第七話【異世界と魔女】
ドロシーはずっとにこにこしていた。
デンスケ。と、俺の名前を呼ぶたびに。そして、ドロシーと俺が名前を呼ぶたびに。困った顔でうれしそうに笑っていた。
誰かの名前を呼ぶ機会がうれしい。そして、名前を呼ばれて迫害されないことがうれしい。その振る舞いからは、そんな寂しい背景が透けて見える。
ちょっとずつ、ドロシーのことがわかってきた気がする。気がするだけで、憶測の域は出ないんだけど。
「……なんと言うか……」
何をするでもなく。彼女はただ俺のそばに……三歩離れた、彼女なりの俺のそばに、何をするでもなく立っている。
その姿は、その……なんと言うか。待てを覚えたばかりの、それも褒められたい一心でやってる子犬のようで……
「……ふふ。ドロシーは可愛いなぁ」
魔獣を焼き払ったのは彼女だ。僕をここへ召喚したらしいのも彼女だ。それについての説明を早く聞きたいなぁと思いながら、そのせいでまだ恐怖が拭えていないながらに、彼女の姿はただただ愛らしなあと思えてしまう。
青色の瞳は宝石のようにきらめいていて、小さな口はだらしなく緩んでいる。心の底からうれしそうなその表情に、どうやったって警戒心なんてほぐされてしまう。
はじめは目を疑ったその大きな翼も、少し慣れればそう違和感もない。第一印象の通り、天使のように感じられる。
それに……その翼の動きひとつひとつからも彼女の心境が見て取れるようで、なんだか犬のしっぽを見ている気分だ。
風に吹かれるたびにさらさらと揺れる長い銀の髪も、まるで鏡みたいに炎の赤を映していて綺麗で…………炎。
「――火――っ⁉ 火! 炎! 火事‼ こんなのんきになごんでる場合じゃない!」
きゃーっ⁉ 山火事! 山火事ですぞ! それも、とっくに炎は我々を囲んでしまっていますな‼ いえ、取り囲むように放たれた……が、正しいのでしょうが。ではなく。
しまった。早く逃げないと焼死する。さっき怪我は治るって言われたけど、治ったら痛くないわけじゃないんだ。
それに、火事に遭うと焼け死ぬより先に酸欠で死ぬって習った。し、死にたくないでござるぅ!
「ドロシー‼ にこにこしてる場合じゃない! 早く逃げよう! 逃げ…………その、ドロシーって飛べるの? じゃあ……えっと……」
飛んで逃げられる系? え、それってひとりくらいは抱えていける? そう尋ねると…………尋ねても、かな。ドロシーは首を傾げたり、またにこにこ笑ったりするばかりで……状況を把握出来てらっしゃらない⁉
「ちょっ……ま、マジでやばいかも……っ。ドロシー、何か……こう……消火するもの! この炎って君がやったんだよね? なら、これを消す準備もあるよね⁈ あって⁉ 花火をするときにはバケツに水を汲むんだ⁉」
状況は把握出来てない……でも、俺が焦ってることはわかってくれたらしい。ドロシーはまた顔を青くして、翼をしゅんと畳んであわあわしはじめた。かわいい、でも今はそうじゃなくて。
「水の準備とかしてなかったの――っ⁉ ま――待って! 待って待って待て待て! 死んじゃう! せっかく友達になったばっかなのに、ふたり揃って焼け死んじゃうって!」
「――っ! し、死んじゃう……の……? デンスケ、死んじゃう……っ!」
いや、俺だけの話じゃなくて。
まずい。非常にまずい。どうやらドロシーは……こう……その……いろんなものが欠落しているらしい。人間的な常識とか以前に、動物的な危機感とかが。
てなると……もしかして、あれですか。この炎は自分で放ったけど、そのあとをどうするかは何も考えてなかった……的な……
「――いやだよ――」
「……ドロシー?」
――そんなのいやだよ――と、さっきまでからは考えられないくらい大きな声でドロシーは叫んだ。その時だった。
「――なん……だよ、それぇ…………」
たった今まで炎に照らされて赤く輝いていたドロシーの銀髪が、今はもう何にも照らされていない。
そう、何にも。林の中にも差し込む薄い陽の光にすらも、だ。
彼女が願いを叫んだ瞬間に、俺達の周囲――ちょうど燃えていた辺りの土が隆起し始めたのは見えた。でも、そのあとは……きちんとは目で追えなかった。
ただ、結果は見えている。互いの顔も見えるか見えないかと、そんなうっすらとしか光が届かないこの場所は、土のドームの内側だった。
「……何……やったんだ、それ。ドロシー……これ、君が……」
君がやったのか……なんて、問う意味はあるんだろうか。
「魔法……超能力……? いったい何が起こって……何を起こして……」
しばらくすると、ドームはぼろぼろと崩れ去った。真っ暗な中から薄暗い林へと戻ると、そこには……もう、炎はどこにも残っていなかった。
彼女は何者だ。という疑問が、この瞬間に最大まで膨れ上がる。と、同時に、もしかしたらその結論へと踏み込むチャンスなのかもしれない。
「……っ! ドロシー! 今の、君がやったの……ドロシー?」
目の前で起こった……起こされた事象について、どうにか説明して貰おう。あれはどうだ、これはなんだと尋ねても、彼女はきっと混乱してしまう。
