【5】
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ティナはそれらの記述を読み返していて、迚も懐かしい心地がした。思えばそれらはずっと遠くで、殆ど忘れ去ってしまいそうな程の欠片である。けれどこの記述を読む限り、それらは幻のようでいてそうではなく、確かな温もりがあったのだと再認識させられたような気がした。
あの高校で体育祭を過ごし終えたティナは、そのまま流れる時と一緒に夏を迎えた。物語としては実に単調で、何も問題がないが故に第三者からすれば面白みも何もないのかもしれない。次第に季節が変わり、暑さを迎えて彼女もうさ耳付きのパーカーを脱いだ。クラスメイトや度々出会う例の男子生徒の先輩と他愛のない会話を共有して、訳の分からない話題に盛り上がったりもした。定期試験が近づけば休み時間が勉強会になったり、かと思えば本好きなクラスメイトのとある彼女と話題作に関してあれこれと情報を交換したりもした。そこにクラスメイト彼女の幼馴染である男子生徒が加わって、妙なボケとツッコミ劇場が始まり、ティナはツボに嵌ってしまい笑い転げてお腹が痛くなった。そんな他愛のない日常が、大切であった記憶の欠片が、忘却の向こう側―――そこに煌めいている。
ティナ自身が、それが微笑ましくてついくすりと笑ってしまう。彼女は、全くおかしな話だと見守った。
体育祭を期に、彼女はクラスでも居心地の良いポイントをいつの間にか見つけていたようであった。そのせいで入学当初のように、彼女はまるで逃げ隠れるようにして図書館に行く事は無くなった。勿論、図書委員会の仕事は全うしていたし、図書館に立ち寄る頻度が減った訳でもない。
しかしその代わりに、彼女は寧ろその意思を能動的で以って図書館に通うようになったのだ。というのもある事がきっかけで、彼女は本当に読書という深海的世界の虜になっていたのである。
(9)
体育祭が終わり、中間試験が終わり、季節は過ぎて夏休みを控えた頃である。皆夏服のセーラーやワイシャツ姿に衣替えをし、夏の日差しの太陽と同じく元気そうかと思えば否、多くが逆であった。篠崎高校は県立という事もあってか、教室全てに冷房装置が監置されて居る筈も無く、故にどちらかといえば皆暑さに参ってぐったりとしている様が目立つ。勿論同じく元気そうな生徒もいるが、それらは大抵運動部で普段から鍛えている性質か、日々筋トレとして陸上訓練を積む、演劇部や吹奏楽部のような修行系文化部の輩である。
ティナ自身、元々読書は好きであった。母が本好きであったという事を考慮すれば、もしかしたら親譲りであるのかもしれない。暇を持て余す時間をというより、彼女は最早日課も同然に図書館に足を運んでいた。ティナは朝の開放時間であれ、昼休みや放課後であれ、気の赴く時にそこへ赴いた。それは彼女にとってまるでウィンドウショッピングをするのと同義で、またそれらは空けた時間を読書に費やす為や、静かに心を休めたい時など全てを総括していた。ともすれば彼女は毎日図書館に入り浸っているとも見受けられ、否それほどまでに彼女は少しでも時間を見つけてはしばしば図書館を訪れていただけの話である。
そのせいで彼女は司書の先生とは顔見知りの馴染仲になるし、図書委員として人手が足りない非常時の補助員として少しばかり業務を手伝う事が幾度かあった。
「青山くんって、本当に“本”が好きなんだね~。何て言うのかな……読むだけじゃなくて見るのも、扱うのもっていうの?」
司書の先生こと白衣の女性教諭、越塚はティナに仕事を手伝って貰いつつ、ある時そのように述べた。
「そう……なのでしょうか。読書をするのは好きな方ですが、そう言えば本自体が好きだなんて意識した事はなかったように思います」
「あはは、普通好きって言うのは自覚して好きになってるもんじゃないよ。気付いたら傍にあって、ああ、総じて好きなんだなって後から思い知らされるんだよ。人が恋するのと一緒でさ?」
