序章:沈む少年
――とぷん――と、水の音が聞こえた。
しとしとと降りしきる雨音ではなく、水たまりが何かに跳ね上げられる音でもなく。大きな川に石を投げ込んだ時のような音だった。
そしてそれは、自分の耳元すぐのところで聞こえた……気がした。
これは夢だ。それはすぐにわかった。
だって、雨の音でも、水たまりの上を車が走り抜ける音でもないとなれば、それ以外に聞こえる水音なんて限られる。
いいや、これは後付けの理屈。実際には、なんとなくで先に理解していた……予想していたと言うほうが正しいのだろうか。とにかく、そんなところ。
この水の音は、きっと夢の中のものだ。ひとまずそれは確定で良いだろう。もちろん、違っていても何も困らないんだけど。
じゃあ、その出所――意味はなんだろうかと考える。堂々巡りに陥るように、自分の中に生まれた音についてを意味もなく考える。考えるったら考える。
だって他にすることがない。出来ることがない。
これはきっと夢だろうと察して、考えて、それから目を開けた――起きたって意味じゃなくて、夢の中でつむってた目を開いたら、その先には何も見えなかった。
ただ、光が揺らいでいるのはわかった。
ああそうか、今の水音の正体はそれか。と、合点がいったのはその直後。揺らいでいる光の意味を考え始めて、ものの数秒と経たない頃。
これは水の中だ。自分自身が小石となって、川か海か、女神のいる湖か、あるいはトイレに投げ込まれた夢。その音。
光景の意味を知った。つもりになった。正解なんて、それを夢に求めても仕方ないから。だから、知ったつもりになった。
これは夢。水の中に沈んでいく夢。これがもっと子供のころに見た夢だったら、もしかしたら……漏らす兆候なのかなと、今になってやや焦りも湧いてくる。でも、多分そうじゃない。もう立派な高校生なので。
この夢には意味がない。深層心理なんて映していない。でも、自分の過去の経験を反映しているわけでもない。溺れるほど深い川に行ったこともないから。
意味がない。意味がないんだ。意味がない……って、わかってる。けど……
「……誰だ……?」
そこに、その先に、この水の中をずっと沈んでいった一番深いところに、誰かがいる……ような気がした。
見えたわけじゃない。同じ夢を見た経験があるわけでもない。ただ、直感的にそう思った。これが夢だって察したのと同じ部分で。
これが川なら、もしかすると河童かもしれない。これが海なら、あるいは尼さんかもしれない。
これが女神のいる湖なら、不法投棄で罰を食らった木こりの溺死体かもしれない。これがトイレじゃないと信じたなら、決してうんちではないハズだ。
「そこにいるのか。誰だ。誰なんだ」
ずっと深くまで沈んでいく。望むと望まないとに関わらず、浮力なんて感じさせずにまっすぐそこへと引きずり込まれていく。
沈んで、沈んで、そして……それの姿が、輪郭が、やっと見えるか……のところで、進むのが――沈むのが止まってしまった。それからすぐに――
――応えて――
声が聞こえた。女の子の声。子供の、どこか不安げな……それでいて切実さを感じるような。感情のこもった声だった。
だからなのか、気付けば俺は――
「いるのか――っ⁉ 誰か、そこにいるんだな――っ!」
水を飲むことも怖がらずに、大声で底に向かって呼び掛けていた。いいや、違う。これは、返事だ――
その瞬間に、薄暗い水中の夢は大きく揺さぶられた。波じゃない。ペットボトルを振ったときみたいに、泡が立つくらい速い揺れだった。
目が覚める――と、本能的に理解した。何か特別な、重要そうなものごとを前にしたから、いつも通り夢の終わりが来たんだ。そう理解した―――
――――つもりになっていた。
土の匂いがした。田舎の祖父母の家でも嗅がないような、濃くて混じりっ気のない自然の匂い。
風が頬を撫でた。その冷たさで、もう夢の中じゃないんだと思った。でも、違和感はあった。思考が間に合うまでの――答えを手にするまでのほんの一瞬に。
部屋で眠ったハズだ。布団は蹴飛ばしたかもしれないけど、扇風機はよそへ向けて寝たハズだ。風邪をひくからと、昔からの言いつけを守ったハズで――
冷たさがもう一度頬を撫でた。乾いた風の、気持ちの良い涼やかさを感じた。
それは顔だけじゃなくて、手で、足で、それぞれの先と、根元で。
肩で、胸で、腹で。そして…………
「……ほ?」
ゆっくりと目を開けると、そこは部屋の中じゃなかった。そして……
「――――ほ――――っ⁉」
……ゆっくりと全身を確認すると……そこに、衣服の類は一片すらも存在しなかった。