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残り四回の嘘

作者: 戸部家 尊

   「残り四回の嘘」




 坂道を駆け上る途中、藤川翔太は電信柱の陰に設置してある自動販売機を見つけた。掌の中の小銭を握りしめながら自販機に駆け寄る。表面に水滴の浮いた清涼飲料水が取り出し口に転がる。と同時にそれを取り出し、一気に飲み干した。体中の水分を交換したような清涼感が喉の奥から広がっていく。口元を拭いながら翔太は大きく息を吐き出した。


 昼過ぎまで降っていた滝のような雨も上がり、代わりに白く眩しい日差しが照りつける。強い陽光は濡れた地面をあっという間に乾かし、空気まで金魚鉢の底のように歪ませる。


 昼下がり、学校帰りの細長い坂道は逃げ場を失った水蒸気が吹き出していた。見上げると坂の頂点に立つポストがかすんで見える。坂は急勾配になっていて、登るときはつい前のめりになる。


 今は白い壁の立ち並ぶ住宅街だが、大昔は隣町とを繋ぐ街道になっていて、荷車を坂の下から頂上まで押していく商売があった、という話を小学校の頃、社会科の授業で聞いたことがある。


 気持ちは分かる、と翔太は思う。この坂を重い荷物を持って登る負担が軽減されるならば、一万円払っても安い。


 焦げ付くような光が翔太に降り注ぐ。短く刈った髪は汗を止める防波堤とはならず、衣替えが終わったばかりの白いカッターシャツが細身で小柄な体にへばりつく。気持ち悪い。苛立ち、つり上がった目付きが更に悪くなる。


 胸元を扇ぎながら、道の両端に並ぶ家々を見て翔太は舌打ちする。どこの家もクーラーの室外機が勢いよく回っていた。家の中を涼しくする代償に熱気が屋外へと吐き出され、道を歩く者へと容赦なく覆い被さる。


「今からクーラー付けるなよ」

 翔太は忌々しそうに呟く。

「まだ六月だぞ」


 相変わらず日差しは強い。室外機のモーター音がやけに耳障りだった。ふと、何処までも続く坂道の両端から翔太に向かって熱風を吹きかける室外機の群れを想像し、頬を汗が幾筋も流れた。家に戻って押し入れから扇風機を引っ張り出すことに決め、空き缶をゴミ箱に捨てた。


「あの、ごめんなさい」


 後ろから呼びかけられて翔太は振り向いた。いつの間に来たのだろう。細長い眼鏡をかけたお婆さんが立っていた。髪の先を紫色に染め、白い長袖のシャツに黒いスカート、白い日傘を差して翔太に向かって微笑んでいる。目尻や口元に皺が刻まれているが肌はまだまだ白く艶やかだ。若い頃は相当の美人だったのかも知れない。この辺では見かけない顔だ。


「ちょっと両替して欲しいの。いいかしら?」


 お婆さんは綺麗な声で言った。ああ、そういうことか。自販機の存在を思いながら翔太は頷く。お婆さんは有り難う、と一万円札を出した。


「これで大丈夫かしら」

「それはちょっと」

 翔太は手を振った。財布の中身は千百三十七円しかない。


「この自販機は昔のやつですから、硬貨しか使えませんけど。もう少し坂を登ったところに千円札も使える奴が」


「今、大きいのしかないのよ」

 お婆さんは眉根を寄せた。

「ねえ、この辺りで両替出来そうなお店ないかしら」

「坂の上か下まで行けばありますけど」


 二人の立っている場所はちょうど坂の真ん中で、道の両端には商店は一軒もない。所々横道が伸びているものの全て住宅地に繋がっている。しかもこの辺りは同じ作りの家が何棟も建っていて、慣れていないと同じ場所をぐるぐる回っている感覚に陥る。初めての人は必ずと言ってよいほど迷う。