ワゴンに積まれた本や雑誌類を棚に仕舞う作業を、ティナのサポートの元行いつつ、越塚教諭は楽しそうに笑った。勿論ここは図書館内である為、彼女等は迷惑にならぬようにとそれなりの小声で話す。といってもこの辺りは裏の蔵書スペースであり、その心配は皆無といっても良いのだが、環境における性分である。
「越塚先生はどうしてそのように思われたんですか?」
ティナは脚立の半分くらいまで登って作業をしている、司書の彼女に問うてみる。すると彼女はこのように述べるのであった。
「直観だね、直感。後はそうだな……本を触れる時の仕草というか、雰囲気?なんていうかね、青山くんは本一冊一冊を大事にしている。それは紙媒体という物体もそうだけど、その文字として記された中身……著者や翻訳者の意図までも、という感じ。本というのはその物を通じて向こう側に筆者があって、それと対話しているんだっていう見解もあるんだけど、それと似たような感じで根本に相手を尊重している~みたいな?だから本当に、本って言うシステムから生み出される全てが好きなのかなって」
作業を勧めつつ司書の先生は、尚さっぱりとした口調である。
「先生……それはきっと買い被り過ぎですよ。確かに先生の考えには私も同意しますが、私にそのような自覚はありません」
「ほう?無自覚であるのなら猶更だ、きっと天性のもので青山くんは本の妖精さんだったのか」
「先生、謎めいたご冗談は止して下さい~!」
他愛のない日常の欠片というのは、ここにも散りばめられてきらりきらりと光る。笑いに包まれ、一同が笑顔に染まるのだ。
「よし、片付け終わり♪青山くんありがとうね~、いつも助かりますわ」
目的の作業を終えると、司書の彼女は脚立を下りた。一方でティナは、取るに足りない事だという。
「けどそこまで本好きな青山くんなら、この図書館の蔵書を三年間の間に全部読破する事も可能なのでは、と思ってしまうな。これは挑戦してみても良いと思うぞ?そんな生徒に、私はまだ一度も会った事が無いんだよな~。本も大事に扱い読んでくれる人に出会えたら、きっと幸せだろう!」
越塚の述べる様は、とても楽しそうである。これはからかっているせいかと思われたが、当人からすればそれは微塵も無く、本気であるらしかった。
「多くの子は小説とか、本屋で取り上げられる有名な書籍に目が行きがちだけど……例えば我々専門外の人間でも分かるように噛み砕かれた軽い学術書や新書など、色々ジャンルはあるんだよ?科学系の雑誌だってうちは取ってるし、古文や漢文の載った古書もあるからね。時に覗いてみても、楽しいものだと思うよ?」
越塚のこの言葉から、後日ティナは興味本位に少しずつその行動範囲を広げ、気付けばその魅力に楽しみを見出しすっかり嵌ってしまったのである。
因みにティナのこの図書館通い及び読書世界の深海探索は、結果的に彼女が高校生活を送る中で大きく割合を占める事になった。しかし司書の越塚が言ったように、図書館の蔵書全てを読むなど、幾等読書好きなティナでさえ一高校生に過ぎない身分を考えれば時間は限られており、実の所不可能に近い。
否しかしティナ自身はそんな事よりも、試しに物理学関係の新書を開いてみればその世界に忽ち虜になった。それは一年次を通して物理科学から経済学、心理学などのジャンルを渡り、時に文学的な古書の類、つまりは古典の授業で出て来たような古文作品や漢詩集にまで目を通すに至る。
ある者からすれば、彼女は実に勉強熱心だと映ったかもしれない。けれど彼女にとっては、それらは能動的に行う趣味の領域であった。
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そこまで記録に目を通して、彼女は嗚呼そうかと、再確認をした心地になる。彼女が何故本を愛したのか、そこから垣間見えた世界に胸を躍らせた時の事など、様々な感覚を回顧した。
