5.穿つ瞳
ダレントの社長を脅した日の夜。僕とルカは、拠点の近くにある酒場ダスビーに訪れていた。今日の疲れを酒で癒すため……ではなく、それ以外のとある目的を持って。
店には僕とルカとマスターの三人だけだ。だから、誰にも会話を聞かれる心配はない。
「ワインはいらないのですか?」
「なんだよマスター。俺たちがここに来る目的が酒じゃないことなんてわかりきってるだろ?」
ルカがカウンターテーブルに身を預けて言う。
「せっかく呑める歳になったのだから、呑んでいけばいいのに。しばし待っていてください」
そう残し、マスターは店の奥へ消えていった。
「呑める歳になったのに、か。俺らももう二十一なんだよな」
しみじみと言って、テーブルに向けて背を丸めたままルカがこちらを向く。
「お前が孤児院を出てから九年か。時間が経つのは早いもんだな」
そのままルカは、僕への視線を放置した。なにか考えることでもあるのかと、言葉を返す。
「……思うことでも?」
「ああ。俺もそろそろ恋人とか欲しいよなーと思って」
突然なにを言い出したのかと戸惑ってしまった。
「は……恋人?」
聞き返すと、ルカは手を組んで虚空を見つめる。
「だって二十一だぜ? 恋のひとつくらいしてみたいと思わねぇのか?」
「いや……僕は特に思わないかな」
困惑しつつも応答すると、ルカはいきなり僕の肩を掴んで顔を近づけた。
「そういやクラーヴジヤ、気になってたことがあんだけどよ」
「……なにさ」
そして、不思議そうな顔をしながら問う。
「孤児院でお前と一緒にいたあの子はなんだったんだよ?」
「あの子って?」
「あの子だよ。お前と仲良かった女の子」
言われて、孤児院にいた頃のことを思い出した。ルカが言っているのは恐らく、金髪と淡い水色の瞳の子。僕が師匠に引き取られ出ていく日に姿を見せなかった彼女のことは、よく覚えている。
「あの女の子、やたらお前にくっついてたよな。どうなんだ? 何年後かにまた会おうね〜とかって話してねぇの?」
「……特にしてない。あの子は、ただ僕と仲良くしてくれただけの優しい子だよ」
「ふーん。ま、そうだよな。そんな本みてぇな話ねぇか」
連鎖的に、あの子がよく歌っていた歌も思い出した。孤児院にいた三年間、ほぼ毎日口ずさんで聞かされたから、歌詞も覚えてしまっている。
……そういえば彼女は、ひとりだった僕と一緒にいてくれた唯一の子だったな。今思えば、僕はあの子との友達という関係を絶って突然出ていってしまったことになるのか。良く接してくれたというのに、なにも返してあげられなかったよな。今更ながら申し訳なく感じる。
考えていると、店の奥の扉からマスターが出てきた。その手にひとつの封筒を持って。
「声がこっちまで聞こえていましたよ。孤児院だとか女の子だとか……。一体なんの話を?」
「ああ、クラーヴジヤって昔仲良い女の子いたよなーって話」
「なんですかそれは。興味深いです。是非お聞かせを」
ふとマスターの顔を見ると、微笑を浮かべていた。
「マスター、戯言はよせよ。封筒の中身を見せてくれ」
「よいではありませんか。少しくらい伺っても」
マスターが僕に詰め寄る。困惑しつつも、僕は応答してやることにした。ただし短い言葉で、端的に。
「……昔、僕と仲良くしてくれた子がいた。けれど、彼女とはただの友達だったよ。それ以上でもそれ以下でもない」
だいたい、当時は僕もあの子も子供だった。大人になってみれば思いつくような恋情なんて、昔は考えることもできなかったよ。
「もういいだろ? マスター、封筒を」
「なんですか、つまらないですね……」
マスターは、満足のいかない表情で封筒を開け、中に入っていた二枚の紙と一枚の写真を取り出しテーブルに置いた。
「依頼は、借金返済の催促です。債務者の男性の名はマークス。一年前に金を借りたきり、返済する気配がないとのことで。これが彼の顔写真です」
マスターが写真を差し出す。僕とルカは、それを覗き込んだ。写る人物は、三十代くらいの老けた男だった。
「そして、こちらが督促状と、彼についての情報がまとめられた資料となります」
「マークスを探し出して、この督促状を渡してこいってことか」
「そういうことですね」
そう言ってマスターは、空の封筒をしまう。
「了解した。さっそく明日から行ってみる。他にはなんかあるか?」