「えーと、一番近いところだったら、坂の下まで降りて左に曲がって三軒目にコンビニがあります。そこまでいけば」


「私もう疲れちゃって」

 お婆さんはその場にしゃがみ込んでしまった。その仕草が妙に幼く見えた。年を取ると子供に返るというのは本当なのかな、と翔太は思った。


「あ、そうだ」

 何か思いついたらしく、急に立ち上がって手を叩いた。


「あなた、小銭は持ってるのよね。だったら交換しない? 私の持ち物とあなたのお金」

「持ち物、ですか?」


 翔太は矯めつ眇めつお婆さんを見る。持ち物といったら日傘くらいだが、フリルのついた日傘なんて貰っても、翔太が使うには恥ずかしい。


「ジュースって確か百三十円よね。そのくらいに見合う持ち物と言ったら、そうね、『嘘』なんてどうかしら」

「嘘?」

「そう嘘」

 お婆さんは頷いた。


「私ね。色々な力を持っているの。どんな重い物でも持ち上げるとか、一瞬で望む場所に辿り着くとかね。まあ魔法みたいなものだと思ってちょうだいな」

「………」

「その中の一つに『他人に好きな嘘をつかせる』力というのがあってね。その力をあなたにあげるわ。けど、この力には使える回数が決まってるの。残りは、確か五回。それくらいならちょうど良いわね」


 話が急に胡散臭くなった。やばい人に関わってしまった、とわずかに後ずさりする。

 魔法などと今時、幼稚園児だって騙されない。いくら学年で一二を争うチビだからといってもそこまで舐められる筋合いはない。ふざけてるのか。怒るべきか、それともこれ以上深入りする前に走って逃げるべきか。もしかして惚けてるのかも知れない。自分を魔女とでも思いこんでるのかも。電話番号聞き出すなりしてお家の人呼び出した方がいいのか。


「どう? 駄目かしら」

 対応を思案していると、お婆さんが不安そうに訊いた。冗談を言っているような顔には見えない。


 翔太は救いを求めるように目を泳がせる。どうしよう。お婆さんは気まずそうに翔太の返事を待っている。その頬を汗が流れた。汗は顎の先にたまって雫となり、アスファルトの上に滴り落ちた。皺だらけの喉が小さく動く。


「あ」翔太は声を上げる。惚けているのか、からかっているのか分からないが、確実なことが一つある。このお婆さんは喉が渇いている。


 翔太は自販機に百三十円を入れるとお婆さんに言った。


「あの、緑茶でいいですか」

 この暑さだ。お年寄りには堪えるだろう。日傘は蒸し暑さまで防いではくれない。これも何かの縁だ。お金ならあることだし、見ず知らずのお婆さんにジュースの一本くらい奢ってあげるのもたまにはいいだろう。百三十円で『他人に嘘をつかせる能力』を買った、なんて話のネタにはなるだろう。


「あら有り難う」お婆さんは笑顔で言った。

「ウーロン茶でお願い」


 翔太が冷えたウーロン茶を手渡すとお婆さんは凄い勢いで飲んでいく。


「美味しかったわ。ただのお茶がこんなに美味しかったのは何年ぶりかしら」

 ウーロン茶を飲み終えるとお婆さんはハンカチで口元を拭く。翔太は空き缶を受け取り、ゴミ箱に捨てた。


「ありがとう。あなた、優しいのね」

「そんなことありません」

 翔太はきっぱりと言った。


 本当に優しかったらあれこれ悩まず、すぐにお茶を奢っていただろう。それどころか心の中で惚け老人扱いまでしていたのだから。ただの偽善だ。


「それじゃ、俺はこれで」

「ちょっと待って。まだ『嘘』を渡してないわ」

「いいですよ。その、たった百三十円ですし、奢ります」

「駄目よ。若い人に奢って貰うなんて。それに交換の約束ですもの、ちゃんと払うわ」

「いえ、結構です。俺急いでますから」


 用は済んだし、あまり関わりにならない方が良さそうだ。このお婆さん、足腰はしっかりしているようだし、頭の方はちょっと問題ありそうだが家に戻るには充分だろう。


「ああ、あなた疑ってるのね。無理もないわね。なら、見せてあげましょうか」


 お婆さんはそう言ってまっすぐ翔太を見つめる。黒目の大きな瞳が翔太の怯えた顔を映している。翔太は逃げ出したかった。けれども足は地面に貼り付いたように動かない。お婆さんは言った。


