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1.かの日の邂逅

 雨の日の昼下がり、曇り空の下。僕は、ひとりの大人に連れられて街を歩いていた。


 その初老の男の人は、隣を歩きながら僕の頭上に傘をさしてくれていた。髪も服もとうにずぶ濡れだったけれど、これ以上、空から降り注ぐ雫に打たれないように、寒い思いをしないようにと。


 水たまりを避けながら濡れた地面を蹴って進み、やがて門に辿り着く。脇の柱には「パーミャチ孤児院」と文字がある。その奥にそびえていたのは、黒い屋根で、赤褐色の外壁のところどころにヒビが走っていて、まだ九歳の幼い自分にも時の流れというものを感じさせる建物だった。


「着いたよ。ここだ」


 初老の男が言う。その柔い声は、雨音の中でもしっかりと耳に入った。この施設__孤児院には、訳あって親がいない子供が暮らしていると聞いた。自分は……親がいない訳ではないけれど、僕も今日からここで暮らすらしい。


 男の手によって門が開かれ、彼は建物へと歩き出す。僕も横について歩き、入口前の階段を昇ってそのまま建物に入った。


「待っていてくれ。すぐに拭く物を持ってくるから」


 そう言って、男は右の廊下の奥へ小走りで行く。靴を脱いで揃え並べ、立って男を待っていると、正面の部屋から子供たちの楽しそうな笑い声がするのに気づいた。この孤児院で暮らしている子供たちだろうか。なにをしてそんなに笑っているのか気になった僕は、部屋の扉を少しだけ開けて中の様子を覗き見た。見ると、隅でうずくまっている金髪の子が、他の子供たちに人形やおもちゃを投げつけられている。あれは……。


 眺めていると、布を持った男がやってきて僕の背後に立った。彼は、僕の頭にそれを被せてくれる。


「みんなは、この部屋で遊んでいる。君も友達になって……」


「おじさん。あれって」


 僕が言うと男も中の様子を見て、やれやれという具合に額に手を当てて扉を開いた。そして大声を出す。


「みんな! カチューシャを虐めるんじゃない!」


 子供たちがこちらを向く。


「やべっ! 院長だ!」


「ちぇっ。楽しいところだったのに」


 叱られて、子供たちは投げつけた人形とおもちゃを回収する。金髪の女の子は、うずくまったままだった。


「院長。ソイツ誰?」


 ひとりの子供が僕を指さす。男は、一歩進んで言った。


「今日からここで暮らす新しい友達だ。自己紹介はできるかい?」


 振り返って、男はその手で僕の肩に触れる。僕は、子供たちを見渡して、比較的小さな声量で自己紹介した。


 この日から、僕はこの孤児院で他の子供と同じように教育を受け勉強しながら過ごすことになった。






 数日後の朝、朝食前のこと。僕は、子供たちが遊ぶ部屋の壁際の机で本を読んでいた。部屋にはもうひとり、女の子がいる。お互い静かに過ごしていて、特に会話は交わさなかった。しばらくすると、他の子供たちが起きてきて部屋に入ってきた。みんな、目が覚めてから朝食を食べるまでの時間をいつもこの部屋で過ごしている。部屋に来るなり子供たちは、昨日までと同じくおもむろにおもちゃ箱に手を伸ばした。……また、アレが始まるみたいだ。


「それっ!」


 子供たちは、しだいに女の子に物を投げ始める。


 僕をここへ連れてきた男__孤児院の院長曰く、あの女の子は虐められているらしい。みんなにやめろと言っても聞かないそうだ。


 本から少しだけ目を逸らして、横目で女の子を見る。彼女は、相変わらず隅でうずくまっていて、無言のままだったが、確かに苦しそうな表情をしていた。


 ……つらそうだ。毎日こんな様子を見せられて、そう思わないのは無理があった。


 虐め……。


 …………。


「んっ? なんだ?」


 なにを考えたのか……僕は、読んでいる途中の本を閉じて机に置き、立ち上がって女の子と子供たちの間に横から割って入った。そして、子供たちの方へ体を向ける。


「へへっ。お前、ソイツを守るつもりかよ? なら……」


 彼らは、立ちはだかる僕におもちゃを投げつけた。その硬い部分が腕や足に当たる。痛くない訳じゃなかったけれど、僕は我慢して真顔を保ち、なにか言葉を発することもなかった。それが不満だったのか、彼らはさらに箱からおもちゃを取り出して、それを僕に投げ続ける。耐えきって、やがて箱の中のおもちゃが全てなくなったら、子供たちは頭の後ろで手を組み言い放った。


「なんだコイツ。痛そうな顔ひとつしねぇ。つまんねーの」


 子供たちは、みんなして机に向かい、今度は落書き帳で遊び始める。これで人をひとり助けられただろうか。そうだといいけれど。とりあえずの自己満足で満たせた。


 僕は、振り返ることはせず、壁際の机に戻り、また本を読み始めた。






 次の日も、その次の日も、いじめっ子の前に立った。もっと時間が経って、いつしか子供たちの嫌がらせの標的が、あの女の子から僕に変わっていたように思う。彼女が虐められているのは見なくなったけど、その代わりか、僕がいつも座る席に色々と書かれた紙が貼ってあったりとか、いきなり物を投げられた時もあった。それらは苦痛……ではあったけれども、今まで自分が受けてきた仕打ちを考えれば、このくらいなんてことはない。


