進路の話 (彼の場合)
何がきっかけになって道が拓けるか分からない。
そんな感じで書いてみた話。
素人が書く技術の無く、つらつらと綴ってみました。
例年よりも早く咲いてしまい、入学シーズンを置き去りにして散ってしまった桜。
始業式を終えた今、薄ピンクの花びらもなくなり、葉がまだ若く淡い色で、桜の木は慌ただしくも春をさっさと終わらせようとしていた。
去年の今頃だったらまだ辛うじて花を楽しめただろう。
「これから進路調査票を配る。今週中に提出するように!」
新しいクラスメイトとの出会いに浮かれていた生徒たちが、校長の長かった話を聞き終えてうんざりとした心地で教室にたどり着いたというのに、担任教師は教室に入り教卓の前に立ち、挨拶も自己紹介もなしで発言した。
あちこちから小さな不満の声が上がったが、教師は気にも留めずに、最前列の生徒の机の上に用紙置いていく。
「また調査かよ。終業式にも書いているんだけどー?」
文句を言いながらも後ろの席の生徒に渡していく手は渋々としていても動くのが早い。
そして、その教室の中に彼はいた。
進路調査票を後ろに渡した彼は、誰にも分らないくらいのため息をついた。
学年末にも進路調査票を出していたのだが、彼は白紙で提出している。
特に悩んでいるわけではない。
成績も悪いわけではない。
国立大学を狙える。
ただ、自分の進むべき道がまだ見えない。
窓際の席に座っている彼は、ぼんやりと外を眺めた。
……平和だな。
二年生の教室は校舎の二階。
一組の部屋は真下に一本桜の木が植えられているので、窓はその桜の葉はそれ以外の景色を遮断するほどによく見える高さ。
彼の席から外を眺めても、桜の若葉しか見えないほど枝が差し迫っている。
隙間からグランドが見えた。
彼はやはり、平和だ……と思う。
思った瞬間、彼の中で、何かを悟ったような感情が生まれた。
……何を悟った?
「おい、松下ァ。俺の話は子守唄やお経じゃないんだぞォ」
教師のくだけた口調での注意に、周りの生徒がクスクスと笑った。
彼はゆっくりと顔を教卓に向けた。
教師は満足そうにうなずいて話を続けた。
話が続いている間も、彼は教卓に視線を合わせていたが、話の内容は全く聞いていなかった。
教師に話しかけられる前。
何を思った?
何も考えずに窓の外の桜の若葉を見て「平和だな」と思ったのだ。
進路のことを熱く喋り続ける教師から机の上に置いたままの調査票に視線を落とした彼は、この調査票に何を書くかを考えた。
前回の調査票には何も書かなかった。
書けなくて、そのまま提出する事になったモノ。
『生温い国』
今、自分がいるこの国を表現するならば、この言葉だろうと思う。
守られ、物が溢れ、甘やかされていると、彼は思う。
平和過ぎる日々の中、彼は平和ボケの日本人になりたくない、自分がいるこの日本という国で、自分が平和であるのが、彼の中で許せない……
青臭いと言われても、偽善者と思われてもいい、と、彼は決意した。
彼の頭の中が急速に動き出す。
机の上の調査票に、彼が今思いつく彼に必要そうな知識を習得できる大学を、取り敢えず書き込んだ。
そして、思いつく事をスマホにどんどんメモしていく。
突然開けた自分の進路に、彼の気持ちの中に迷いはなく、思考が止まらない。
自分がこれから何をするべきなのかが分かり、今までの将来への不安が、霧が晴れたように見えて来た。
学力が圧倒的に不足していると思う。
今のままの成績でも進学はできるだろうとは思うが、知識は決して無駄にも邪魔にもならないし、大学も目指すなら海外の大学でも学びたい。
彼は予備校と英会話教室に通うことに決めた。
高校入学と同時に始めたカフェでのアルバイトを辞めることにする。
生活が苦しい訳ではないのだ。
父親のアドバイスで始めてみたものだった。
「やりたい部活がないならバイトをしなさい。
社会勉強になるし稼ぐこともできる。
金が貯まったら何か大きな買い物をすれば自分へのご褒美にもなる」
