第二百五話【侵】
はじめは何が起こったのかわからなかった。
それを目で見て、困惑して、やっとどうなってるかを知って。それでもまだ、何が起こったのかわからなかった。
何が起こったのかを理解してから、また更に混乱した。
痛みはある。何をされたかもわかる。だからこそ、なんでこうなったのかがわからない。
「――デンスケ! デンスケ、大丈夫⁉ デンスケ!」
「っ……だ、大丈夫だよ、マーリン。落ち着いて」
顔は見えなかった。でも、キリエの街で恨みを買った覚えはない。
じゃあ……ただの通り魔? それとも、知らないところで何か変なことをしてしまっていただろうか。
考えても答えは出ない。ただわき腹の痛みだけがあって、そのせいで頭がぼーっとしてしまう。
それでも、理解不能過ぎる事態が一周回って冷静にさせてくれている……らしい。
こんな状況、状態でも、自分が大丈夫なことは理解している。
「マーリン、マーリンってば。落ち着いて、大丈夫だよ。俺は大丈夫だから。そのことは、マーリンが一番知ってるよね」
血を見て、刺さったナイフを見て、刺された俺の姿を見て、マーリンは半ばパニックに陥りかけていた。
別のことで心身が不安定だったこともあって、すっかり忘れてしまっていたのだろう。
あるいは、その力が発揮される機会自体が少なかったのもあるのかな。
「大丈夫だってば。そういう風にしてくれたのはマーリンだよ。俺の身体は、たとえ魔獣に噛みつかれたって……」
ケガがたちどころに治癒する能力。それが、マーリンがこの肉体に与えた能力のひとつ。
小さいケガなんてわざわざ報告しないし、それが治ったことにも取り立てて騒がない。
それと、人に知られるとちょっと厄介なことになりそうだから、わざわざ見せびらかしたりもしなかった。
だから、マーリンとしては実感が薄かったのかもしれない。
だけど、事実はこうしてあるんだ。俺の身体は刺されたくらいじゃびくともしない。いや……痛いは痛いんだけど……
「ほら、もう血が止まり始めてるでしょ。ナイフを抜いちゃえば……うぎっ! い、いてえ……でも、すぐに……」
説明しても実演しても、マーリンは青い顔でうろたえるばかりだった。
これは……たぶん、ケガをしても大丈夫ってことと、俺が刺されたってこととは別の問題だから……なんだろうな。
まあ、そりゃそうか。俺だって、マーリンやフリードが襲われたって聞いたら心配する。
第一にふたりのことを。その次に、襲ったやつのことを。
「デンスケ、デンスケ……痛くない……? 痛い……よね。ごめん……ごめんね……」
「な、なんでマーリンが謝ってるの。マーリンは何も悪くないよ。ただ、なんか……変な人がいたもんだね。危ないから、マーリンも気をつけないと」
こうなってみると、刺されたのが俺でよかったと思える。
だって、マーリンだったらこうはいかない。ちゃんと大怪我だし、大ごとだし、大問題だ。
そう考えたら……痛いし、ちゃんと精神的にもきついものがあるけど、それとは別のところでヒヤッとしてしまう。
ほんのちょっと周りを見なかっただけなのに、もしかしたらマーリンが殺されちゃうところだったのかと思ったら……ううっ……
「……いや。でも……うーん……」
偶然でも、俺のほうが刺されてよかった……って、そんなことを考えていると、しかし……もしやという思いもよぎってしまう。
もしかして、俺はこのキリエで、ちゃんと目をつけられてしまった可能性ってあったりするんだろうか。
思い当たる節は……本当はないんだけど、もしかしたらとうっすら紐づけられるものがひとつだけある。
「……じいさんのことで聞き込みをしてたとき、変なとこばっかり行ってたから……」
サイモン経由での情報を求めて、闇市みたいなものを探そうとしてたから。
もしかしたら、そのときに目をつけられた可能性があったりするんだろうか。
よそもので、情報を求めて聞きまわってた男。
本当に裏社会ってものがあるんだとしたら、なんらかの敵対組織だとか、あるいは行政の調査だ……とか、そんな勘違いを生んでいても変ではない。