「ねえ、あなた、女の子?」


 やっぱり惚けてたのか、と翔太はむかっ腹が立つのを感じた。今まで誰と喋っているつもりだったのだろう。女に見られたことなんて、せいぜい幼稚園に入る前までだ。声だって変声期を過ぎて低い。目だけでなく耳も悪いのかもしれない。

 翔太は答えた。


「そうですよ。胸も張ってお尻もおっきな、ぴっちぴちの女の子です」

 翔太は慌てて自分の口を塞いだ。自分は今何を口走ったのだろう。こんなこと全く言うつもりはなかったのに。なのに、口が舌が喉が、勝手に言葉を紡いでいた。


「あらあら、可愛らしいお嬢さんね」

 お婆さんは口に手を当てて笑った。


「使い方は簡単。嘘を言わせたい相手を見つめて、『嘘・嘘・嘘』と心の中で三回繰り返すの。そうすれば相手は必ず嘘をつくわ。あと、三回繰り返した後に念じれば、あなたの好きな嘘をつかせる事も出来るわよ。嘘を付かせることが出来るのは一人につき一回だけ。残りはあと五回。あ、今使っちゃったから四回ね。ごめんなさい」


 全く悪びれた風もなくお婆さんは微笑する。


「何か、半端な数字ですね。五回とか四回とか」

「私が大分使っちゃったから。余り物の能力なのよ、これ」

 翔太は母が財布に入れているテレホンカードを思い出した。


 お婆さんは日傘を折りたたみ、口を塞いだままの翔太の両手を強引に降ろすと、その両肩を掴んだ。


「口を開けて」

「はい」


 従うつもりなどなかったのに、言われるまま口を開けてしまう。お婆さんは翔太を引き寄せると耳元で動かないで、と囁いた。そして、左の人差し指を翔太の口の中に突っ込んだ。翔太は叫ぼうとしたが悲鳴どころか声すら出なかった。喉の奥が石にでもなってしまったかのように何の音も発しなくなっていた。喉だけではない。全身が、舌先から足の指先にいたるまで微動だにしない。しわだらけの指先が翔太の舌に触れる。細い指先が舌の腹を撫で回す感覚に、気持ちの悪い汗が吹き出す。お婆さんが何事か呟いた。呪文のようだったが、よく聞き取れなかった。


「これでいいわ」

 お婆さんは翔太から身を離し、指先をハンカチで丁寧に拭くと再び日傘を広げた。同時に翔太の硬直も解け、二三歩後ずさり自販機にぶつかる。


「それじゃあね」


 お婆さんは坂を登るとすぐ横の路地に入っていった。翔太は茫然と見送った。言いたい事や訊きたい事は山ほどあったが追いかける気にはなれなかった。



「藤川、帰りカラオケ行かねえか」

 昼休み、翔太の席までクラスメートの石田が話しかけてきた。


「駅前に新しいカラオケボックス出来たんだって」

 石田の隣にいた牧野春香が補足する。


「早速今日みんなで行こうってことになったんだ。私と美智子と石田君。それでね、あの、どうかな? 藤川君」同じクラスの友人の名前を挙げて、恐る恐る訊く。茶色がかった大きな瞳を揺らし、翔太よりも頭半分ほど小柄な体つきを硬くして翔太の顔色を窺う。


 翔太はしばし迷ったが手を振った。

「ごめん、今金ないんだ。だからパス」

「あ、そうなんだ。ごめんね。無理言って、気にしないで」

 春香は両手を振った。その勢いで肩まで伸びた髪がさらりと揺れる。


「誘ってくれて有り難う、牧野さん。ほかの奴誘ってみたらどうかな? 渡辺とか暇そうだし」

「そうだね」春香は曖昧に相槌を打って俯いた。


「マジかよ、本当に金ねえのか」石田が訊く。

「使った」

「何に?」

「株式投資」

「嘘付け」

 石田に肘で小突かれる。


 不思議なお婆さんが去った後、翔太は家まで走って帰るとすぐに洗面所に飛び込み、何回もうがいをした後、鏡で口の中を覗き込んだ。舌にも歯や歯茎も全く変化はない。舌先を口内中這わせてみたがこれといって違和感もない。