さっそくアルバイト先を見つけて、休日と長期休暇を中心にして働き始めた。
放課後の空いている時間にも入らせてもらっていると、同じシフトで入っているバイトの先輩が楽しそうにバイクの話をしてくれた。
自分も運転してみたくなった。
そして、アルバイトで給料を貯めて、彼が買ったものはバイク。
それまではがむしゃらに働いた。
免許取得の費用も自分で用意して、三学期が始まる直前の十六歳の誕生日にライダーデビューした。
バイクが手に入ってからの三学期の間は、バイトは程ほどに稼いで、休みの日にはあちこちに出掛けて、運転技術を磨くことに充てた。
……教師の話はまだ終わらない。
内容を聞いてみれば、もう新学期に必要な話題ではない、つまらないダジャレを連発していた。
よく皆我慢して聞いていられるなと思う。
何人かの生徒はあくびをかみ殺している。
数人の生徒が教師の話に付き合って愛想笑いをしていた。
教室の中は教室以外がだらけてきていた。
彼は、小さくため息をついた。
再び窓の外を見ると、桜の枝の間から、すでにホームルームが終わって下校していく生徒がグランドの端を歩いて校門に向かっているのが見えた。
彼は自分の右手首にしている時計を確認した。
教師が部屋に入ってきてから随分と時間が経っていた。
「まだ終わらねぇの?」
「帰りたいよね…」
彼の前の席の生徒がひそひそと話すのが聞こえた。
「そう言えば…村上先生って三年を受け持つの初めて?」
「らしいぞ」
「気合い入ってるし決まってるだろ。あーぁ。早く帰りてー…」
クラスメイトの内緒話を聞いて、彼は無言で立ち上がった。
彼の突然の行動に気が付いた教師は驚いて口を閉じた。
生徒たちは何が始まるんだろうとざわめいた。
「先生」
彼の落ち着いた声に、教師は慌てる。
周りは興味津々で見守った。
「な、何だ?」
教師は声が裏返った。
「その話は、今聞かなければならない程、大切な事ですか?」
彼の、厭味にも聞こえてしまいそうな落ち着いた口調と、教師の浮ついた態度に、どちらが教師なのかと聞かれるならば、この場の生徒は皆声をそろえて彼の方だと答えるだろう。
「い、いや。そんな事はない。何か急ぐ用事があるのか?」
教師は悲しくなるほどに狼狽える。
「成田に」
「な、成田? 空港?」
「はい。父を迎えに行きたいのですが」
彼は淡々と、手短に答えた。
「松下ァ。親父さんが帰ってくんのかー?」
彼の席から対角の位置に座っていた近藤が明るい声で尋ねた。
「ああ。一週間もしないうちに向こうに戻るらしい」
教師を無視したやり取りだ。
高校に入学してから知り合って、バイト先も偶然同じカフェで、バイクの話もしたり購入の相談もした。
いろんな話をするようになってからは、彼の家庭事情にも少しは詳しい、数少ない友人である。
「勝手なことを言っているのは分かってますが、出来るだけ早く父に進路の話をして、じっくりと考えたいと思ってます」
「え…」
「先生、もう他のクラスのやつ、帰ってるぜ? オレらも塾とか部活とか、いろいろ忙しいんだから早く帰らせてくれよー」
彼の事情に便乗して、別の生徒が口をはさんできた。
「だよな。俺ら忙しいんだよ!」
「そうよね。私これから駅前の予備校に申し込みに行くんだけど、友達との待ち合わせ時間が過ぎちゃう。待っててくれてるか心配だよ」
教室が騒めく。
鞄の中からスマホを取り出して着信の有無を堂々と見始めた女子もいる。
「あ、ご、ごめん! 何時?」
小さくなりながら時間を確認している。
「先生、気合い入ってるねー」
などと、からかわれてしまった。
「あー、…確かに喋りすぎた。本当にごめん!」
教壇で慌てて頭を下げて教師は謝った。
その教師の前に進路調査票を滑り込ませ、彼は一番に教室を出ようとした。
「え、ま、待って松下! 調査票もう書いたのか!?」
彼は立ち止まって振り向いた。
「そうですけど…? それじゃ、さよなら」