 そんな日々が続いた、ある日のこと。


「あの……」


 朝。孤児院の自室の扉を開けて廊下に出ると、あの金髪の女の子が立っていて、僕に声をかけてきた。


「なに?」


「えっと、朝早くからごめんね? その……どうしても、聞きたいことがあって」


 他の子供たちは、まだ起きてこない。昔虐められていた彼女と、現在虐められている僕の会話は、誰にも聞かれることはないだろう。


「私の名前はカチューシャ。君は……」


「……クラーヴジヤ」


 自分の名前。改めて名乗った。


「名前を聞きに来たの?」


「ううん。聞きたいことっていうのは……」


 カチューシャは、気まずそうな顔で僕に尋ねる。


「……どうしてクラーヴジヤ君は、私の代わりになってくれたのかなって」


 虐めの標的にってことか。なりたくてなった訳じゃないけれど……。


「……虐められてるっていうのが、前の自分と同じな気がしたから、だと思う」


 誰かに虐められている。その境遇が過去の自分と近い気がしたから。それで、あのままなにもしない訳にはいかないと思った。上手く言えないけど、本当にそんな感じだ。あの様子を見ていて、ひたすらに胸が苦しかったんだ。 


 察したことがあるのかカチューシャは、今度は僕の目を見て尋ねた。


「クラーヴジヤ君は、なんでこの孤児院に来たの?」


 ここへ来た理由。それは、ひたすらにつらく苦いものだ。


「どうしてそんなことを?」


「教えてよ」


 僕は、カチューシャから視線を逸らして答えた。


「僕は……」


 あの日の朝方のこと。


「……父さんから逃げてきたんだ」


 昔、母さんが原因不明の病で死んでから、父さんは僕に暴力を振るうようになった。体のいろんなところにアザができたし、そんな日々が何年か続いた。そのうち耐えられなくなった僕は、数日前に家を飛び出した。そしてその日の昼頃、院長に声をかけられたんだ。そのことを話すと、カチューシャは何故か小さく微笑んだ。


「……なにかおかしいことがあるの?」


「違うの。ただ、虐められてたっていうのが私と似てるなーって思って」


 カチューシャは、静かに過去を語り出す。


「私もそう。私も……お母さんによく叩かれてた。毎日痛いことされて。最後には、お前なんか産むんじゃなかったって言われちゃった」


 その瞳は、どこか憂いを帯びている。彼女の話し方からも悲哀を感じられた。


「……母親からどうやって逃げてきたの?」


 気になったことを尋ねてみる。


「逃げてきたんじゃないの。お母さん、いなくなっちゃったんだ。その後にここに来たって訳。お父さんは……元からいなかったし」


 そうか。そういう経緯で君はここに来たんだ。


「だから、私みたいな子が他にもいるってわかって、ちょっと安心しちゃった。それはそれでおかしいことだけどね」


 なにも言えずに黙っていると、カチューシャがまた口を開く。


「あの、クラーヴジヤ君。もし良かったら……私たち、友達になれないかな」


 突然の提案だった。


「友達?」


「うん」


 聞き返しても、返事以上の言葉は返ってこない。目の前に立つ女の子は、ただ優しい眼差しで僕を見つめているだけだ。


 カチューシャの提案は、どうしてか、どこか暖かく染み渡るようなものだった。友達か。友達になったら、例えば一緒に遊んだりとか、そういう出来事が待ってたりするのかな。でも……。


「僕は……強くならなくちゃいけない」


 不思議そうにカチューシャが見つめてくる。


 そう。強くならなくちゃ、なにもかも、自分の命さえもろくに守れはしない。


「ひとりで力つけて、勉強して知識も手に入れて、強くならなきゃ。だから……友達になってる暇ないと思う」


 仮に自分に大切なものがあったとしても、それを守るのだって強さがなきゃダメだ。ただなにかを守れるだけの強さを持つこと。それが正しいことだとさえ思う。


「そっか。……じゃあ」


 カチューシャが、にっこりと微笑む。


「私にお手伝いをさせてくれないかな」


 一瞬、彼女がなにを言ったのかわからなかった。


「は……?」


「君が勉強で疲れたら、一緒に歌を歌おうよ。そうすれば、疲れなんて吹き飛んでいっちゃうから」


 一緒に歌を……って、それが手伝い?


「私、歌うのが好きなんだ。ひとつお気に入りのものがあるから、それを君に教えてあげる」


 そう言う彼女の瞳は、純粋で真っ直ぐな眼差しで僕を見ていた。初めて人から向けられたその感情に、なにも言うことができなかったんだ。なにかに、恐らくその淡い水色の瞳の眼差しに貫かれたような気さえした。


「クラーヴジヤ君は、『鷲の帰郷』って歌知ってる?」


「……いや、知らない」


 答えるとカチューシャは、さらに深く微笑んだ。そして、柔らかな声で歌い出す。


「あの人への文をしたためた。夜明けに帰郷を告げる文。燻る胸に愛が湧き重なる。暖かく陽射し降るように__」


 ……その日からの僕の孤児院での生活は、勉強と運動の時間、そして彼女の歌声を聴く時間で構成されるようになった。今まで自分には友達がいなかったから、これが普通なのかわからなかったけれど……。彼女と過ごす時間は、とても暖かく思えたんだ。

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