第二百四十八話【一歩の経験】
部屋に入って、ご飯を食べて、眠って。そして、起きて。
毎日の当たり前を当たり前にこなして、今日も朝日が昇るのを待つ。
「……ふわぁ。あんまり寝れなかったな」
身体は重い。熱っぽい。けど、それとは関係ないところで寝つきが悪かった。
緊張とは違う、けどプレッシャーのようなものを感じて、まぶたを閉じてもモヤモヤしちゃって寝れなかったんだ。
結局、宿は見つからなかった。
街の中をくまなく探したら、あるいは一件くらいはあるのかもしれない。
でも、がんばって探した程度じゃ、この街には旅人を泊めるための部屋は準備されていなかった。
そうなったときに、目の前に現れたのは野宿といういつもの選択肢。
そして、それとは別の、荷物の増える選択肢がひとつ。
「……はあ。マジで……か。マジでこんなもの……」
目の前にあるのは、すやすや眠っているマーリンと、多分起きてるけど布団から出たくなくてもぞもぞしてるフリードの姿。
そんなふたりが眠っているベッドと、そのベッドがある部屋。部屋の中には、家具もそれなりに揃っている。
さてと。ここでひとつ、思い返してみよう。
俺達は根なし草。旅人。流れ者。そしてこの街は、王都で働くための人が寝泊まりする街。つまりはベッドタウン。
ここに観光客は来ない。荷馬車も滞在しない。この街に住んでいる人以外、誰ひとりとして足を止めない。それが、この街の大まかな特性。
だから、俺達は宿を見つけられなかった。
ひと晩過ごすための宿を見つけられなくて、じゃあ……あとは野宿するしかないか。と、そうなったのが、昨日の夕方ごろのこと。
けど、今こうして俺達は部屋にいる。ちゃんとしたベッドもテーブルもある、水道も通っている、立派な部屋に。
それはなんでかと言うと……
「……重た……過去最大に重たい荷物を背負った気分……」
この部屋を借りたからだ。たったひと晩、足を休めるために。
え? 宿はないんじゃなかったのか、って?
うん、そうだよ。そこについて嘘はついてない。宿は見つからなかった。ひと晩だけ泊めて貰える宿は、どこにも。
だから、部屋を借りたんだ。マーリンの名義で。
おおよそ半年……百五十日の期間、この部屋を借りる契約を交わした。つまり、賃貸契約をしたんだ。
根なし草の放浪旅の真っただ中に、まさか家を借りることになるとは。しかも、今日にはもう出発するという。
「いくらなんでもやり過ぎた気がするんだけどなぁ。でも……まあ、納得はしたし……」
提案したのはフリードだった。
いずれは王都で認められ、この近郊でも仕事を受けるのだから。活動拠点が複数あるのは、むしろ望ましいことだろう、と。
あいつにそんな説明をされると、ああ、なるほど。と、納得しちゃうのがよくない。
ちなみに、名義がマーリンなのもフリードの提案だ。
いつか認められたなら、俺はきっと騎士団に協力することになる。そうなったら、そっちの宿舎を借りられるだろうから、と。
反対に、マーリンはその能力だけで、どんな職種からでも誘いが来るだろうから。
いろんな場所に拠点を持って得があるのは、俺よりもマーリンだろう、と。
それと……まとまったお金を持ってるのが、マーリンだけだった……という事情もある。
俺は生活費もまとめて管理してるし、それに……ついこのあいだ、フリードと一緒に豪遊しちゃってるから……
もちろん、みんなで稼いだみんなのお金だから。まとめちゃうことも出来たけど……まあ、それをする必要もないしね。
そんなわけで、根なし草の分際で、それなりにいい部屋を契約してしまったわけだ。
はあ……まさか、初めて部屋借りるのが異世界になるとは……
「……むぅ……どうにも……このベッドは首が痛いな。どんなところでも眠る自信はあったのだが、中途半端な環境では……いっそ野宿のほうが心構えが出来ただろうか」
「おはよう、フリード。変な文句言ってないで、起きたなら話し相手になってくれ。とりあえず、二度と来るかわからないとこに部屋を借りた不安について、吐き出させろ」
む? と、なんだかわかってない顔のフリードの、本当にそんな不安が必要だろうかって心理が透けて……ちょっと腹立つな。
まあ、契約もかなり短いわけだから。そんなに重たく考え過ぎるな……と言われたら、まあその通りなんだけどさ。
「それにしたって……はあ。昨日は納得しちゃったけど、これ……マーリンに押しつけるには、まだ早かったんじゃないか? いくらなんでも……」
「そうだろうか。私はそうは思わないが……ふむ。彼女の場合、どのような環境にも適応出来てしまう力があるからな。こんな部屋は必要ない……と、そういうことならば……」