「他の依頼などはありません。では、私の方から忠告をひとつだけ。わかっていると思いますが……」
背を丸めて、マスターはカウンター越しに右手と左手で僕とルカの肩をそれぞれ叩いた。
「ターゲットには、必要以上に近づかないように、ですよ」
次の日の昼過ぎ頃。僕たちは、マークスに督促状を渡すため、ルーンベルク南東にある彼の住むアパートに訪れていた。部屋の扉をドンドンと叩いて、大声で名前を呼びかける。
「マークスさん! いますか!」
……返事はない。さっきから呼びかけているけれど、ずっとこの調子だ。
「クラーヴジヤ!」
ルカが階段を駆け上がってきた。
「大家さんに聞いた。マークスは今、出かけているらしい」
「じゃあ、帰ってくるまで待ってるかい?」
「いいや、それは良くねぇ。ヤツは出かけた後、その日のうちに帰ってこねぇ時もあんだとよ」
それは面倒だな。彼がどこへ行っているのか、探し出さないと。
「なら、聞き込みだ。周辺の住民に聞いて、マークスの居場所を突き止めよう」
「マークス? ……ああ、この人ね。どこへ行っているのかは知らないけれど……。でも、たまにげっそりして歩いているのを見かけるわ」
「この人……。借金してるって噂の人ですよね。それも、結構な額の……。うう、関わりたくない」
「コイツは、確かアレだな。会社から解雇されて、職を失ったヤツだ。可哀想に……。今なにをしているのかは知らん」
__周辺の人にマークスの顔写真を見せて話を聞いてみたが、彼が普段どこへ行ってなにをしているのか、それを知る人はいなかった。日も翳り、段々と空気が冷えてくる。ルカが自身の両手を抱き合わせて寒そうに震えた。
「しっかし、寒くなってきたな。クラーヴジヤ、聞き込みはあそこの花屋で最後にして、それでも情報が掴めなかったら今日は撤収しようぜ」
「……そうしようか。そしたら、また別の方法で彼を探そう」
僕とルカは、マークスのアパートの近くにある小さな花屋に入店した。店が閉まる直前だったようで、数人の店員がいろいろと片付けを始めているのが見える。僕は、入口付近で向日葵の花の世話をしている女性に声をかけた。
「失礼します。この辺りの人に聞きたいことがあって……」
女性が振り向く。長い金髪が、動作に追従しひらりとなびいた。
「はい。なんですか?」
そして、その女性の目が__淡い水色の瞳の視線が、自分へと向けられる。刹那、僕は息を飲み込んだ。
……正直に述べると、なにも言うことができなかったんだ。目の前の人の顔に見覚えがあったから。
横からルカが僕の顔を覗く。
「どうした? クラーヴジヤ。目を丸くして……」
目の前の女性も、僕と同じように目を丸くしていた。
「……クラーヴジヤ?」
女性が呟く。ルカが不思議そうに僕と女性の顔を交互に見比べた。
ほんの一瞬だけ、沈黙の時間が。
…………。
訳もわからず、動悸が少し荒れるのを感じた。なんて言葉を発するべきか、固まってしまった頭で思考しようとしていると。
「……クラーヴジヤ君!?」
突然、女性が大声を出した。けれど、僕はその声に驚きはしなかった。何故なら、僕も同じように眼前の人の名前を声に出そうとしていたから。
「……カチューシャ?」
僕が小さく言うと、ルカが驚愕の表情を見せる。
「知り合いなのか?」
「いや、知り合いというか……」
動揺しながらも答えを返そうとすると、女性は近くに駆け寄り、僕に問う。
「ねぇ、あなた……! クラーヴジヤ君なの!?」
「あ、ああ……うん」
「本当に……?」
さらに問い詰められた。僕は、女性と目を合わせて頷く。
「そっか」
女性は……一度俯いて深呼吸し、それから再び顔をあげて、昔と同じく優しい眼差しで僕を見つめたんだ。
「久しぶりだね」
それは、僕にとって随分と懐かしい笑顔だと思えた。
「えーッ! あの時の女の子!?」
驚いたルカが、この金髪と水色の瞳の女性__カチューシャを指さして声を張る。
「クラーヴジヤ君、この人は?」
「えっと……この人はルカ。僕を孤児院から引き取った人の息子だ」
すると、カチューシャも驚いた表情を浮かべた。
「ってことは、あの時のおじいさんと一緒にいた……」
カチューシャの言うおじいさんとは、恐らくグローザさんのことだ。……どうやら、昔のことをよく覚えているらしい。
