猫の名刺
本当にバカみたいだ。
引きこもること五年。
僕は今日、コンビニの面接を受けた。
深夜バイトなら、なんとかできるのじゃないかと期待したのだ。
母親が涙ぐみつつ見送る中、今日から生まれ変わるぞと息巻いていた。
だがあっけなく、僕のやる気はしぼんでしまった。
母親がクリーニングに出したスーツを着ていったのだが、笑われてしまったのだ。
バイトの面接にスーツで現れる三十前の男。
「すっごい気合入ってますよね」
僕よりも年下に見える面接官は、僕を見るたびに顔を背けて笑った。
休憩室も兼ねているらしい事務所では、何度もアルバイトが僕をのぞき失笑して出て行った。
たった二十分の面接は地獄の様で、滝のように流れる汗が、スーツの中を蒸れさせた。
母さんのせいだ。
家から近いコンビニを選んだせいで、もうあのコンビニには行けない。
こんなスーツなんか僕に着ていくように言うから、こんなことになった。
頭の中では、面接官にスラスラと答える自分がいたのに、スーツを笑われたせいでだいなしになってしまった。
スーツのジャケットを脱ぎ捨てようと思ったが、母の顔が頭をよぎった。
「失敗してもいいからね。面接受けてくれるだけでもお母さんうれしいんだから」
くしゃくしゃになったジャケットを片手に、裏路地に入る。
思わず泣きそうになったのだ。
こんなところを人に見られるわけにはいかない。
ただでさえ、近所でなんと噂されているのかわからないのに。
「にゃー」
きれいに畳まれたハンカチをポケットから出していると、足元で鳴き声がした。
一匹の猫がいる。
白い猫で、右目の周りにだけ黒いブチがある。
猫の種類など何もわからないが、赤い首輪は飼い猫の証だろう。
その猫が、口にくわえた紙を突き出してきた。
「いや、いらないよ。なんか汚そうだし」
僕が猫相手に、わざわざ台詞までつけて断ったのだが猫もおれない。
しぶしぶと、その紙を受け取った。
名刺で、吉岡修三、とある。
しかも、株式会社レインボーの部長らしい。
すこし面白くて笑ってしまった。
「君は吉岡修三さんなの?」
猫は満足げにこちらを見上げる。
「部長なんだね」
「にゃー」
猫は誇らしげに返事をした。
「ちょっと待って、ぶちょー」
「にゃ、にゃー」
なぜ猫を追いかけているのだか、自分でも謎だ。
ただ、先ほどの裏路地を出ようとした時、人の話し声がした。
もしかしたら顔見知りかもしれない。
とっさに方向転換してしまった。
目の前には、薄暗い中にも猫の白い毛並みがぼんやりと輝いて見える。
尻尾を振り振り、奥へと進むのだ。
思わずついていってしまった。
スーツを着てビジネスバックを片手に、せかせかと歩く。
ほんの半年しか働いていなかったが、営業の新人時代を思い出した。
片手に持った名刺が、汗で湿ってくる。
裏を見ると派手なレインボー柄で、あまりセンスは無いなあ、などと思った。
「あれ、ぶちょー?」
名刺に気を取られた隙に見失ってしまった。
急に、心細くなり、そんな自分に「これだからニートは」と自分に毒づいた。
「ぶちょー! よしおかしゅーぞー! しゅーーぞーー!」
自分を励ますように、わざわざ大きめの声を出してみる。
次の瞬間、右手の壁からドンドンと叩く音がした。
小声で「すいません」とつぶやきながら、急いで引き返そうとする。
「ここだ。わたしはここだー」
男性とおぼしき声が、小さいながらも聞こえてくる。
足を止め耳を澄ましたが、そのあとは何も聞こえなくなった。
家の前にまで帰ってきたが、気が重い。
きっと母は、何も聞かずにいつもより豪勢な夕食を用意しているだろう。
父はそれを見ても、何も言わず無関心にちがいない。
始めはスーツのことで母を責めようと思っていたが、今は隠そうとしている。
知ればきっと母は、母自身をせめて僕に何度も謝ってくるだろう。
僕が悪いのに。
これまでも、これからも。
気分が落ち込む。
自分をあらゆるものから安全に守る自室でさえ、今は遠くに感じた。
「その名刺はもしかして、レインボー社のかな?」
いきなり声をかけられて、驚き振り向く。
スーツ姿の女性がいた。
黒縁の眼鏡と、黒の長髪。
僕とは違い、ピンストライプのスーツが綺麗に似合っている。
「ああ、これは猫の……」
「猫?」
僕は両手を振りながら「なんでもないです」としどろもどろで答えた。
女性は三島と名乗り、探偵だと言う。
そして、誘拐された吉岡修三を探しているのだと僕に告げた。
「ここから、声が聞こえたと?」
「たぶん。よくわからないんですけど、この壁から返事みたいな声が」
裏路地の奥まで戻ると、彼女は壁に耳を押し付けた。
ここまで戻る間に、僕の説明は終えている。
猫の話もだ。
バカにされるかと思ったが、三島は熱心に聞きながら「キミ、もってるね」と何度も言った。
三島が路地の奥に裏口をみつけたのがそれから二分後。
鍵のかかったドアを、探偵7つ道具とやらで解錠したのが五分後。
その中に単身飛び込んで、中からパンパンとまるで銃声のような音が聞こえたのは七分後。
そして血だらけの男が、僕の目の前で叫び声を上げながら飛び掛かってきている今が十分後。
もちろんこの状況なので,どこまで正確かはわからないが、もうどうでもいいことだろう。
走馬灯が僕の頭の中を流れていったが、途中からずっと自室風景のみになったので上映を中止した。
決して余裕があるわけではない。
あまりのことに現実味が無いのだ。
もう、現実を受け入れる前に死んでいたい。
「にゃがー!」
そこに猫が飛び出した。
白くてブチのある、名刺を僕に渡した猫。
「ぶちょー!」
僕が叫ぶと、猫は「にゃー」と鳴いた。
「やっぱりキミ、もってるよね」
三島が銃をしまいながら言う。
目の前には男の死体が1つ。
猫が助けてくれなかったら、僕を含めて2つになっていたとこだろう。
「あっ、ぶちょうーにお礼を言わなければ!」
僕はいつの間にか姿を消した猫を探して、裏路地を飛び出した。
「ぶちょー!」
「ぶちー!」
やっと見つけた猫に声をかけた時、ちょうど同じタイミングで女の子が叫んだ。
ちょうど間にいた猫は一瞬迷った風だったが、すぐに女の子の方にかけて行った。
本名は、吉岡修三でもぶちょーでもなく「ぶち」であったらしい。
僕は不思議そうにこちらを見る女の子と、命の恩猫に心を込めて頭を下げた。
あれから一週間がすぎた。
あのあと戻った裏路地には、何1つ残っていなかった。
くたくたに疲れて帰った家では、思った通りに豪勢な夕食と、ご機嫌の母と、無言の父が待っていた。
父は何も言わず、何も聞かないくせに、僕が帰って来るまでビールすら飲まずに待っていた。
そして今日、内定通知書が薄っぺらい封筒で家に届けられた。
まさか、あの面接で受かったとは思っていなかったので驚いたが、隣で喜ぶ母と一緒に素直に感謝した。
「あら? 面接を受けたのは、コンビニじゃなかったの?」
母が不思議そうにこちらを見て指さした。
内定通知書の就職先には、三島探偵事務所と書かれていたのだ。