 念のため、手鏡を二枚使って、歯医者のように歯茎の裏も見てみたが右下の奥に虫歯を発見した以外、異常は見られなかった。


 食事も普通に出来るし、夕食のカレーもちゃんと味がした。こうなるとお婆さんなど存在せず、暑さにやられた翔太の頭が作り出した幻覚だったのではないかと疑いたくなる。だが、あのお婆さんの指が舌を撫で回した感覚は本物だったし、何より、翔太の財布から百三十円が余分に消えている。


 こうなると「相手に嘘をつかせる能力」を試してみたくなるのが人情だ。けれど迂闊に使う訳にはいかない。使用回数はたった四回だ。慎重にいきたい。そう考えていると今度は使いどころが見つからない。そう考えているうちに一週間が過ぎた。


 そもそも、人に嘘をつかせて何の得があるのだろう。翔太は色々考えた挙げ句、学校一のプレイボーイである真鍋に七股をカミングアウトさせるくらいしか思いつかない。貧困な想像力に落ち込む。


「いや、今日は予定入ってるんだよ。それでさ」

「予定って何だよ」

「ヨーロッパ各国首脳との地球温暖化防止のための国際会議」

「どんだけ責任重大だよお前の双肩!」

 石田はまた突っ込んだ。その隣で春香もくすくす笑っている。


 自分が付くのは簡単なんだけどな、と翔太は心の中で苦笑した。


 坂道での一件を翔太は誰にも話していない。あのお婆さんの力は、身をもって証明済みだが、『本物の』魔法使いにあって魔法を貰いました、なんて話のネタになる訳がない。


 十中八九バカにされるか病院行きを宣告される。仮に『本物』の能力を使ってみせたとしても物珍しがられるか、気味悪がられるだろう。いずれにせよ、ろくなことにはならない。


「おーい、藤川」

 教室の外から女の声がした。返事をするより早く女は教室に入り、翔太の席に向かって来る。黒々とした瞳に高い鼻梁、口紅の映える薄い唇、細く柔らかそうな腰に、そこまで伸びた黒髪は跳ねも癖もなく瑞々しい艶を放っている。短いスカートをひらめかせ、すらりとした脚が机の前に止まる。隣のクラスの北村沙希子だった。


 沙希子は春香に一瞥をくれると冷ややかに鼻を鳴らす。そして翔太に目線を向けると傲然と言い放った。


「国語の教科書忘れてさ。貸せ」

「いきなり命令形か。断る」

「はあ? 言っておくけどおめーに選択肢はねえからそのつもりで」

「隣の席の奴に見せて貰えばいいだろ」


「マジ勘弁してよ。あいつ、メガネでデブでオタでキモイんだよ。この前学校に女の人形とか持って来ててさ。リカちゃん人形みたいな奴。持ち物検査で没収されて泣いてんだよ。ウゼエったらありゃしねえ」

