第百七十二話【背中】
堂々たるフリードと場違い過ぎる俺を先頭に、騎士団は街を出て草原を進み、そして林の奥の沼地へとやってきた。
これまでの道のりでさえ魔獣が出そうな雰囲気があったのに、薄暗い湿地ともなると、もう恐怖は留まるところを知らない。
心臓がばっくんばっくんと今にも破裂しそうなくらい脈打ってて、手も背中も足の裏からも、全身から汗が噴き出してる。
「そろそろ調査予定地点に到着する。みな、気を抜かぬように。もっとも……難しいかもしれないがな」
「……それは、フリードが強過ぎて、緊張感もくそもないことになっちゃうから……ってやつかな? それはそれは頼もしい……」
フリードなりの激励、あるいは冗談だろうか。それを判断する冷静さも、つっこみを入れる余裕も……ないよ……っ。
「ふふ。ああ、そのとおりだ。彼らには緊張を維持して貰わなければならないが、その糸を緩めてしまいかねない活躍をするだろう。私と、君とが」
何をバカなことを言って……と、もう声にもならない悲鳴をこぼしそうになる俺を、歓声が押し流す。
どうやら今のフリードのひと言によって、部隊の士気は最高潮になったようだ。
どうして……そんなに盛り上がれるほど面白いこと言ってない……笑えない冗談過ぎるんだけど……
「……今にわかるさ。ここにいるみなも、そして君も。私の知る世界を、私の知る強さを、すぐに理解する。思い知らされるのだ」
「……? いや、お前が強いのと微妙に空気読めないのと、あと変な言い回しばっかりなのはとっくに知ってるつもりだけど……」
そんなにも奇怪な言葉遣いをしているだろうか……と、フリードは真剣に困った顔をしてしまった。
違う、そんなとこに落ち込まないで。もう、ボケを拾う余裕も励ます余裕もないから、どっちの意図だとしてもそんな顔しないで。
もう……いつもどおり、しれっと魔獣を蹴散らして終わりにしてくれ。頼むから。
「……と、話をしていれば、だな。来るぞ、デンスケ」
「――っ! ま、まじかよ……」
来る……って、やっぱり魔獣のことだよね……っ⁈
言われなくてもさすがに察せられるその脅威の到来に、緊張は最大にまで膨れ上がる。
汗はもう出ない。出ているかもわからない。
指先でさえなんの感覚も得られないくらい、全身が強くしびれてしまっている。
身体は……重い。冷たい。なのに、熱い。そして何より、あまりにも硬い。
節のすべてが錆びて固まってしまったみたいに、筋肉なんて焼きついてしまったみたいに、俺の身体はほんのわずかすらも動いてくれそうにない。
なのに、魔獣の足音が迫るのだけはわかった。
耳に届くその絶望的な音は、ほんの些細な、フリードがちょっと暴れたら終わり……なんて数じゃ済まされない。
まるで台風が木々を撫でているかのような、速く、そして高密度な音が――草木のこすれる音が近づいて、そして……
「――デンスケ――っ! 剣を取れ!」
「――そんなこと――言ったって――」
手は何も握らない。握れない。剣を持つどころか、こぶしを握っているのか開いているのかもわからない始末だ。
構える? 迎え撃つ? 剣を振るう? そんなこと出来るわけがない。出来るとはとうてい思えない。
この身体がそんなふうに出来ているとは、とてもじゃないけど考えられなくて――――
声が聞こえた。フリードの声じゃない。魔獣の鳴き声でもない。ましてや、いつだって俺を助けてくれたマーリンの声でもない。
けれど、俺の耳には人の声が聞こえたんだ。怒号のような、悲鳴のような、鼓膜を容赦なく叩く、騎士団の声が――――歓声が――――
「――な――にが、起こって……っ!」
わ――っと、また、歓声が沸いて、それは鬨の声となる。魔獣の群れと遭遇した騎士団は、先頭の一太刀をきっかけに勢いを増したのだ。