「……クラーヴジヤ君。なんだか懐かしいね。今日は、お花を買いに来たの?」
尋ねられ、ここに来た理由を思い出した。再会に導かれて浮かんだ懐かしさに耽ってしまい、すっかり忘れていた理由を。
「い、いや……そういう訳じゃないんだ。僕たちは__」
言いかけると、突然ルカが僕の肩を掴んで振り向かせた。カチューシャに背を向けたまま、ヒソヒソと話しかけてくる。
「……クラーヴジヤ! お前、カチューシャさんが美人だからって照れてんだろ!」
「そんなことは……」
「いーや照れてんぜ。喋り方がいつものお前らしくない」
ルカは、肩を掴む手にぐっと力を入れ、顔を近づけて言った。
「美人な人を前にして照れちまうのはなんとなくわかるが、今の俺たちは人探し中だ。探してる人がいる旨をしっかり伝えろ。いいな」
そして、僕の肩を叩いて前に向かせる。
「どうしたの?」
「……なんでもない。カチューシャ、僕たちは人を探しているんだ。この人を知らないかい?」
懐にしまっていたマークスの顔写真を取り出して渡した。カチューシャは、写真を凝視して答える。
「この人……。名前はわからないけど、たまにお店の前を通ってる人だ」
「彼の居場所に心当たりは?」
「うーん……。ごめんなさい、わからないよ」
写真を渡し返された。それをまた懐にしまって、彼女に感謝を伝える。
「そうか……。ありがとう」
「クラーヴジヤ、今日のところは撤収するしかねぇな」
「ああ。彼のことは、また探しに来よう」
「……あっ! ちょっと待って!」
なにかを思い出したように、カチューシャが声をあげた。
「私、その人のこと知らないけど……。ちょっとした情報なら」
「情報?」
僕とルカは、カチューシャに向き直った。
「うん。情報……っていうか、その人の様子なんだけどね。その人、最初に見る時はいつもお店から見て左の方に行くの」
最初に左に行く……。反対側にあるアパートから出かけて行く時のことだろう。
「そして、左から右に行く時。多分帰ってる時だと思うけど……その時のその人の様子が不思議で」
「不思議? どういう風に?」
「なんだか、嬉しそうだったり悲しそうだったり。日毎によってバラバラだけど」
僕は、腕を組んで思考した。出かける時は、いつも同じルートを通っている……。日によって悲喜がある……。
「たまに同じ場所に行って、嬉しい日と悲しい日があるってことかよ? どういうことだ?」
ルカも考えているらしい。嬉しい日と悲しい日……。なにかを手に入れた日と、なにかを失った日ってことか? だとしたら……。
「なにかを手に入れられる日と失う日があるようだ。……彼は、借金をしている。そんな人が手に入れて喜ぶもの、失って悲しむものといえば……」
「……金か?」
「……ああ。恐らくそうだろう」
そこで、カチューシャがなにかに気づいたように手を叩いた。
「お金といえば、お店を左に行ってしばらくしたところに馬券の場外発売所があるよ!」
それを聞いて、僕とルカで顔を見合わせた。マークスは、競馬で金を稼ぐために馬券の発売所に行っているのか?
「……なるほどな。行ってみるとすっか」
「そうだね。ありがとうカチューシャ。助かっ__」
唐突に、またもやルカが肩を掴み僕を振り向かせた。そして、小さく言い放つ。
「ただし、お前はしばらくここにいろ」
「は?」
見るとルカは、いつにも増してニヤついていた。
「本当に久しぶりにカチューシャさんと出逢ったんだろ? 督促状の件は俺がやってやるから、お前は思い出話に花を咲かせてろよ」
いきなりなにを言い出すのかと思えば……。もしやルカ、この状況を楽しんでいるのか。
「気遣っているつもりかい? いいよ、僕も行く」
「いーやダメだ。たった今お前の任務は、ここで彼女と話をすることに変わった。そういう訳で」
ルカは、先程と同じように僕の肩を叩き、カチューシャの方へと向かせる。
「カチューシャさんよ。コイツは、ここに置いていくことになった。たっぷりと可愛がってやってくれよ」
なんだいその言い方は。
ルカは、早々と僕の鞄に手を突っ込んで督促状を取り出し、マークスの顔写真も奪って言った。
「クラーヴジヤ。後で話聞かせろよな」
そして、ニヤリとした横顔を見せながら退店する。この場には、カチューシャと、困惑している自分だけが残った。