そういうことではなくて。まあそれもあるけど、本題じゃないよ。
マーリンには借金もある。キリエでの俺の診察料は、彼女の名義で借りたものだ。
もちろん、それについては俺も支払っていく義務がある。そのことは承知の上だ。
でも、あくまで名義はマーリンなわけだから。何かあれば、困るのは彼女なんだよ。
そのうえで、使いもしない部屋を契約させるなんて。
余計な負担を増やしてないか? と、不安も不満も募るよ。
「そりゃ、マーリンには能力がある。それに、能力を応用する才能もある。でも、肝心のがめつさがない。そういう意味では、マーリンに経済的な負担を強いるのは……」
「……あとで大きな負債を背負わせてしまいかねない……か。ふむ、道理だな」
わかってるならなんで……と、尋ねる俺に、フリードは首をかしげる。
そこまでわかっていて、どうして、と。
「彼女はまだ幼い。年齢の話ではなく、社会的な経験の話として。だが、能力は秀でている。否、秀で過ぎている」
優秀……過ぎる。って、どういうことだ。
そりゃあ、ちょっと過剰なくらい能力モリモリだよな……とか、思わなくもないけど。でも、生きてくうえで必要な力は、どれだけあっても困らないだろうに。
そんな俺の疑問に、フリードは首を横に振った。
「いいや、困るのだよ。これほど優秀では、社会は彼女を子供としては扱わない。当然、責任あるものとして対応されてしまう。そうなったときに……」
フリードはそこで言葉を止めて、渋い顔で頭を抱える。
そして、ちらりとマーリンの寝顔を見ると、ため息をついてうなだれてしまった。
「……無邪気な子供だと、守るべきものだと、そんな対応を誰がするだろう。言いくるめられ、煙に巻かれ、いいように使われてしまうばかりだ」
「……それは……そっか……」
フリードの言葉には、王子として見てきた世界の重さが乗っているように思えた。
マーリンは子供だ。見た目以上に幼いって話じゃなくて。まだ、彼女は子供と呼ばれる年齢だ。
だから、買い物をするときにも、ふっかけられたり、騙されたりすることはほとんどない。
もちろん、隣に俺達がいるからってのもある。
でも、ひとりで買い物させたときにも、非常識な金額を払わされたことは一度もない。それは確認済みだ。
だけど、その反対は……わからない。
彼女には能力がある。お金を払ってでも力を借りたくなる、とてつもない能力が。
たとえば工事現場で。たとえば魔術による調査で。たとえば魔獣との戦闘で。
その力を発揮してくれと、今までも、これからも、多くの人から頼まれるだろう。
それで……その功績に対して、釣り合うだけの報酬を貰えるか、貰えていたかは……正直なところ、定かじゃない。
これは単純に、俺もマーリンも相場を知らないから。そして、マーリンほどの力を持った魔術師が今までに存在しなかったから。
「お金のことも、いっぱい経験させてあげないといけない……のか。ちょっと……いや、かなり、か。気が抜けてたと言うか、気が回ってなかったと言うか……」
「いや。君達の今までの活躍、そして方針は、間違ってはない。未だ存在しない冒険者という職についての報酬を、当人が決めることに問題はいっさいないのだ。だが……」
王都に行って、公に認められたなら。そんな曖昧なさじ加減では仕事を受けられない。受けてはいけない。
でないと、割を食って貧しい思いをするか、周りの人の仕事を奪いつくすか。はたまた、庶民じゃロクに頼みごとも出来ない存在になってしまうか。
なんにせよ、望んだ形からはかけ離れてしまう可能性が高い。
だから、今からお金の感覚を養うべき……なんだろう。もちろん、マーリンだけじゃなくて、俺も。
「部屋をどれだけのあいだ借りたら、どれだけの出費になる。そのあいだの食費がいくらで、それ以外の雑費と、緊急時の備えが……と。知らないと計算出来ないもんな」
「そういうことだ。もっとも、急ぐ必要はないと思っている。ひとつひとつ慣れていけばいいさ。ただ、せっかくの機会があったならば……と、提案したに過ぎない」
拠点を持つことには間違いなく利があるのだから。と、そう付け足すと、フリードはまだ寝てるマーリンの頭を撫でた。
そうだよな。今はこうしてフリードが味方してくれてるけど、こいつは王子で、いつまでも一緒に遊んでるわけにはいかないんだから。
そうとわかれば、もう一回だけ契約書類をちゃんと読んでおこう。で、そのうちにマーリンにもかみ砕いて説明出来るようになろう。
みんなから認められる英雄になるなら、みんなに呆れられないようにもしないといけないからね。大人の常識についても、ちゃんと身に着けていかないと。