【8】
暫くをティナは読み進めて、あれからどれくらいの時が経ったであろうか。何だか騒がしいような心地がして彼女が見上げた時には、窓の外も藍色に染まって日が落ちており、他の司書等の姿が幾等かあった。彼等は各々にコーヒーや紅茶を淹れて寛いだり、些細なお喋りなんかをして息抜きをしている様子だ。時計を見遣れば表の図書館は閉館時刻を迎えていたようで、となれば本日の仕事納めの頃合いであった。
「あれっ……シャルダイナさんはもう居ない。……リナリアさんも見当たりませんね」
我に返った様子でティナは一度席を立ち、ドールハウスの飾り棚を確認すれど彼女達の姿は何処にもない。
「もうこんな時間……という事は、私がうっかり夢中になって読み耽っていた間に、シャルダイナさんはお帰りになってしまったようですね」
時計を確認し小さく独りごちたティナは、そうしてもう一度席に着いて再度自身の本を読み進めようとするも、
「あ、いけない!シロモチさんの晩ご飯の時間が……お腹を空かせている事でしょうから、ちょっと行って来なければ」
と思い直して、姿勢を正す。彼女は書斎机の筆記具立てからお気に入り第二候補の栞を取り出すと、広げていた記録本(人生)にそれを挟んでから表紙という扉を閉じた。それを他にも並んでいる本に紛れさせる形で、一度は自身の書斎棚に片付けようとするも、一瞬固まったかと思えば彼女は思い直したらしい。その本を大切そうに胸に抱えて、ティナはフードを被る間もなく、そのまま第二司書室を駆けるようにして飛び出していった。
さて、一方ここは大図書館に併設された温室中庭である。外の日がすっかり暮れてしまったので、中庭の明かりは所々に灯された魔具としての外灯と、直により煌めくであろう星々と月によるものになるだろうか。
「ぷー……」
よく分からない謎めいた鳴き声の後に、続いて夜景色に衣装替えしたこの中庭の何処かで、だん、と地響きが聴こえた。
「ぷ~~……」
鳴き声の後、今度はどん、と大きな岩が落ちたような音である。
「ぶー!!」
どだん、だーん、と。何かを強く主張するような鳴き声の後に、その地響きは中庭中に響き渡って眠りにつこうとしていた小鳥達をびびらせた。
「うるさいのです、しろもち!」
それに応えるように、今度はあのリナリアの声が彼を制するように放たれる。すると暫く、夜の温室中庭は静けさと落ち着きを取り戻すのであった。
温室中庭の外灯は、魔具の扱いの範囲内である。故にここの外灯は固定的に立っているのではなくて、発光する個所だけが切り取られ、ふわりふわりと風や外灯の意思の影響を受け空中を漂う様に泳ぐ事が出来た。その内の一つの外灯が通りかかって、その明かりがシロモチとリナリアの居場所を明らかにする。
と、丁度その時。一人の白兎の少女が漸く到着を果たしたようだ。彼女は温室中庭に入るや否や合図を送ると、別の一つの外灯が彼女の元に飛んで行き彼女の足元や周辺を明るく照らした。
到着を果たしたティナは早速シロモチの食事を準備すべく、外灯と共に例の小屋に向かったようだ。
「お待たせしてすみません、シロモチさん。はい、遅れましたが晩ご飯ですよ~?お召し上がり下さいな」
そう言いティナは、ページサラダの餌箱を中央に位置するの芝生の上で座り込んでいた巨大座布団白兎、シロモチの前に出してやった。これによりシロモチの機嫌はすぐに直って、早速嬉しそうに食事を堪能し出す。
シロモチの座り込む中央芝生の傍には、鉢植えで揃えられた花々がそこかしこに飾られている。それらはまるで一室のインテリアのようでもあり、よくよくと見ればその鉢植えは様々なデザインをしていた。それら花の咲き誇る鉢植えには、木の板でできたミニチュアの橋のような物が飾りのように、密集して置かれた鉢植え同士に渡されている。それは各々の鉢植えを結ぶように繋げられ、鉢植えと鉢植え同士が橋によって連結し、まるで鉢植え自体が集落のような、それでいてドールの足場のような世界にも見受けられた。その意味でこれら鉢植えの集団は、花の妖精の隠れ家か何かかと疑い兼ねない程であり、可愛らしい。