「あの時は……ただ夢中だったんですね。読んだ全てが素敵で、面白くて……本の世界が私にとっての大冒険だったようです」
本に記された事は彼女の知らない世界で、彼女の知らない所で生きた学者や筆者達が、自らの見てきた研究成果や過去、見解を伝えてくれる。それは離れているけれど、世代も年齢も性別も関係がない。その文字を読んで平等に、彼等が感じたり知り得た情報を共有する事が出来る。そうして学び知る事が、彼女にとって面白かった。
何も知らない赤子が探求するように、ティナは時間があれば読書に没頭した。それは話題の小説本を読むよりずっと面白かった。その心地は幼心を忘れず、飽く事も無く今でも存続しており、それはついうっかり未知の本に手を伸ばしてしまう彼女の癖だ。
人の脳というのは常に新しい情報を欲するように出来ていると、何処かで彼女はその一説を知った。確かにそうであるかも知れないと、彼女も思った。故に新たなそれらを求めて、人は彷徨うのである。もう得るものがないと悟った時、もう面白みを感じなくなった時、人はその世界に“飽きる”のだ。
あれから彼女もこちらで幾等かを生きて、多くの事を知った。こちらは時間の使い道があの時に比べてずっと自由であった為、彼女はより深層的な学術研究論文の類にも目を通し、理解を深めようと努力した。もしその記述が彼女の解せない所にある言語なら、その言語の習得さえ努力を惜しまなかった。そうして沢山を知って、ある時ふと立ち止まった事もあった。
それは幾等読み進めても、幾等様々な専門学者達の見解を調べても、皆同じ世界しか見えなかった時だ。新たな何かを見出せなかった時、彼女は、嗚呼、これが飽きる事かと知ったような心地がした。普通の人間であれば、これであっさり手放してしまうのだろうとも思った。しかし彼女はまた前を向いて、懲りずに歩き出したのである。
それでも尚本を飽きないなんて、もしや乱心ではないかとティナ自信疑った事もある。あのように立ち止まってしまった時、人によっては読み手という消費する行動に別れを告げ、己の研究の種を見つけて今度は発信側に立つのかもしれない。否、それが本来の学者や研究者、作家の立場なのだろうと察した。
しかし彼女、ティナにはまだ違うような気がしたのだ。彼女が求めるものは、本より生まれた世界というのは、文字情報だけに留まらないと、そのように感じつつあったからかもしれない。
それからは彼女は本で同じ見解を見つけたとしても、飽きるなんて事はなかった。それどころか今度はそれを、統計として見るようにもなった。本の世界に存在する全てが正しいとする、それら証拠を証拠付けるものは存外ない。となればどうあっても、それらは永遠に仮説であり、命題である。勿論結論付ける証拠があるからこそ、あのようにそれらは研究論文として成り立っている訳だが、ティナが感じる次元はそうではない可能性の方であった。
だからこそ、彼女は例えどのような結末であろうと、今でも尚性懲りも無く本という世界に手を伸ばすのかもしれない。それは単純に、彼女の心があのまま止まってしまっているだけだとも言えようか。
いかなるジャンルであれ、研究者は真理を突き詰めようと奮闘する。それを見守るしかできない一読み手であるティナは、それらを俯瞰して何を思うのだろう。それは呼吸をして、生命が生きるのと同じのようである。
等と懐古的思考を巡らせて寄り道をしつつ、彼女はもう一つ頁を繰って続きを読もうとした。しかしその所で彼女は突如発せられた別の声に気が行ってしまい、それどころではなくなり一旦中断させる。
「ああもう、わかってる、です!しゃるは、うるさいのです!そのきんべんさは、どこぞのにんげんなみ、です!」
「ならさっさとしなさいな?その司る事象が泣いてしまいましてよ?」
等という、何やら騒がしい様子のリナリアとシャルダイナの遣り取りが聴こえてきたのだ。駄々っ子のように主張するリナリアの一方、シャルダイナはまるで先生か躾の厳しい姉のように彼女を宥めている。シャルダイナのその発言は、やや溜息交じりであった。
