調子はどうですか?
清水雄介。そう書かれたプレートの入ったドアを開ける。
いかにも病院らしい白い部屋の中、兄――清水は読書にいそしんでいた。清水が目覚めてから一か月ほど。雄介が清水と再会してから二週間ほどの時間がすぎた。
スライドドアの立てる音に気づいた清水が顔を上げる。雄介の顔を見ると目を細めて笑みを浮かべた。小さい頃に何度もみた笑顔だ。
元気に動いていた頃よりも清水の顔立ちは大人っぽくなったが、頬がこけ、全体的に細い。抜け殻状態でも言われるがままに最低限の活動はしていたと聞いたが、十分とはいえなかったようだ。食事も流動食が多かったようで、固形物を食べられるようになるまでは慣らしが必要だと聞いた。
それが終わったらリハビリ、社会復帰のための勉強など、やることは山積みだという。しかしそれを語る清水の表情は柔らかく、苦痛を感じていなさそうなのが救いであった。
「緒方くん、こんにちは」
清水はいそいそと読んでいた本にしおりを挟んだ。どうぞとベッド脇の椅子を示す姿は幼い子供のようで微笑ましくもある。雄介はすすめられるままに椅子に腰かけた。
「調子はどうですか?」
「いいよ。先生にも順調だって言われているし」
にこにこと話す清水を見て安心した。
雄介が面会にいくと清水はいつも上機嫌だった。雄介にとっては感動の再会だったが、記憶を失った清水からすれば雄介は他人だ。それでも共に来る緒方や大鷲よりも雄介と話をしたがった。
記憶がなくてもわかることはあると緒方と大鷲は言っていた。弟だとどこかで感じ取っているのだと思えば嬉しい。同時に悲しくもなる。どれだけ清水に親し気に話しかけられようと雄介はもう清水の弟――清水晃生には戻れない。
それでも清水が穏やかに笑っているのを見ると安心する。なんとも複雑な心境だが、それを表に出さないように雄介は表情を引き締めた。
「今回は挨拶に伺いました。しばらくはお見舞いに来られないので」
「そうなんだ……」
清水はあきらかに落ち込んだ様子を見せた。見た目は成人男性だが、精神は十六で止まっている。幼い頃はずいぶんと大人に見えていた清水が同級生のような反応をするのを見るたびに落ち着かない気持ちになる。
「そもそも、こんなにお見舞いに来てもらってるのがおかしいんだよね。わかってるんだけど」
清水はそういって困ったような顔で笑う。それになんと返事をすればいいのか雄介にはわからなかった。
今の雄介と清水の関係は一言では語れない。雄介は清水の社会復帰を支援する組織に所属している見習いということになっている。
支援団体というのはまるっきり出鱈目。清水が七年間意識もうろうとしていたのは、原因不明の病気ということになっている。両親が眠っている間に死亡し、親戚もおらず兄弟もいない。そう清水には説明された。
真実と嘘を織り交ぜて言葉巧みに清水に説明する緒方と大鷲の姿はまるっきり詐欺師で、はたで聞いていた雄介は思わず半眼になった。
清水も最初は不安そうな顔で聞いていた。
自分の名前すら覚えておらず、本人に自覚がないまま成人を超えていたのだ。混乱しないわけがない。緒方と雄介の話もどこか夢心地で聞いているように見えた。
そんな清水が落ち着いたのは雄介と話すようになってからだ。
「自分と同じ名前っていうのもあって勝手に親近感を抱いちゃって……ごめんね。気をつかって会いに来てくれてたんでしょう」
「いえ、そんなことは」
自分は会いたくて清水に会いに来た。そう言えればいいのだが、今の雄介にはそれを伝えることができない。もう兄弟ではなく赤の他人だ。会ったばかりの。
「なにも覚えてないって結構不安でね……。これからどうしたらいいんだろうとか、誰に頼ったらいいんだろうとか、いろいろ考えちゃって。こんなの緒方くんに言っても困らせるだけだってわかってるんだけど。なんでだろう。緒方くんには言いたくなるんだよね」
そういって清水は困った顔で笑い、もう一度「ごめんね」とつぶやいた。
「……謝らないでください。俺も見習いとはいえスタッフの一人なので。不安だったらなんでも言ってください。力になります」
これは本心だ。これから先、兄が平和に幸せに暮らせるよう、自分はなんでもしよう。そう雄介は思っている。弟だと名乗ることはできなくても、それくらいのことは許される。そう思いたかった。
「……なんでそこまでよくしてくれるの」
「病気に苦しみ、人生を失いかけている人を救うのは当然でしょう」
綺麗ごとだなと思いながら用意していた言葉を口にした。清水はなにかを言いかけたが、結局いわずに苦笑した。雄介が本心から語っていないと気づいていても触れてはこない。優しい清水らしい気遣いだった。
「また、お見舞いに来てくれる?」
「また来ます。迷惑じゃなければ」
「迷惑なわけない。緒方くんと話しているとなんだか安心するんだ」
清水はそういって笑う。その笑顔を見て、雄介は本音が漏れそうになった。兄さんと縋りつきたい気持ちになった。けれど、それを飲み込んでなんとか笑顔を作る。
「それは嬉しいです。俺も清水さんと話すのは楽しいので」
これは本音。ただすべてを口にしていないだけ。特視の見習いを初めて少しなのに嘘をつくことには慣れてきた。それが良い変化なのかは分からない。
それでは失礼しますと立ち上がると清水が手を振った。またね。という言葉に嬉しくなる。また会える。動いてしゃべる清水と。それだけで雄介は満ち足りた気持ちになる。
けれど、どこかで本当にこれでよかったのかとも思う。記憶がないことで不安を感じる清水を見ていると、清水はあのままの方が幸せだったんのでは。そんな暗い考えが頭に浮かぶ。
なにも考えず、ずっと夢の中で微睡むように息をする。そうすれば不安も寂しさも感じずにすんだのではないか。
そんなことを考えて、慌てて思考を振り払う。暗い方向へ向かう思考に蓋をして雄介は病室を後にした。




