7.在りし日の歌姫
…………。
「…………」
どんな話をすればいいのかわからなかった。それはカチューシャも同じなのだろう。さっきから互いに口を開くこともなく、言葉を交わせずにいる。花屋の店先のベンチに座ったまま、僕は伏した目で明かりの灯っていない街灯を見ていた。
久しぶりに再会したというのに、それでいて二人きりなのに、だんまりのままというのはいくらなんでも気まずい。いい加減、言葉を発しなければ。
「……あのさ、カチューシャ」
名を呼んで、隣に座る彼女の顔を見る。
「九年ぶり……か。会ったのは」
「……うん」
言ってから後悔した。そんなことわかりきってるだろうに、もっと気の利いた言葉がなかったのかと。
話を展開しなくては。言葉……思ってること……。
……そうだ。昨日、カチューシャのことを思い出した時に思ったことを伝えよう。
「……君に謝りたいことがある」
疑問の表情で彼女が見つめてくる。
「ごめん。僕が孤児院にいた三年間、友達として接してくれていたというのに、君になにも言わず出ていってしまって」
それを聞いて、カチューシャは俯く。
「私も……謝りたい。クラーヴジヤ君が出ていく日に、顔も見せられなかったから」
……確かに、僕が出ていく日、カチューシャと顔を合わせることはなかった。一切の言葉を交わすこともなかった。
「ごめんなさい。友達なのに、お別れの挨拶もできなくて」
そのことを、ずっと申し訳ないと思っていたのか。
ルカの相棒になると決めた日からパーミャチ孤児院を出た日までの間は、本当に一瞬だった。仮に僕がカチューシャの立場にいたとしても、友達に対する別れの挨拶なんて思いつかなかっただろう。
「……ねぇ。クラーヴジヤ君は、私の歌、嫌いだった?」
カチューシャは、こちらへと向き直り問いかける。歌というのは、彼女に三年間ほぼ毎日聞かされ続けた、あの歌のことだろうか。
「いや、そんなことはないよ」
今でも覚えている。勉強の合間にカチューシャの歌声を聞く、その時間は……とても暖かい時間に思えていた。今考えれば、あの時の僕は……楽しかったんだと思う。
「……なんでそんな質問を?」
気になって尋ねると、カチューシャは空を見上げた。
「ううん。クラーヴジヤ君が出ていくことを知ったのも、孤児院を出ていったのも本当に突然のことだったから……」
そして、僕に向けて苦笑いを作ってみせた。
「私の歌に嫌気がさしたんじゃないのかなって思っちゃってたよ。あはは……」
ずっと聞かされていたあの歌は、九年経った今でも歌詞を覚えている。カチューシャは、隙あらば口ずさんでいたから。よほど好きな歌なんだろう。
「……そういえば、どうしてあの歌が好きなんだい?」
今更だけど、ふと気になったことを尋ねてみる。
「あの歌は、家族との思い出なんだ」
カチューシャは、伏し目になって答えた。
「家族? でも確か、君の家族は……」
言いかけてハッとした。昔カチューシャが言っていた家族のこと。会った記憶のない父親と、虐待した挙句にいなくなった母親。悲しい記憶を呼び起こさせてしまっただろうか。
「……お母さんには、いっぱい酷いことをされた。けど、私が小さかった頃、虐待が始まる前は、眠れない時なんかによくあの歌を歌って聞かせてくれたから」
僕は、視線を逸らしてしまった。考えが至らなかったことを後悔した。
「お母さんとの、家族との唯一の思い出。だから、あの歌が好きなんだ」
「……ごめん」
「謝らなくていいよ。とにかく、嫌われてなくて良かった」
横目でカチューシャの方を見る。彼女は、微笑みを浮かべていた。
「……クラーヴジヤ君。今更だけど、ありがとう。私と友達になってくれて。あの時、ひとりだった私を助けてくれて」
あの時、僕は他の子供たちからカチューシャを助けた。……けれど、それは彼女のためじゃない。自分のためだったと思う。それをどう伝えようか。
「君を助けたのは、君のためじゃないんだ」
カチューシャが再び疑問の表情を浮かべる。
「あれは……なんていうかな。人が人に虐められているのを見て、胸が苦しかったというか。それを解消するために行動した結果というか……。自己満足のためだ」
それを聞くと、カチューシャは何故か小さく笑った。
「……おかしい?」
「ううん。私たち、やっぱり似てるなーって」
僕たちが似ている……? 今の話を聞いて、そう思ったのか?
