悪魔のお屋敷だ
響は土を払いながら立ち上がり、鎮の問いに答えた。晃生と慎司にはなんのことだか分からなかったが、その言葉を聞いた瞬間に鎮の顔色がさらに悪くなる。なにかに怯えた様子で周囲を見渡す姿を見て、晃生もなんだか不安になる。
晃生から見てここはただの森だった。なにか変わった所があるわけでもない。なぜ鎮が怯えているのか分からず首をかしげると響は落ち着いた声で鎮に話しかけた。
「落ち着いてくれ。ここに入ったくらいで呪われることはない。魔女は屋敷から出てこないから、屋敷に近づかなければ問題ない」
「ほ、本当ですか?」
響の言葉に鎮は半信半疑といった様子だった。キョロキョロとあたりを落ち着きなく見渡す様子は異常に思える。慎司も晃生と同じで鎮の様子が理解できないらしく、困惑した顔で鎮を見ていた。
「魔女って……」
「それもまとめて説明するよ。着いてきてくれ」
慎司のつぶやきに響は答えると先に歩き出す。晃生が黙って後に続く。その後に慎司、最後に鎮がついてきた。鎮はずっと緊張した様子であたりを見渡しており、そのせいで晃生まで緊張してきた。
「おい、鎮。なんださっきから。ただの森だろ」
訳の分からない態度にイラついて刺々しい声が出る。八つ当たりじみた態度にしまったと晃生は思ったが、鎮は晃生の態度を気にかける余力もないようで、眉を下げたままぼそりといった。
「お前らはなにもしらないから怯えずにいられるんだ……」
その後鎮は黙り込んだ。相変わらず不安そうに周囲を見渡しつつ、できるだけ早くここを出たいと早足になり、慎司の隣にピタリと張り付いた。一人でいるのは不安だという様子はとても高校生の男には見えなかったし、普段の鎮ともかけ離れていた。
一体何が鎮をここまで怯えさせるのか。その理由が分からないまま晃生たちは無言で進み、やがて森の出口が見えてきたあたりで鎮はあからさまにホッと息をついた。そんな鎮の様子を見て響は神妙な顔をしていた。
「……岡倉から見てもここは恐ろしい所なんだな……」
響の言葉に鎮が目を見開く。なにを当たり前のことを。そう言いたそうな反応に響は苦笑した。それに対して今度は鎮が顔をしかめる。
まったく意味の分からないやりとりに晃生は眉を寄せる。慎司も不安そうに二人を見ていた。
「なかなか根深いな……やはりどうにも出来ないことなのだろうか……」
響は沈んだ表情でそういうと歩き出す。鎮がなにかを言い足そうな顔をして口をつぐんだのが見えた。それでも視線は響からそらされない。なにを考えているのかと探るような強い眼差しに響はなんの反応もせずに歩みを進める。
「どこにいくんですか」
沈黙に耐えかねたのか慎司が口を開いた。震える声に響は歩みを止めて振り返る。慎司の顔を見ると眉を寄せ、迷うそぶりを見せたものの、最終的には意を決したように口を開いた。
「悪魔のお屋敷だ」
「は……?」
最初に反応したのは鎮だった。周囲を素早く見渡して、なにかに気づいたらしく青ざめる。嘘だろ。とつぶやく声は震え、顔は青い。その姿を見て慎司の表情も青ざめる。
「魔女の次は悪魔か」
晃生は眉間にしわを寄せた。こちらをからかっているのだろうか。
「晃生君と慎司君は、羽澤家についてはどれほど知っているのかな?」
すっかり青ざめた鎮と慎司を無視して足を進める響は振り向きざまにそんなことを聞いてきた。
「どれほどって……」
「古くから続く名家。優秀な人材を多数輩出している一族。富と権力を持った影の支配者。なんて大層なことをいわれている」
大層なと響はいうがどれもが真実だ。羽澤家の名前が歴史に刻まれるようになって数百年はたっていると聞く。記録が残っていないだけで、実際はもっと長いのではないか。そんな話もある。そうした長い歴史で培われた人脈や富、私財は莫大であり、羽澤に並ぶ家はないとされ、政治家は何よりも先に羽澤家に挨拶にやってくる。そんな噂まであるほどだ。
「これはすべて事実ではあるけれど、表部分でしかない」
響は淡々とした声で言葉を続けた。一緒に勉強していたときとはまるで違う、冷たく感情の抜け落ちた声。
「羽澤家は世間に言われるような素晴らしい一族ではない。自分たちが生き残るために他者を蹴落としてきた、どうしようもなく罪深い一族だ」
「蹴落としてきた……」
ごくりと慎司が唾を飲み込んだ。鎮は表情の抜けた顔で響を見つめている。なにを言う気だと監視するような眼差しに晃生は寒気を覚えた。
「羽澤家が呪われているという話は聞いたことがあるか?」
響は歩みをとめて振り返る。なんの冗談だ。そう言い返したかったのに、響の表情があまりにも真剣で晃生はなにも言い返すことが出来なかった。
呪い? なんだそれはと晃生は思う。生け贄から始まって、魔女に、悪魔と現代とは思えない言葉が並んでいる。今の時代に迷信を真面目に信じているものがいるのか。そうバカにしてやりたかったのに、ちらりと見た鎮の表情があまりにも険しく、口を開く勇気すら出てこない。
「一部では有名な話なのだけど、君たちまでは広まっていないようだね。だから毎年、なにもしらない特待生が入学してきてしまうのか……」
響はそういうと息を吐き出す。