 沙希子が大袈裟に眉をひそめる。


「ほかの奴に頼め」

「今日国語あんのはウチとここだけなんだよ。つー訳だから貸します、貸す、貸す時、貸せば、貸せ」

「誰が活用形使って段階踏めって言ったよ、嫌だ」


「あ、良かったら俺が貸そうか」

 石田が脇から言う。愛想のよい笑顔を振りまいているが、その目が一瞬、沙希子の胸の膨らみに注がれたのを翔太は見逃さなかった。


「やめとけ」翔太は頬杖つきながら言った。「他人の教科書にエロ落書きしたり卑弥呼や聖徳太子の鼻毛伸ばして額に肉、って書くような奴だぞ。まず無事に戻って来ない」

 翔太は手で追い払う仕草をする。


「去れ。魔王! 俺は悪の手から宮沢賢治や川端康成を守り抜くぞ」

「あっそ。なら私の命令に逆らった罪で罰金一万円、嫌なら島流し」

「どこの犬将軍だよ、そんな金はねえよ」


「いいじゃん。知ってんだぞ。おめー、おとつい親戚の叔父さんからたっぷり小遣い貰ったんだろ」

「え」息を飲む気配が伝わる。振り向くと、春香が居心地悪そうに俯くのが見えた。


 翔太は頭を掻き、取り繕った笑みを浮かべて春香に目を向ける。春香は無言で顔を背けた。気まずい空気が流れる。


「おめーのオバサンから聞いたんだよ。藤川、ネタは割れてんだ。とっとと払えよ」

 沙希子の明るい声が割って入る。


「あのな北村」

 翔太は沙希子に向き直る。

「今お前の相手している暇はないんだ」


「暇がなけりゃ作ればいいじゃん」

 マリー・アントワネットのような無知と傲慢さだ。

「だいたい、おめーが忙しい訳ねーだろ。帰宅部で帰ってもゲームばっかしてる奴が」

「お前も帰宅部だろうが」

「私は忙しいんだよ。猫でも猿でも藤川でも手を借りたいくらい」


「ふざけんな。どうせ下らねえ買い物だろうが。お前の荷物持ちなんてうんざりだ」

「いいじゃんか。金欠なんだよ。恵まれない子供に愛の手を」


 お前が恵まれていないのは脳みそだけだろうが。

 翔太がそう言おうとした時、五時間目の予鈴が鳴った。


「あ、やべ。もうこんな時間かよ。じゃあな」

「待てよ」自分の教室に戻りかけた沙希子を呼び止めると、翔太は机の中の物を手探りで掴む。振り返った沙希子の胸元目がけてそれを放り投げた。沙希子は両手を伸ばし、掬い上げるようにして現代国語の教科書を受け止めた。


「お前何しに来たんだよ」翔太は呆れた口調で言った。「落書きすんじゃねえぞ」


「おう、サンキュー藤川」言ってから沙希子がにやりと笑う。「今度は太宰治に米って書いとく」

 翔太が抗議の声をかけるより早く、沙希子は身を翻して自分の教室へ戻っていった。


「あの馬鹿。後で弁償させてやる」

「北村さんと藤川君って仲いいよね」春香がぽつりと言った。

「冗談だろ」


「けど、藤川君凄く楽しそうだったし、それに、ほかの女の子にああいう口の利き方しないから」

「誤解だって牧野さん。北村に人並みの対応してやる必要ねえだけ」

 それに、あいつもう彼氏いるし。


 しかも相手はあの真鍋だ。真鍋鉄也は翔太たちの一つ上で、浅黒い肌に背は高い。細身だが体格はがっしりしている。軽音部に所属しており担当はベース。学校外でもバンド組んでいて、月に一、二回髪を紫色に染めてライブハウスで演奏している。沙希子ともそこで知り合ったらしい。


 鉄也は芸能人に知り合いがいる、とか服はブランド物だとか、お揃いのネックレス買ったとか、スマホも同じのにした、とか聞きたくもないことを沙希子から聞かされたことがある。


 先週の日曜日に腕組んで歩いているのを見かけたからまだ続いているようだ。昔から沙希子はよくもてた。クラスの男子はもとより余所の高校の生徒からも告白された。担任の先生とも付き合っていたという噂まである。ただ、最初は見た目に騙された連中も沙希子の口の悪さとわがままにうんざりしてしまうらしく、どれも長続きしていない。


 沙希子に交際を申し込む男は後を絶たない。その結果、男遊びの激しい奴というイメージが学校中に定着してしまい、一部の女子からナメクジかゴキブリのように嫌われている。沙希子も一向に気にせず、我が道を行くものだからますます嫌われる。処置なしだ。


