら、普段聞かないような早い足音が迫ってきた。ばたばたと近づくのは、翼もなくて、銀の髪も青い瞳も見当たらない、人間の…………
「……えへへ。約束、ちゃんと……えへへ」
約束、ちゃんと守ったよ。だろうか。それとも……
熱い。痛い。だから、早く冷やしたい。その一心で、俺は手を伸ばした。こっちにおいでと手招きをして、駆け寄ったその頭をぽんぽんと撫でて……
「……もう、やめよう。いくらなんでも、君は傷付き過ぎたよ」
「……デンスケ……?」
熱い。痛い。苦しい。悔しい――っ。
悔しい。悔しい。悔しい、悔しい、悔しい――――
――悲しい――
触れた手が熱くて、これっぽっちも冷えなくて。堪らなくなって、俺は彼女を思いきり抱き締めた。そして……伝えるんだ。俺の夢を。俺が欲しい、彼女の未来を。
「――翼も、髪も瞳も、魔女であることも捨てた。でも、それだけじゃ足りない。だったら、やることはひとつだ」
彼女の努力は、きっと途方もないものだっただろう。あの村ひとつだけがそうだと、そんなわけがない。その程度で済んだなら、ここまで深く傷付くこともなかったんだ。
その努力が足を引っ張るなら、夢を遠いものにしてしまうのなら。俺が――ほかでもない、たったひとりの友達が、無遠慮に、無配慮に、無神経に破り捨ててやる。
それがどれだけ彼女の過去を踏みにじる行為だったとしても――俺が――
「――名前を――君に、新しい名前をあげる。だから、俺と一緒に街へ行こう。翼も、髪も瞳も、魔女であることも、そして名前すらも捨てて、君は新たにひとりの人間として生きるんだ」
翼も、銀の髪も青い瞳も、魔女という特殊な生まれも、名を与えてくれた親もないこの俺が、俺だけが、彼女を泥の底まで引きずり込んであげられる。この選択に、一切の後悔はない。
彼女はまだ何もわかってない様子だった。でも、それで構わない。無邪気な子供をだましてでも、俺は君に幸せになって欲しいんだ。
そのためなら、どんなことでも――――
異世界へ召喚されて、二十日ほどが経過した。もう、細かい日にちは覚えていない。それくらい真剣に、たったひとつのことに取り組んだから。
「――よし、そろそろ行こうか。忘れ物はないよな、“マーリン”」
この十数日、俺は彼女を新しい名前で呼び続けた。彼女が自然に反応出来るように。そして、かつての名前を少しでも忘れられるように。街に出る、その前準備として。
「うん、大丈夫。デンスケも、ちゃんとお水飲んだ?」
おとぎ話に登場する、騎士王を導いたとされる伝説の魔術師。元ネタは男だった気がするけど、ならかえって都合がいい。男だったら、その名前で呼ばれることはないだろうから。
その翼も、髪の色も、瞳の美しさも、そして魔女ドロシーという名前すらも、何もかもを捨て去ろう。
たったひとり、俺だけがそれを覚えていればいい。たったひとり。彼女のはじめての友達になってあげられた俺だけが。