「……岡倉家で情報操作、火消しはしておりますので」
「……なんでそこまで岡倉家は羽澤に忠義を尽くすのか」
「それに関しましては、私も甚だ疑問でございます」
響の言葉に鎮がムッとした顔をした。その表情を見て響は眉を下げる。
「いや、君たちをバカにしたわけではない。いつも感謝している。だからこそ、なんで関係ない君たちまで泥をかぶることになっているのか……岡倉家と羽澤の主従関係はとっくに終わっているというのに」
頭が痛いというように響は額に手を当てる。そんな響を見て鎮が目を瞬かせた。
「……響様がそんな考えをお持ちだとは想像もしておりませんでした」
「表でいうと色々ともめ事になるからね。兄さんに聞かれでもしたらなにを言われるかわかったものじゃない」
顔をしかめた響を見てなにを想像したのか鎮の顔色が悪くなる。そうですね。とつぶやく鎮の声は重い。色々とややこしい事情があるようで、部外者である晃生と慎司は顔を見合わせた。
「私としては特待生制度。いや、御膳祭を終わりにすべきだと思っている」
「本気ですか?」
響の言葉に鎮は目を丸くして、じっと響の顔を見つめた。
「鎮くんは知ってるだろう。私が一番リンと近しい。だから、リンが生け贄がなくても問題ないことを知っている。御膳祭はもはや形式だけ。いや、羽澤内の派閥争いのためにあるようなものだ」
「まさか……そんな……」
絶句する鎮を見て響は苦い顔をした。止めていた足を動かして歩き出す。青い顔で黙り混んだ鎮は、じゃあ……なんで……。とつぶやいた。その声は先ほどの慎司以上に震えていて、泣き出しそうにも聞こえた。
止まらない響と動かない鎮を見て慎司が困った顔をする。見かねた晃生が鎮の手を引いて歩きだすと、鎮は引かれるがままに足を動かした。自分よりもでかい男が、幽霊みたいに後をついてくる。それほど鎮にとって響の言葉はショックだったのだろう。
しかし、晃生にも慎司にも具体的なことが分からない。御膳祭とは一体何なのか。それが生け贄と関係があるのか。響がいったリンというのは何者なのか。分からないことだらけで頭が混乱してきた。
黙々と歩くとやがて日本家屋が見えてきた。森の周辺は不自然なほどに建物がない。遠くに見える建物はどれも古い家のようで羽澤家の歴史を感じさせる。その中でも一層古く、そして手入れが行き届いて見えるのが響の目指す場所らしかった。
森を背に建っている広い家には立派な松の木や池が見える。庭を一望できる縁側に誰かが横たわっているのが見えた。
真っ黒な着物に黒い髪。肌だけが白く、一人だけ色素が抜け落ちたような違和感がある。
同じ世界にいるはずなのに、なにかがずれている。そんな奇妙な感覚に戸惑っているうちに、鎮がびくりと体を震わせて立ち止まった。振り返れば顔が一層青くなり、がたがたと震えている。握った腕からじんわりと汗が吹き出しているのを感じて、尋常ではない様子に晃生は驚いた。
声をかけようとしたところで人が動く気配がした。縁側に寝転んでいた人だ。そう晃生は思った。
その人とはまだ距離がある。視線を向けたわけでもない。それでも晃生には男が立ち上がり、こちらへ向かって歩いてくるのがわかった。
晃生は気配に敏感というわけじゃない。どちらかといえば鈍感な方だと思っている。というのに、相手の一挙動すべてに神経を研ぎ澄ましている。一歩動く。そのたびに音がする。下駄を履いているらしくスニーカーに慣れている晃生には奇妙な音に感じた。
相手が近づいてくるにつれて鎮の震えが大きくなり、顔がますます青ざめる。鎮の隣にいる慎司の視線も動かず、近づいてくる人を凝視しているのが分かった。
なぜだか分からない。分からないが、晃生は今すぐ逃げ出したいと思う。同時に背を向けてはいけない。そうも思う。これ以上無防備に背を向けていたら、自分の命が奪われる。そんな馬鹿げたことを本気で思った。
振り返るとまず視界に入ったのは前にたつ響だった。響は特に変わった様子はなく、自然な姿でたっている。そのことにまず驚いた。それから近づいてくる人をハッキリと目にして、息を飲み込んだ。
真っ黒い人だった。遠目から見たとおり髪も黒ければ、着ている着物も黒い。今から葬式にでも行きそうな装いなのに、やけに胸元が開いている。きっと普段使いの着物だ。それならばもう少し色味を取り入れればいいのに、男が来ている着物は帯までもが真っ黒だった。
晃生が視線をあげる。そうするとこちらを見下ろす赤い瞳が目に飛び込んできた。真っ黒な中、瞳だけが爛々と赤い。血のようだと晃生は思った。日常的にみるものではないそれが、やけに生々しく脳裏に浮かぶ。
「なんだ、今年はいつもより早いな。しかも二人。二人とも食べていいのか?」
「リン、冗談はやめてくれ」
黒い男は晃生と慎司を順番に見てからやけに軽い口調でいい、笑う。その笑みが無邪気な子供のようで晃生はぞっとした。
食べる。男は自然とそういった。その言葉に鎮の体が震える。握りしめた鎮の手から不安が伝わって、晃生は奥歯をかみしめる。半ば意地になって男をにらみつけると、男は口角を上げた。面白いものを見たという表情に晃生はどうしようもなく逃げ出したくなった。