そう。先頭の一太刀を――――剣を持たないフリードではなく、彼よりも一歩だけ前に踏み出していた、もうひとりの先頭の剣の一振りによって。
「わ――っ⁉ な、なんで――俺、何して――」
魔獣が迫る。そのことがわかる。目で見て、耳で聞いて、肌で感じて、その脅威を理解する。
その脅威の度合いを、理で把握する――
手には少しだけ熱さがあって、それは硬い剣の柄を握り締めていることによる熱だとも理解している。
その剣が魔獣の額を叩き割るその衝撃も、同じ熱として伝わってくる。
「――君は君自身を理解していなかったようだな。まったくもって度し難い。君は君のその輝きを、マーリンにもたらされただけのもののように語る。だが――」
そんな道理があるわけもない。そう言ったフリードの声が聞こえた。
歓声にかき消されるハズの、魔獣の咆哮に妨げられるハズの、小さなささやきさえもが耳に届いた。
いいや。違う。フリードの声だけじゃない。歓声のひとつひとつが、誰の声なのかまで聞きわけられる。
魔獣が吠えるたび、それがどこにいる個体なのか、何をしようとしているところなのかまで予測出来る。
俺の手は、俺の耳は、いったいどうしてしまったんだ。俺の身体に、いったい何が……
「気づかないのならば、私が君に解を贈ろう。君のその身体は、術に適応し、進化を遂げたあとなのだ。君の目は、君の耳は、君の肌は、君のすべては――」
この目は、雷かと見まごう速度の運動をしていても、標的を見失うことがなかった。
この耳は、そんな肉体が風を切る音のさらに向こうの情景を把握し続けていた。
この手は、途方もない速度の途方もない威力で叩きつけられた剣を、ただ一度さえ放すことなく握り締め続けられていた。
俺の身体は、強化魔術によって激化した運動を経て、名実ともに果てしなく強くなっていた……のか……?
「君は知ったのだ。限界を超えたその先の運動……戦いかた、逃げかた、そして守りかたを」
「君の身体は、脳は、そして心は、知った可能性をただ羨望する先の輝きだなどと諦めたりはしなかったのだよ」
「……諦めなかった……? 俺は……俺の身体が……俺の本能が、強化魔術で出来るようになったことを……」
それがなくても出来ることとして、出来るようになりたいこととして、憧れるんじゃなく、目指していた……?
手にした剣は重たい。魔術をかけて貰ったときは、もっともっと軽くて、まるで小さい木の枝でも振り回しているようだった。
走り回るたびに足の裏がしびれて、息もあがって、全身が焼けるように熱くなる。それだって、今までにはなかったものだ。
だけど……だけどそれでも、俺の剣は、俺の足は、魔獣を倒すし、魔獣の攻撃をかわす。
俺は――ただの人間で、魔導士とも、黄金騎士とも並べないハズの俺は――
「――っ! おらぁああ!」
剣を振りぬいた先で魔獣の血しぶきが舞う。分厚い皮と肉のその向こうの、硬い硬い骨が砕ける感触が手に伝わってくる。
その嫌な感覚さえもが、俺の中にある何かを震わせる。泡立たせる。吐き出さないとやってられないくらいに盛り上がって、全身を駆け巡って……
「――フリード! そっちは任せる! こっちは任せろ! 危なくなったときだけ助けてくれ!」
「ああ――もちろんだ! 私は君を、背中を預けられる強者としてここへ連れて来たのだから!」
きっと引きつった顔をしている。
笑い過ぎて、笑っていることがおかし過ぎて、自分の感情がわからなくなり過ぎて、どうしたらいいのかと困り果てた顔をしているだろう。
だけど、感情は声になって、声は言葉に、言葉は宣言に、宣言は……理想になって、背中を合わせた親友の返事を引き出した。
冒険者デンスケは、黄金騎士フリードと肩を並べて戦っている。
支えると決めた――諦めたその背中は、どうあっても見えない場所に立っていた。