もっとも、その聞き込み自体は半月以上前のことで、そのあいだに姿を見せなかった俺の顔をわざわざ覚えてたとも思えないんだけど……
「やっぱりただの通り魔かな……ううっ、こわ。治安のいい街だと思ってたんだけどな……」
もともとは湖がきれいな自然豊かな街……だったのが、観光目的で人が集まるようになって、一気に栄えた街……だっけ。
そうなるとたしかに、観光客を標的にしたスリとか強盗なんかも少なからずいるんだろうな。
楽しい思い出のあるきれいな街って認識は、ある程度はそのままでいいから、ちょっとだけ注意を付け加えておかないといけないのかも。
「ふー……いてて。でも、もう血も止まった。いや……刺されるところ誰にも見られてなくてよかった。こんな早くに傷が塞がったら、それこそ大騒ぎだよ」
刺されたことよりやばい案件に見えるよね、普通は。
犯人を逃がしてしまったこと、顔も見てないこと、目撃者証人も望めないことは、本当は悪いことなんだけど。
でも、個人的には助かった……のかな。
「とりあえず、じいさんの家に行こう。片づけ、ちょっとでも進めないとね」
「う、うん……デンスケ、無理しないでね……?」
大丈夫、手当さえ必要ないくらいだ。
ただ……服は着替えたいかな。わき腹のところ、思いっきり血が沁みついちゃってて、もうどうあがいても不穏な見た目になっちゃってるから……
「……? あ――あれ――?」
ふら――と、視界がゆっくり斜めになった。
大慌てで手を膝について、倒れる前に頑張って踏ん張る。踏ん張らなくちゃいけなくなった。
ケガは治ったけど、血を流したからくらくらしてる? それとも、メンタルのほう?
自分のことなのに、どうなってこうなったのかがわからない。
でも……やばい。俺、意外と大丈夫じゃなかったのかも。
「デンスケっ。大丈夫……じゃないよ。今日は、おじいさんの家行くの、やめよう。倒れちゃうよ」
「そ、そう……だね。ごめん、明日には必ずやろう。今日はちょっと……あれ……」
また、視界が歪んだ。
刺された瞬間――刺されたのがわかって、痛みを理解した瞬間に襲ったあの感覚が、またしても意識を変な方向に蹴倒す。
両手を膝についてても立ってられなくて、ゆっくりと膝をついて、それでもふらふらして。
このままだと本当に倒れそうだから、その場にしゃがみこんで刺されたわき腹を手で押さえる。
痛みは……ない。もう痛くない。当然、傷口もなければ血も出ていない。
なのに――
「――っ⁈ なん――だ、これ――っ。うっ……」
ぐわんと視界が回った気がして、倒れないように両手を地面につく。
まっすぐに伸ばした腕がちゃんと届いたから、身体が傾いたわけじゃないのはすぐに理解出来た。
でも、まだ目は回ったままで……
「デンスケっ、デンスケっ。ケガ、治ってない……の? まだ痛い? デンスケっ」
マーリンの声がちょっとだけ遠くに感じる。
耳が変……なんじゃない。意識が変――遠いんだ。朦朧としてる。
なんだこれ。なんなんだ。何が起こってる。
刺された。ケガした。血がいっぱい出た。
ナイフは抜いた。傷は治った。でも、流れ出た血は身体の中に戻ってない。
じゃあ、やっぱり失血でくらくらしてるのか? すぐ治ったとはいえ、ちゃんとした刃物で刺されたから。短時間で一気に血を流し過ぎちゃったのか?
それとも、また別の理由で…………
「……ぐっ……」
両手をついていても座ってさえいられなくて、俺はそのまま地面にうつぶせになった。
息が苦しい。身体が重い。心なしか熱っぽいような気もする。
ケガしたショックなのか、それとも失血が原因か。はたまた、そうじゃない理由があるとしたら……
「デンスケ――っ! デンスケ! しっかりして! 誰か……誰かっ! デンスケを助けて!」
視界がぼやけて、どんどん意識が遠くなる。もしかして俺は、致死量を超える出血をしてしまったのか……?
痛みはない。ケガはもうない。血ももう出てない。それでも、俺の身体は動かない。
ゆっくりと担ぎ上げられて、小さな背中におぶられて、揺られながらどこかへ進むのに身を任せるしか出来なかった。
 




