第十八話【巣立ちは近く】
五日目の朝。俺はドロシーにひとつの提案をする。
それは、この慣れ始めた寝床を離れて、以前身を寄せていた場所……山か森か、あるいは洞窟か、どこでも構わないから、こことは違うところを拠点にしないか、というもの。
せっかく便利なのに、せっかく慣れてきたのに、せっかく良いところなのに、どうして? と、ドロシーはそう言いたげだった。
でも、ドロシーが好きだったものをいっぱい見せて欲しいってお願いも覚えていてくれたから。すぐに笑顔になって、ちょっと遠くなるから、早く行かないと。って、俺の手を引っ張ってくれる。
「こっち、こっちだよ。滑るから、気を付けてね。えへへ」
そんなわけで朝早くに山を進んで、今は渓流を下っている。はじめに到着したあの街からはずいぶん遠くまで来てしまったな。
「滑る滑る、気を付けて……気を……のぉおおっ!」
滑るって言われたのに! って、何に怒っていいのかわからないくらいあっさり滑って、砂利だらけの硬い地面に尻もちをついてしまった。い、いたい……
「いって……うぐ……う……ぐすん。泣いちゃいそうですぞ……」
「だ、大丈夫……? デンスケ、泣かないで……」
いえ、泣いちゃいそうは冗談でして……って、こういうのはまだ通じそうにないな。ドロシーは本気で心配してくれたみたいで、俺よりもずっと泣きそうな顔で覗き込んできた。
さてと。こんなにも痛い思いをしてまで、どうして慣れた寝床を離れようとしているのか……だけど。これはやっぱり、最終目的を達成するための第一歩……一歩目にすらならない、準備の準備段階なのだ。
ドロシーはいつか街か村で暮らす。それで……横着と思われるかもしれないけど、今の彼女を受け入れて貰えそうな場所を探すことにしたんだ。
もっとも、本人にはそれを知らせてない。そして、まだしばらくは伏せたままにするつもりだ。彼女の中には、まだそんな大きな願望は芽生えてないだろうから。
その一環として、好きなもの、好きな場所をたくさん見たい……とは伝えてたんだけど。冷静に考えて、それだけじゃ目的達成のための誘導としては弱かった。
ドロシーはここで生活をしてるんだ。生きて、暮らしてる。一日二日遊びに来てるわけじゃない。
彼女にとっての安心出来る場所、好きな場所、楽しい場所は、今の生活圏の中にも十分に存在する。
俺が知りたかったのは他の生活圏であって、今の生活を彩るものじゃない。まあ……
「……あはは。ドロシーと一緒だと、退屈しないな。これからも、ずっとそうなのかな」
「……? 僕……も、デンスケと一緒は……えへへ。楽しい、よ」
知れてよかったって、今になればそう思うけど。いや……たぶん、知れなかったとしても知りたがった。だって、ドロシーは大切な友達だから。
「立てる……? 痛くないようにする魔術は……ごめんね」
「い、いや、このくらいは平気だから。冗談だよ、冗談。冗談……ってものがあってね? その……大げさにと言うか……」
引っ張り起して貰いながら、ボケをいちいち解説しなければならない人生。つらい。世知辛い。
世知辛いけど、ドロシーになら何回でも説明しよう。感心したような反応もかわいいし、いつかはそういうユーモアを身に付けるかもしれないし。
「ありがとう。さて、じゃあまた進もう。ちょっと……もうちょっとだけ、ペース落として貰っていい……? いや……うん。作って貰って文句言うつもりはないけど、靴と濡れた石との相性が悪くて……」
「うん、わかった。ゆっくり……だね」
ゆっくり。ゆっくり。と、ドロシーは何度も繰り返しながら、どうしてか動作そのものをゆっくりにして先導を再開する。うーむ……もう素質はあるんですよなぁ、ユーモアの。天然ボケと言いますか……
「ところでさ、今度はどんなところに行くんだ? あ、いや。行くってより、ドロシーの場合は帰る……なのかな?」
「えっとね、今いるところよりあったかくてね……」
今の寝床よりも温かい。その要因は地形で、盆地にあるから風が通りにくくて、日当たりがいい。と、そんな説明を、これまたゆっくりと……
「……ふふっ。ドロシー。ペースをゆっくりにしてくれるだけでいいんだよ。動きもしゃべりも、普通でいいのに」
「え……? あれ? えへへ……ゆっくりに、なってた……?」
無自覚にやってた天然ボケらしいけど、なかなか高度で、かつあざとい。ううむ、自分のキャラを理解してますなぁ。いえ、してないからこその天然ボケなんだけど。