それらはティナの書斎机の隣、斜め奥方向から聞こえてきた。そちらはリナリアが快適に生活できるようにとして整備された飾り棚付きのラックが壁面を背にして置かれており、別のドールハウスの領域である。家具やインテリアの飾りがどれも小さく、リナリア達小妖精の大きさに合わせられており、ラックのテーブルのような広い平面個所ではそれらを囲むように手前の方で本が立て並べられている。それらはまるで、本の壁と称した所だろうか。
彼女等小妖精の移動するドアというものは少々勝手が一般とは異なるらしく、その様子からすると彼女等は、たった今この第二司書室に帰還した所のようだ。小さなドールハウスエリアの奥には箱庭のような庭園があり、そこにある緑の垣根で造られた潜り門がその扉の役を担っているらしい。一見はガーデン用の垣根門であり、もし小人が潜ったとしても何も無く庭園の一飾りに過ぎない。けれどどういう訳か、彼女等小妖精が意図して潜れば、それは通過点設置用特殊魔具のように移動手段の役割を果たすのだ。
コツコツと彼女達のショスール・ポワントが机上を響き、やいやい言い合う可愛らしい声が微笑ましくも聴こえて止まない。
「ところでリナリアは、どうしてあのような場所に隠れておいででしたの?」
「いうのも、あほうです。しゃるはまじめ!まじめすぎて、りなりあはついてゆけない、です!」
翻訳するに、リナリアは単純に今日は急遽シャルダイナに会いたくない気分であった、という事らしい。
「きょうはなんだか、うるさいひ、です」
「いいからさっさとして頂戴?終わるまで、ここで待っていて差し上げますわ」
二人の小さき妖精達は手前の方まで出てくると、一旦分かれるのかシャルダイナの軌道がリナリアのそれと逸れる。シャルダイナはまるで休憩スペースとでも言えそうな広さのある区画に出ては、片手を一振りした。するとどうだろう、一体何処からそのようなものを召喚したのか、彼女の前にはパッチワークのように縫い目の目立つ兎の縫い包みが横たわっている。その大きさはシャルダイナより少しばかり大きく、彼女がよいしょとそれに攀じ登り乗れば、兎型のソファのように見えてしまう。
「しゃるは、つかいがあらいです。おに……」
別れ際にぼそりと、呆れた様子でリナリアが呟いた。
「何か言いまして?」
「いいえ、です」
空かさず地獄耳の如くシャルダイナが尋ねるも、リナリアは言い返す事すら馬鹿らしいと思ったようだ。
シャルダイナが一画で呑気に寛ぐ中、リナリアは小さく息を付いてから諦め観念した様子で、ティナの書斎机の方に出てきた。
「お帰りなさい、リナリアさん。先程シャルダイナさんがここに探しにいらしたんですけど、無事お会いできたようで何よりです」
見た所リナリアは何やらご機嫌斜めな様子ではあったが、それでもティナは気にする事無く笑顔で挨拶をする。
「ごくろうなこと、ですね。ところでティナは、もうよんだ、ですか?まだなら、はやくよむ、です。あすからはごごも、ティナにはおしごと、です」
「は……はいっ!」
かと思えばそのように返されてしまって、ティナは真面目に返事をして視線を構う事無く手元に戻す。その態度は、高校生であった十五の頃といつまで経っても変わらない。
その後ティナがちらりと様子を窺った所によると、手にした一輪と共にリナリアは机上を横切れば今度は小妖精らしくふわりと浮き飛んで、そのまま空を移動する。そうして移動したかと思えば、今度は反対側の壁に掛けてある、森と泉の描かれた美しい絵画の中に消えるようにして入って行った。その行為がそうであったのか、否、扉として同じく通過したのかの判断は、今のティナには解するところに無い。
シャルダイナも鼻歌交じりで、実に平和そうである。結局として、ティナは今のタスクを全うする他ないようだ。
続く
ビジュアルノベル化、鈍意制作中です!