その鉢植えの内の一つに、一輪の朱色をした姫金魚草の花を肩に担いで持つ小妖精、まさしくリナリアが腰かけており、何やら思い巡らす様に少し遠くの芝を見据えていた。
「リナリアさん……こんな所にいらしたんですね……?」
彼女を見つけたティナはそのように述べつつ、シロモチの食事が終わるのを待っている間リナリアの座る鉢植えの傍にある、人用のベンチに腰かけて時間を潰す事にしたようだ。ティナも同じようにベンチに腰かければ、目の前に夜化粧をした中庭の幻想的な景色が絵画のように広がった。
「そういえばシャルダイナさんとの件は、もう良いのですか?私、つい読み耽って時間を忘れていたようで、結局見送りのご挨拶をしないままになってしまいました……。なんだか失礼をしてしまって申し訳ないです」
律儀なティナはそう言うと、その視線を反省の色に変えるのであった。しかしティナがこのように言っても、リナリアは珍しく何も言わず、ただ暫くの間静かな時が流れる。
リナリアが口を開いたのは、その少し後であった。
「きょうはいちどに、へん、です。ぐんじん、どらごんのひめ、じゃんぬにてんし、ほんのむしくい、ほかにもいっぱい……いそがしい、です。そんなひに、しゃるはあほう、です」
「はい?」
リナリアは溜息でもつきそうな顔をして、いつもの可愛らしい声で冷静に淡々とそれらを述べ上げる。これにはティナも理解が及ばず、小首を傾げるしかない。
「どういう事ですか、それ。私にはシャルダイナさんの件と言い、未だに色々とさっぱりなのですが」
好奇心が勝って彼女は尋ねてみるも、今のリナリアからは彼女の求めるような答えは返って来ない。その様子は珍しくも大人しく、逡巡するようで神秘的であった。それはもしかしたら今のティナに、リナリアから言える事はないという意思表示であったのかもしれない。
しかしこれだけは言えると判断したのか、リナリアは可憐にも凛々しいような趣で以って、彼女を見上げて静かに告げる。
「カイがうごきだす……ティナのやくめ、たのむですよ?」
//自身の記録の本を抱えたまま
あの後結局、リナリアはそれ以上の詳細をティナに告げる事は無かった。
「一体、何がどういう事だと言うのでしょうか……?」
シロモチの餌遣りの世話を終え、リナリアに直帰の許しを得たティナは大人しくそれに従い、静かに一人大図書館施設内の廊下を歩いていた。外はもう暗くなってしまって、廊下の明かりが点々と灯っている。彼女の溜息交じりのような顔は、まるで解く事ができない問題を前にした少女そのままだ。
しかしながら言える事は、今のティナにはまず行うべき事があって、その他些末事よりもそれを優先するのが真っ当だという事である。リナリアが特にそれ以上を言わないのも、恐らく彼女なりに考慮をしての事だろう、とティナは思ってみた。
何しろあのリナリアが“さんこうしょ”として、ティナ自身の人生を推薦してきのだ。真意は今分からなくとも、また彼女は人生記録の初責任者を担う事もあって、それに目を通す事は必要なのだろう。それ程に、水面下で行われているこちらの仕事と言うのは、大切に扱う事が求められるのだ。
ふと回顧して、ティナはリナリアの言葉を思う。彼女の言葉は、ティナがこの度任された者達の人生記録に集中して取り組んでほしい、という意図の現れのようにも感じられる。
(やはり、自分で自分の人生記録に目を通すというのは何だか不思議な心地ですが、仕方がないですね。さっさと読み終え何かを掴まなくては、次に進むには足りないという事なのでしょう)
ティナは自身に言い聞かせるようにして思うと、その足取りは少しばかり確りしたような気さえした。
ティナは一度第二司書室へ戻ると、自分の書斎机を整えてから帰宅の準備をする。肩掛けの鞄に例の本や私物を取り入れ、勤務状況を示す机上のランプの明かりを消し、退勤中の表示に切り変えた。司書室の中では未だに休憩中を取っている者もあったり、もう少し書類や本の整理の仕事を済ませてから、と考えている者もいる。