「あったかくてね、野草がたくさん採れるんだ。だけど……時期が外れちゃったから、今はあんまり……かも。虫も多いから、寝るときには気を付けないと」
「うぐっ……虫が多いのか。ちょっとテンション下がるな……」
俺の厚かましさ全開の愚痴に対しても、ドロシーはしょんぼり肩を落として、ごめんね……と、頭を下げてしまった。
違う違う、ドロシーが謝るとこじゃない。むしろ俺が謝れ、文句を言うな。
「でも……えへへ。本当にあったかいんだ。それに……ね。たまに、村の子供の声が聞こえるんだよ。元気に遊んでる声が」
「……へえ。近くに村があるのか。そうなると……」
寝床はかなりへんぴなとこ……村の人からは絶対に見つからないようなとこにあるんだろうなぁ……って。
あるいは、飛べたころに選んだ場所だから。歩いて行くには過酷も過酷な道を進まないといけないのかも……
「……そっか。村が……」
子供の声がする。それを彼女は、好きなものとして挙げてくれた……んだよな。
じゃあ、やっぱり……と、小さな欲が頭に浮かぶ。やっぱりドロシーは、大勢の人と仲良くなりたいんだ。
仲良くなれるものなら……って、その前提をとても高いものとして認識してるだけで。本当はそうなったらうれしいんだろう。
「……デンスケ? まだ、痛い……?」
「え? あ、いや。痛い……うん、痛いのはまだ痛い。でも、大丈夫だよ。ちょっと考えごとしてて。具体的には、虫が出たらどうしようかな……とか」
僕が倒すよ。と、張り切って答えてくれるドロシーだが……なんだろう、すっごく情けなくなる。虫を怖がる男と、代わりに退治してくれる女の子。情けない……
俺が勝手に画策してることなんて知りもしないで、ドロシーは張り切って案内を続けてくれた。
何に張り切っているのか……は、一周回って俺にもわからない。いろんなものから俺を守ろうと、頼りにしてねと言いたい……んだとは思う。ただ……
「段差があるよ、気を付けてね。魔獣は……いなさそう。あっ、ここも滑るね。気を付けて、デンスケ」
「う、うん……ありがとう」
ふんふんと鼻息を荒げて……ずっと、渓流から離れるころからずっとこの調子で、あらゆるものに対してやたらと警戒心を高めて俺を守ろうとしてくれている。どう考えてもやり過ぎ……過保護である。
「デンスケ、この草はね、触るとかゆくなるよ。こっちのは、ちょっとチクチクするから気を付けてね」
「お、おう……」
かゆくなるよ。チクチクするよ。と、ドロシーが指差したのは、歩いてる場所からはちょっと離れた背の低い草。と言うか、指差すくらい遠いんだから、触らないよ。わざわざ触りにいかないよ。
「あっ。そこも崩れそう。踏んじゃだめだよ、きっと滑るからね」
「お、おーう……ありがと……」
そこも。と、やっぱり指差したのは遠く……そして、進行方向でないところ。だから、わざわざ変な方に進まないんだよって。
「デンスケ、そこに蛇がいるからね。気を付けてね。毒はないけど、食べてもおいしくない蛇だよ」
「えっ、蛇っ? それは本当に怖い……近い! ドロシー! そういうのはもうちょっと早くに言って!」
きゃーっ! 蛇! 蛇は本当に怖い! 指差せる距離に出る蛇は普通にまじで怖いって! それと、おいしくないって何⁈
「デンスケ、デンスケ。あのね……」
「な、何っ⁉ 今度は何⁉ 蛇の次は何⁉ 蛇の次だから馬⁈ 馬ならすぐわかる! じゃあ何⁉」
待って本当にパニックだから! 蛇は本当に怖いから! と、ちょっと前を歩いてたドロシーに必死で追い付いて、次は何があったのと彼女の指差す方を必死で探す。探そうとする……けど。
ドロシーは何も指差してなくて、もうそれが逆に怖くて、慌てて彼女の視線を追うことにして、顔を見て……それで……
「……えへへ。一緒だと、たのしいね」
「……っ。そう……だね。そうだね。うん、たのしいよ。俺も」
な、なんでそんなかわいいこと言うの、この子は。
いつもみたいに頬をほころばせて、緩んだ口元からえへへって笑い声がこぼれて。ドロシーはそんな楽しそうな顔で、じっと俺を見てた。たぶん、俺がいろいろ探してパニックになってる間も。ちょっとサイコパス感じる。
そんな調子でしばらく歩いて、あったかいところと紹介された寝床に到着したのは、日が暮れる少し手前のことだった。け、結構遠かったね……