「あ、ハイ。サヨナラ… マジでもう書いちゃった…」
提出された調査票には、確かに彼の名前と志望する大学の名前が記入されていた。
松下猛は、空港内のカフェで息子を待っていた。
アイスティーは飲み干し、氷も半分ほど溶けてしまっている。
始業式の後なら自分も昼から時間があるから迎えに行く、という息子に合わせて帰国の日時を決めた猛は、息子の姿が見えない事を心配していた。
バイクの免許を取って初めてのお迎えだ。
赴任先のパリで猛も国際免許を持っていて通勤で乗っている。
まだ免許を取って間もない息子は、空港から自宅までの帰路は父と子の二人乗りが出来ない。
空港までは息子に乗ってきてもらい、帰りは二人乗りで猛が運転することに決めていた。
猛の周りには荷物がない。
今所持しているものは、財布・パスポート・スマホで、全部上着の内ポケットに入っている。
他の荷物は空港から自宅まで宅配だ。
海外勤務が決まってから一時帰国する度に利用している。
大きなスーツケースを持ち歩くのが鬱陶しいのだ。
待ち合わせの時間から三十分が過ぎた。
猛の胸の中で不安がよぎる。
その不安を鎮めようと店内に設置されている新聞を取ろうと立ち上がった。
「親父! すまん、遅くなった!」
息子の声が聞こえた。
「お? …智聡。随分と遅れたな。どうしたんだ?」
ヘルメットを抱えて、待たせてしまったことを謝った彼に、猛は軽く手を上げて制し、向かい側の椅子を促した。
「もう少し早く来られたら良かったんだけど…始業式の校長の話と担任の話が長かったんだよ。大した話でもないのに、よくあんなに喋る事があるなって、皆呆れてた」
いそいそと父の向かいに腰を下ろした。
「急いで家に帰って、荷物降ろして着替えて来たんだけど、ヘルメット忘れてまた取りに戻ってってしてたら遅くなった……」
「時間になっても姿が見えないから、事故にあってないか、渋滞に捕まっていないか、いろいろ心配になってきていたんだよ」
ほっとした表情で猛は座りなおす。
「親父、バイクなんだから渋滞は関係ないんだけど?」
「…そうなんだがな、やっぱりいろんな心配はしてしまうんだよ。バイクで成田空港までくるのは初めてなんだろう?」
「まあね」
「無事に到着して良かったよ」
「それより、腹減った。ここで何か食べさせてくれ」
「ここでいいのか?」
「ん。ここで食べる。何食うかなー…」
学校では無表情、クールだと言われているが、バイト先や家庭内ではそれなりの高校生の様に明るく振舞っている彼は、久しぶりに会えた父に少し甘えるような瞳でメニュー表を広げた。
物色して五秒で決めた彼は、手を挙げてスタッフを呼んだ。
「ピラフセット一つ。親父は…?」
猛に顔を向ける。
「アイスティーのお替り」
と短く答えた。
「ピラフセットのお客様はお飲み物は何が宜しいでしょうか?」
「んー。俺もアイスティー」
「畏まりました。少々お待ちください」
一礼をして女性スタッフは戻っていった。
「で、何で急に日本に戻ってきたの?」
彼は聞きながら姿勢を正す。
「そりゃあお前の進路のことが気になったからだろう。三学期の最後に白紙の進路調査票なんか提出したって報告されたら心配になる。ちゃんと話を聞きたいと思って一時帰国」
「仕事休んで平気なのか?」
今度は彼が不安な顔になった。
「平気な訳じゃない。けど、今一番大事なのはお前だと思ってる」
父親らしい表情を見て、彼はその言葉を、自分への思いの大きさを知った。
「まぁ、三学期の調査では白紙で出したけど…。この話は家に帰ってからにしようか」
その時の自分は、まだ自分が何をしたいのか、何をすればいいのか分かっていなくて、周りにいるクラスメイトが進路を語っているのが、自分の中で焦りを募らせ不甲斐なく思い、気持ちも投げやりになっていた。
最悪、このまま流されていく人生になるのかも…とも考えた事もある。
それを思い出し、苦笑した。
「じゃあ、家に帰ったら聞かせてもらうよ」