でも、たった今したことについて聞くのなら問題ないハズ。程度が難しいだけで、意思疎通は出来るんだから。と、そう思っていた。思って、少し興奮して、大きな声を出してしまったかもしれない。
見れば彼女は、かがんで身を小さくしていた。大きな翼に隠れるように、何かから逃げるように。
それがなんなのかはすぐに理解出来た。と言うよりも、最初に察していたんだ。
彼女には奇妙な力がある。そして、普通とは違う身体をしている。だから、人から拒まれてきた過去がある。
その力を見せた。姿をさらした。そのうえで、大きな声を聞いてしまった。それがどんな意味、意図の言葉であるかは無関係に、彼女には条件付けが済んでしまっているんだ。
人と違うところがバレれば、嫌われて避けられてしまう、と。
「……ドロシー。大丈夫だよ、怒ってるわけじゃない。ただちょっとびっくりしただけだから」
もし……もしも、さっきの炎が彼女の仕業なのだとしたら。そして……それもまた、土のドームと同じように魔法や超能力じみた力なのだとしたら。
もう、恐ろしさはどこにもなかった。彼女は……このドロシーと名乗った少女は、これだけの力を手にしながら、それを威力として振るうことを良しとしない。
友達が欲しいと言った。もしかしたら、それがもうなされないかもしれないと思った。願望が叶わないと思ったときに、しかし彼女には人を服従させられるだけの力があるハズなのだ。
でも、それはしない。
彼女の中には明確な線引きが済んでいる。あの力は、他者を虐げるためのものではない。弱者をいたぶろうなどとは考えない、気高い意志が存在するんだ。
「……ドロシー。ほら、話をしよう。せっかく友達になったんだ」
丸くなった背中を撫でると、ドロシーはゆっくりと……恐る恐る、怯えながら顔を上げた。今にも泣きそうな、真っ青な顔だった。
俺はそれに……優しくしようなんて考えずに、普通に話し掛けることにした。だってそうだ。俺とドロシーはもう友達なんだ。対等なら、不必要に気遣うばかりなのはおかしい。
「さっきの、いったい何やったんだ? すごいんだな、ドロシーは。もしかして、俺を……召喚? したのも、そういう力なのか?」
そう。対等なら、聞きたいことはきちんと聞くべきだ。
ドロシーは俺の言葉を聞いて、少しだけ首を傾げて……でも、すぐに翼の殻から出てきて、また笑顔を見せてくれた。
この人は怯えない、怖がらない、嫌わない……って、思ってくれたかな。
「……えっと……ね。僕は……ね。魔女……だから。だから、マナの力を……」
「魔女……マナの力……うん、うん。うーん……」
そんな彼女が語ってくれたのは……なんともファンタジーで、現実離れした、しかし先ほどの現実を立証出来そうな文言だった。
魔女……か。その響きは、ドロシーという名前にはやや見合わないものに思える。
オズの魔法使いに出てくる少女ドロシーは、悪い魔女を退けながら旅をして、不思議な仲間を増やして家に帰る……んだったと思う。
もっとも、そもそもは普通の女性名なわけだから。それとこれとは無関係なんだろうと言われればそれまでだ。ただ……どうにも、それでは済まされない気はする。
「……マナの力……はね、この世界の力……なんだ。だから……」
炎を意のままに操ることが出来る。地形を操ることが出来る。風を起こすことも、それを嵐にしにしてしまうことも。あるいは、その逆も。
彼女の説明はやや拙く、こちらで勝手に想像して補完している部分もあるが、おおよそはそんなことを聞かされた。聞かされて……
「……デンスケをこの世界へ呼んだのは、昔々に……僕が生まれるよりもずっと昔に、人間が作った……って言われてる、魔術儀式なんだ。だから……えっと……」
「……この……世界……世界? えっと……?」
ある程度は補完する。でも、そればかりじゃ俺が妄想してるのと何も変わらない。だから、わからない部分はきちんと聞き返す……んだけど。
この世界へ……なんて言葉に疑問を向けた俺を見て、ドロシーははっとした顔で慌て始めた。どうやら、大切な前提の説明をしていなかった……と、彼女自身も気付いたようだ。
気付いた……気付けた? って、それはつまり……
「えっとね、そのね、ここは……ううん。デンスケはね、別の世界からここへ召喚されたんだよ。まったく違う街、違う国、違う世界から、魔術の力で呼び出されたんだ」
「……まったく違う……世界……?」
つまり……さっきまでの説明の中に、間違って伝わったものはなかった……って……こと……で…………っ⁈
ここではない世界からやって来た……本来いたのとは全然違う世界に召喚された――っ⁉
理解はすぐにまた混乱を呼んで、頭の中に最近話題のライトノベルのタイトルが、情景が、そしてキャラクターが思い浮かんだ。
ここは別の世界。つまり、いわゆる異世界と呼ばれる場所。まったくもって理解しがたい説明は、これまでのあらゆる理不尽のつじつまを合わせていくようだった。