「どこが?」
「私もそう」
カチューシャを見ると、まるでおかしいものを見た子供のようにクスクスと笑っていた。
「クラーヴジヤ君は、私の代わりになってくれた。それで私、罪悪感があって。その罪悪感をなくすために……言葉を借りて言うと自己満足のために、クラーヴジヤ君に友達になろうって言ったの」
僕がカチューシャを助けたのは自分のため。カチューシャが僕に友達になろうと言ったのも自分のため……。
「……僕たちが関わったのは、互いに自分のためだったってことか」
僕たちは、互いに目を合わせた。そして、少し黙った後……僕も彼女も、口元を綻ばせて笑ってしまった。
「ふふっ。出逢い方はそんな感じだったけど、私はクラーヴジヤ君といて楽しかったよ。それだけに」
表情を変えることなく、カチューシャは続ける。
「離れ離れになった後は、寂しかったな」
「……他に友達はいなかったのかい?」
「いなかったよ。周りにいたのは、私を虐めてた子だけだったから。新しく入ってきた子もいなかったし」
そしてカチューシャは、また空を見上げてどこか得意気に言った。
「今は、ここで働いてるから同業で仲良い人もいるけどね」
「素敵な花屋だ。働く場所は自分で?」
「そう。孤児院の院長が色々と手助けしてくれて、雇ってもらえたんだ」
僕が孤児院を出てからは、ずっとひとりだったのか。でも、今は人に恵まれて、自立もできているのなら良かった。
「そういえば、クラーヴジヤ君は今なにをしてるの?」
「僕は……」
質問で、なんだか急に現実に帰らされたような感覚に陥ってしまった。僕は今、ルカと共に脅し屋として生きている。でも、そんなことは口が裂けても言えない。
「街の中心地区にある小さな惣菜屋で働いてるよ」
これは嘘ではない。僕は、これといって特殊な仕事がない日は、ルカと一緒に惣菜屋を営業している。こういう時、脅し屋以外の仕事を咄嗟に答えられるように。
「へぇ。今度行ってみようかな。なんてお店?」
来るつもりなのか。脅し屋に繋がる情報が渡らないか、僕の正体が脅し屋であることがカチューシャに悟られないか心配だ。だけど……「来てはダメだ」と断るための理由がなかった。
「……なんのひねりもない、惣菜屋って、そのままの名前。それだけだとわかりづらいけど、ダスビーっていう酒場のすぐ近くにあるから、その周辺を探せば見つかると思う」
……惣菜屋の店員であることを徹底していれば、脅し屋だとバレることはないだろう。ルカとグローザさんには、後で話をしておこうか。
日が落ちてきて、気づけば影が伸びていた。もうこんなに時間が経ったのか。カチューシャと話していた時間は、本当に……あっという間に感じた。
花屋での業務を終えたであろう店員のひとりが店から出てきて、パタパタとカチューシャの元へ駆け寄る。
「あなたたち。話し込むのはいいけど、早いうちに帰りなさいよ。特にカチューシャちゃんは」
「私? どうして?」
「ろくでもない人に狙われるかもしれないでしょ。昨晩も街で脅し屋が出たっていうし」
それを聞いて、一瞬だけ自分の心臓の音が聞こえた気がした。
「パーティ会場に忍び込んでたってニュースで言ってたよね。……でも、私が脅し屋に狙われるかな?」
「脅し屋じゃなくても、そういう気味の悪くて得体の知れない連中に狙われちゃうかもって言ってるの。カチューシャちゃんは、若くて美人なんだから」
気味の悪い、得体の知れない連中。世間から僕らがそう見られているのは知っていた。ルカと一緒にグローザさんから脅し屋を引き継いでしばらく経っているから、今更なにを言われても思うことはない。
……思うことはない。はずだったけど、今回は心にこたえるものがあった。
「じゃあ、店の戸締りは頼んだわ。暗くならないうちに帰るのよ」
「わかった。ありがとう」
カチューシャの顔を横目で見る。彼女は、極めて明るい表情で話していた。
話に夢中で、流れるようにことが進んでいたが……今の僕は、脅し屋として生きている。脅し屋の仕事は、その名の通り誰かを脅すことだ。暗がりの中、人目を欺いて忍び、ターゲットを脅す。そして脅し屋は、警察とは表面上敵対関係にある。実際は、僕らと警察は街を守るという大義の元、影で協力まがいのことをする時もあるが、脅し屋が良く思われないやり方をしているのは事実。万が一僕やルカの顔、名前が脅し屋として公に知られるようなことがあれば、僕らの立場はなくなるも同然だ。……そんな脅し屋が、真っ当に生きているカチューシャと関わっていいのだろうかと不安を覚えた。もしかすると、僕と関わったことが原因で彼女の身に不幸が起きるのではないかと。
カチューシャと話し終えた店員が、鞄を背負って駐車場の方へと歩いていく。
「脅し屋か。なんだか怖いなぁ。人を脅して生きてるってことだもんね」
「……そうだね」
言い方からして、脅し屋であることは悟られてはいないようだ。バレているはずがないのだけれど、安心した。でも……僕が脅し屋だとわかった時、カチューシャがどう思うのか。それが怖かった。
スマートフォンから通知の到来を知らせる音が。胸ポケットから取り出して画面を見ると、ルカからメッセージが来ていた。どうやら、無事にマークスに督促状を渡せたようだ。
スマホを片手に、僕はベンチから立ち上がった。
「帰るの?」
座ったまま、カチューシャが見上げる。
「うん。久しぶりに話せて良かった。……それじゃ」
カチューシャに背を向けてスマホの画面のロックを解除し、居場所を聞くためルカに電話をかけようとした時。
「そうだ! クラーヴジヤ君!」
名前を呼ばれた。振り返り、僕は彼女と視線を合わせる。
「聞いてみたいことがあるの」
「……なんだい?」
カチューシャは、さっきと同じ優しい眼差しでこちらを見ていた。
「クラーヴジヤ君は、強くなれた?」
「え?」
「ほら。私と初めて喋った時に、強くならなきゃって言ってたから。今はどうなのかなーって思って」
聞かれて、昔自分が言ったことを思い出した。
「……ああ」
僕は、強くなるためにグローザさんの誘いに乗った。そして、知識と力を蓄えた。
「強くなれたよ。……けれど、その力で守りたいものが見つかっていない」
正直に言うと、特別街を守りたくて脅し屋を続けている訳じゃない。強くなりたくて脅し屋になって、その地続きの未来にいるだけだ。得た力は、自分の命を守るための力だというのは当たり前だが、自分の命以外に一体なにを守りたいのか。それがわかっていなかった。
「そっか。じゃあ」
カチューシャは、言葉を続けた。
「守りたいもの、見つかるといいね」
にっこりと微笑む顔が西陽に照らされている。その時、僕は……彼女のことを、心の底から綺麗で素敵で、それでいて純粋な人だと思えたんだ。訳もわからず、隣にいるのが自分では不釣り合いだという考えが浮かぶくらいに。