「ん。…疲れてない?」
「そんなには疲れてないさ」
「ビジネス取れなくてエコノミークラスに乗ったんだろ?」
「ああ。飛行機のチケットの事か」
国内の移動ならエコノミーに乗っても少し窮屈ではあっても大したことはないが、長時間のフライトではゆったりと出来るビジネスを使う。
が、今回は一刻も早く息子の話を聞きたかった猛は、日本に一番早く着く飛行機に乗ったのだ。
「親父。俺、今まで将来何やりたいとか聞かれても答えることが出来なかったけど、……やっと目標が出来たから」
突然の彼の発言に、帰宅して久しぶりの我が家で淹れたお茶を啜ろうとしていた父は目を上げた。
ガラスのローテーブルの向こう側で正座をして、これまでにない真剣な顔をしている彼の視線を受け止める。
猛も姿勢を正して、湯呑を置き、真摯に向き合うことにした。
「……話を聞こうか」
猛もまたまじめな顔に変わったのを見て、彼は呼吸を整える。
「俺、ユニセフに関係するものに参加する事にした」
「……は?」
猛は、彼の一声を聞いて、頭の中を真っ白に染めた。
「…ユニセフ?」
オウム返しに彼に聞きなおすと、黙って頷かれた。
「ユニセフって、…あのユニセフだよな? 何故、ユニセフ?」
混乱しながらも、息子の考えを聞こうと猛は必死に平静を取り戻そうとしていた。
「今日、始業式が終わって、担任の話を聞きながら窓の外を眺めてたんだ。そしたら、この国は何でこんなに平和なんだろうって思った。俺たちは『暖かくて、優しい環境の中で甘っちょろい生活を送れている』んだなって。でも、世界には戦場の中で死に怯える日々を過ごしている人たちもいる。何で俺、こんなにのほほんと高校生をぼんやりとやっているんだろう? て気が付いて、平和に・平凡に・暢気に、ただ生きているだけで本当に良いのかって、思った」
「ほう……」
静かに相槌を打つ父に、彼も静かに話を続ける。
「世界は平等だって事を戦場にいる子供たちに教えたい。俺より年下の子が本物の機関銃を持って人を殺すことに躊躇いがないのはおかしい、間違っているって言いたい。俺が今やりたいのは戦地で戦う人たちに平和を考えてもらう事だと思う。
誰かが、子供たちに、人を傷つけることは怖いことだと教える必要があるなら、俺がその誰かになる。子供は育った環境と教育で将来が決まる。だから、優しい環境を暖かい場所を作りたい。優しい大人に、強い人間に育てたい。内紛とか戦争とかテロなんかで傷つけられた子供は増やさない社会にしたい。
…俺のことを偽善者だと思う人はきっと現れると思うけど、俺はそれでもやりたい。やるって決めたよ」
話しきって彼はふうっとため息をついた。
猛は息子の言葉を黙って聞いて、夢が見つかって、大きな目標にやる気を漲らせている彼が、ちゃんと現実と照らし合わせているのか不安になった。
彼の未来は過酷な道になるのは親でなくとも分かる。
それでも、息子の決めた進路を応援しようと思う。
挫折するかもしれないし、迷う事もあるかもしれない。
何があっても猛は応援するし支えていくことを決意した。
「智聡、父さんは応援する。自分で決めた進路をしっかりと歩め。何かあれば必ず報告と連絡・相談してくれ。何があっても駆けつけるから」
「うん。ありがとう」
彼はやっとリラックスして表情を緩めた。
その顔はこれから始まる猛勉強のスタートラインに立てた喜びを嚙み締めたものなのだろうか。
End
高校生って意味もなく自信があって、無敵な時代だと勝手に思っている。
これからいろんな人と出会ったり、切磋琢磨したり、挫折したり、心が折れてしまうこともあったり、紆余曲折があるのだろう。
彼がやり遂げるのか、違う道に進むのかは分からない。
年を取ってから「何でそう思ったんだろう」とか、恥ずかしい思い出になり、笑い話になった時に、あぁ青春したな…と思える大人に、彼もなるだろうかと思いながらここで終わらせた。
この後は読み手の想像に任せようと思う。