その時ふと書斎机の本立ての隅っこ、まるで無意識の内にそこに仕舞い片付けていたらしい、当該図書に彼女の視線が留まった。確かそれはリナリアと共に昼時に探しに行った、“B208fー15”とナンバリングされていた幻想小説だ。
「そういえば、この本……」
先まで別の事に気を取られがちでうっかりしていたようだが、唐突にこの存在を思い出し、彼女はまたもや傾げてしまう。そうして、今日は傾げる心地が多い日だなと呑気にも彼女は思い重ねる。
リナリア曰く直に必要になるとの事らしいが、ティナにはまるで予想もつかないし、その予期も分からない。
ティナはついいつものようにその本を手に取り、脱線するの如く表紙を開いて読み進めたくなる衝動に駆られたが、今はそうではないと己を戒めてその手を止める。しかし代わりに、自身の記録書を入れた肩掛け鞄の中に、その幻想小説本もまた放り込むに至る。今は読まないと決めたとしても、先客を読み終えた暁の気分転換用にとして、彼女は嗜むつもりであるらしい事が見て取れた。
さて、ティナからすれば続きの読書をこのまま司書室で続けても良いのだが、これからは夜間業務の部が加わる為に少々人の音が多くなる事が予想された。ここは昼間の時のように静かな空間、とはいかないだろう。他の司書の方々に対し、あまり邪魔になってしまってもいけないので、今日の夜間当番ではない者はティナのように場所を移す意味も含めて退勤の道を辿るのであった。
彼女の実家はここグリモワーゼの郊外にあるにはあるのだが、図書館の夢読の司書ともなると住み込みで業務を行う事が多い。故に彼女も例外でなく、またその立ち得る環境も重なって、この大図書館施設内に“自室”という名の私的生活スペースが用意されている。勿論それはその者によって事情は様々であり、大図書館付近のペンションに部屋を借りている者もあった。
ティナは閉館になって昼間よりは明かりの乏しくなった図書館内、本棚の並ぶ通路を歩いて階段を上り更に迷い込む様に行けば、また違った一室のような空間に到着する。その部屋も本棚ばかりで、部屋として区分けされてはいるが立派な蔵書エリアだ。因みにこの辺り一帯は一般公開にはされていない蔵書のエリアで、また夢読の司書でなければ行き着く事も出来ないという、言うなれば秘密の部屋の内の一つに当たる。位置としては表の大図書館と夢読の館の、丁度境目のような空間とも言えようか。
その内の壁に並ぶ本棚はどれも同じようであるが、住人であるティナには判別がつくのか、当該の本棚の前に立つ。それを彼女が見据えるだけで、目前の本棚はぴくんとまるで生命のように反応を示せば、まるで重い腰を上げて席を退くかのように、何処からか足でも生やしたのか移動したのだ。刹那、並び埋められていた本棚の一つがぽっかり飛び出して、向こう側の壁面が垣間見える。その露わになった壁に扉でもあるのかと思うだろうが、見たとて至って、そこには何もない。
ティナは飛び出した本棚の後ろ側、つまり本棚が普段壁を背に面していた方へと回り込む。するとそこには、まるで可愛らしいアンティークを思わせるデザインをしたドアが一つあった。否、まさにドアというには異なるだろうか。それは本物の扉ではなくて、ペンキか絵の具で描かれたドアである。つまり、この本棚の背にはドアの絵が描かれてあった。
しかしどうだろう、ティナがそのドアの取って個所に手を掲げれば、まるで不思議の空間が開くように、その描かれたドアは扉を開ける。どういう造りかはさておき、イラストレーションのドアは押し戸のように開くと、そこにはまた違ったお洒落な一室が広がっていた。
「ただいま、帰りました」
そう言うと、ティナはまるで本棚の中にでも帰って行くように、その一室へと踏み入れる。
イラストレーションのドアがティナを迎えて閉じられ、そうして誰も居なくなった蔵書エリアの一室はとても静かだ。役目を終えた当該本棚は再びぴょこんと動き出すと、その身を元あった所に収めて、その後翌日の朝になるまで動き出す事はなかった。
因みにティナはというと、帰宅するや否や、寝食を忘れて例の読書に没頭していた事は言うまでもない。
**
続く