 とはいえ翔太に非難する権利はない。中学三年から今まで三人の女の子と付き合ったがどれも三ヶ月続かなかった。最後の子とはつい先月別れたばかりだ。


「あいつとは付き合ってるとかじゃ全然ないんだ。あいつにも言ったけど本当に今日忙しいんだ。その、個人的なことだから言いたくなくて。それで、だからその適当な言い訳作って。牧野さんたちと行くのが嫌だって訳じゃないんだ、ゴメン」


「ううん、気にしないで」春香は慌てた様子で手を振った。「そういうことならしょうがないよ。気にしないで」

「また埋め合わせするから」

「なら、今埋め合わせして貰おうか」


 春香の背後で男の声がした。見ると、灰色のスーツを着た中年の男が額に太い筋が浮かべ、ずり落ちた細い眼鏡を指先で直していた。英語担当の矢島だった。


「予鈴が聞こえなかったのか牧野。いつまで立ち話してるんだ」

「済みません先生」春香は頭を下げた。


「もう授業は始まってるぞ、立っているのはお前だけだ」

 いつの間にか石田は自分の席に戻っている。あの裏切り者、と翔太は睨んだ。


「で、お前のせいで削られた授業時間はどうやって埋め合わせしてくれるんだ? お前が代わりに授業してくれるのか」

「あ、その」

「俺の授業がそんなに気に入らないのか?」

「いえ、そんなことありません」春香の声が小さくなっていく。


「お前進学だったよなあ」

 矢島は持っていた教科書で春香の頭を軽く叩いた。

「英語の内申、楽しみにしとけよ」

「そんな!」

「何が『そんな』、だ。お前いい気になってるんじゃないのか。なんだ、その口紅の色は。ガキが一丁前に色気づきやがって」

 春香の目に涙が盛り上がる。


 翔太は鼻白んだ。そこまで言うことないだろう。春香に悪意はない。早く自分の席に戻れ、の一言で済む話だ。意図的に絡んでいるとしか思えない。


 そこまで考えた時、この前石田が喋っていた噂話を思い出した。矢島は奥さんに浮気がばれて別居中、娘はぐれて今暴走族入ってるという。生活態度がどうとか説教しといて自分の家庭は目茶目茶なんだぜと、喜々として語っていた。


「先生」翔太は立ち上がった。「牧野さんは俺と喋ってました。俺が話しかけて俺が引き留めてました。だから責任は俺にあります。叱るなら俺にして下さい」


「座れ藤川」矢島が怒鳴った。「お前には聞いてない」


「なら早く授業を始めて下さい。下らないことをちくちくと。これこそ、時間の無駄です」

「正義の味方のつもりか。お前、はっ。そうか。牧野に気があるのか」


 矢島の言葉に春香がはっと顔を背ける。翔太の胸に濁流のような怒りが渦巻く。

 殴ってやろうか。

 手が拳を作る。けど、それでは自分の気が晴れるだけで、春香を救ったことにはならない。むしろ状況を悪化させるだけだ。


 そういえば、と翔太は思考を巡らせる。


 嘘をつかせる能力を試すには一つの前提がいる。つまり、その発言が確実に『本人の意思によるものではない』ということだ。人間は嘘をつく生き物だ。ネッシーを見た、なんて荒唐無稽なものから、『俺芸能人と付き合ったことがあるんだぜ』という見栄に浮気の否認、果ては殺人のアリバイなんて切羽詰まったものまで、どんな突飛な嘘でもついてしまう。なら、どうすれば能力を実証できるか。


 翔太は矢島に歩み寄り、射抜くような視線を向ける。殴られると思ったのだろう。矢島は両手を前に突き出し、一歩後ろによろめく。


「何のつもりだ藤川。退学になりたいのか」

「先生」翔太は心の中で唱える。嘘・嘘・嘘。

「奥さんと仲いいですか?」


 矢島の顔がみるみる赤くなった。唇を震わせ、怒りと敵意の籠もった目で翔太を見ている。教室のあちこちから笑い声が聞こえる。あの噂は結構広まっているらしい。矢島の唇が動いた。


