序章:墜ちる魔女
鬼の子。土の魔女。大地の獣。みんなが私を指す言葉。僕に与えられた、本当じゃない名前。
ずっとそうだった。誰かと一緒にいたいと、山を下りた先で見た光景に混ざりたいと願ったその時から、ずっと。
お母さんと呼ばれる、優しそうな人はいない。お父さんと呼ばれる、頼もしそうな人もいない。互いに様々な名前で呼ばれる子供の、その関係を結んでくれそうな人も。
僕の周りには、誰もいない。
「――契約――」
ひとりは嫌だ。寂しいのは嫌だ。つらいのも、苦しいのも、悲しいのも我慢する。でも――
「――王冠を頂く蛇に血の枯れた羊――」
――それが手に入らないのは、どうしても耐えられない。
その在り方を知っている。その温かさを知っている。それを手に入れられない冷たさも、取り上げられた時の胸の窮屈さも。
「――盃を簒奪し――飢えた玉蟲に腸を捧ぐ――」
この命はいらない。この形はいらない。この在り方はいらない。
この翼はいらない。この眼はいらない。この力は、ひとつとして求めていない。
「――右腕の日輪よ――」
この名前は――いらない――
「――我が真名は灰色の魔女――っ。ここに――僕の願望を叶える器の契約を――」
髪の色は、銀ではないらしい。
翼の色は、白金でなければならないらしい。
瞳にこの大きな流れは映ってはならないらしい。
その大きな流れを理解出来なければならないらしい。
でも――そんなものはもうどうでもいい――
「――誰か――誰でも――っ。誰でも良いから応えて――」
僕はただ、友達って呼ばれるそれが欲しいだけなんだ――
魔術儀式は成功した。マナの急激な減衰を観測し、自身の変化になどは気を向けるまでもなく気付いたから。
もう、この眼には未来が視えない。まだ眠っていないこの時にも、実感は否応なく湧き上がる。
もう、この身体は永らくを生きられない。ずっとずっと遠い終わりを迎えるまでもなく、その命が人間と変わらない矮小なものになった自覚――恐怖――歓喜が身を震わせる。
もう、この孤独は必要ない。僕は――誰にも愛されない出来損ないの魔女は、たったひとりの友達に愛されて――
「……? あ……れ……」
――生きていく――ハズだった。
けれど、僕の目に映ったもの――もう未来など視えない、今を知るだけのこの目に映ったものは……
「……誰か……誰か、いませんか……? そんな……だって、魔術はたしかに……っ!」
……誰もいない、何もない、しばらく見慣れた暗い林の景色だけだった。
「――失敗――っ。そんな……そんなハズない――っ! だって式は正しかった! マナは間違いなく消耗されて、対価も十分に支払った! それに――」
手応えはあった。成功か失敗かを分けるものが何かなどは知らなくとも、それが魔術儀式であるならば必ず成立させられた自信があった。いいや……そうなる確信があった。
それでも、目の前には何もない。誰もいない。ただ、静かに木々の揺らぐ音があるばかりで、他には何も……
「……違う……違う、違った……っ。ま、間違えちゃった……っ!」
何も……ない、ハズがない。
それが成功であれ、失敗であれ、何も存在しない道理は、それこそどこにも存在しない。
確信は急激に自覚へと成り代わる。自覚……そう、自らを省みる必要性へと到達する。
友達が欲しかった。友達と呼んでくれる誰かが欲しかった。僕を蔑まない、僕を忌避しない、僕を嫌悪しない誰かが欲しかった。
そしてそれは……こんな山奥で成し遂げられるとは、一度たりとも考えたことのない願望だった。
「――っ。さ、探さないと!」
こんなところで手に入るものなら、“異世界からの召喚”だなんて儀式に踏み出すものか――っ!
そんな言葉で自分をなじる暇なんてない。翼を広げて、マナを取り込んで、僕はもう一度魔術式を身体の内側で構築しなおす。
別なる世界から呼び付ける魔術ではなく、この世界のあらゆる場所を調べ尽くす魔術として。