「ああそうだ。あれはおとついの晩のことだった。私が学校から帰る途中、東の空にオレンジ色に光る物体が浮いているのが見えた。私は写真を撮ろうと鞄からカメラを取り出しファインダーを空に向けた。その途端、物体はもの凄いスピードで西の空へと消えていった。あれは間違いなくUFOだ!」


 矢島の顔が強ばる。自分の発言が信じられず、驚き慌てふためいているようだ。春香もクラスのみんなも茫然と矢島を見ている。

 やっぱりこの力、本当だったんだ。

 翔太は改めて驚いた。


 どんな理由にしろ嘘を言うのはそれが必要だからだ。必要のない嘘はまず言わない。まして関係のない嘘は。もし矢島の意志ならあの場合「良いに決まってる」もしくは「お前には関係ない」と言う筈だ。全く関係のない未確認飛行物体との遭遇した話などまず出てこない。


 矢島はまだ喋り続けている。顔が赤い。間断なく話しているので呼吸もままならないようだ。何だか可哀想になってきた。そろそろいいか。けど、これどうやったら止まるんだろう。止まれと念じればいいのかな。その前に。


「済まなかったな牧野。言い過ぎた」

 矢島にそれだけ言わせるのを忘れなかった。嘘、と言うところが何とも腹立たしいが。


 翔太が念じた途端に矢島の言葉が止まる。体を折り曲げ、ぜえぜえと喉を鳴らす。呼吸が荒い。


「じ、自習にする」

 矢島はそれだけ言うと口を押さえ、まろびながら教室を飛び出した。クラス中がざわめく。矢島の異変に戸惑っているようだ。暑さにやられた、病気、ヒステリー、翔太にびびった、様々な憶測が飛び交う。


「自習だって牧野さん」翔太は立ちつくしている春香に呼びかける。「早く座ったら?」

「う、うん」春香は頷き、小動物のような足取りで自分の席に戻っていった。


 思わぬ所で能力を一回使う羽目になってしまった。これで残り三回。能力が本物と分かったのは収穫だった。矢島なんかに使ってしまったのは勿体ない気もするが、まあ仕方ない。自分がしてあげられるのはこれくらいだ、と翔太は一月前に別れた恋人の席を見つめた。





 能力を使ったことで何か変化があるかも知れない。翔太は念のため家に戻ってから口の中を調べたが、特に異常はなかった。服を脱いで全身、姿見に映してみたが変化はなく、杞憂かと胸を撫で下ろす。


 ともあれ能力が本物と分かった以上、迂闊には使えない。残り三回を大切に使わないと。そうなると今度は使い方が問題だ。どうすればこの能力を有効に使えるか、そんなことをぼんやり考えていたその日の晩、自分の部屋でくつろいでいた翔太のスマホが鳴った。翔太はベッドから起きあがると読んでいたグラビア雑誌を置き、スマホを取る。


「ああ、私」沙希子の声だ。「ちょっとさあ、金貸してくんない」

 いきなりか。

「いくら?」

「二十万」


 翔太は無言で通話を切った。ついでに電源を切り、充電器に繋ぐ。そしてヘッドホンを耳に当て、ラジカセにCDを入れる。女性の低い声が穏やかなバラードを紡ぐ。目を閉じて聞き入っていると、春の海のような穏やかな眠りが翔太を包み込む。今夜はよく眠れそうだ。


「てめえふざけんなよ! いきなり電話切ってんじゃねーよ! 殺すぞボケ!」

「何に使う気だ」


 沙希子は自宅の電話に切り替える作戦に出た。両親は仕事で不在のため、ベルが鳴り続けること五分、根負けした翔太は受話器の奥から聞こえる文句を適当に聞き流しながら用途を訊いた。


「来週さあ、鉄也の誕生日なんだよね。それでさ、指輪欲しいっていってんだよ。シルバーのやつ」

 男の癖に指輪かよ。翔太は心の中でぼやいた。チャラチャラしやがって。


「露天で売ってるだろ。もっと安いの」

「そういうんじゃなくてさ。渋谷ですっげー格好いいの売ってる店見つけたんだって。私も見たんだけどさ。結構良いんだよね。鉄也に似合いそうでさ」

 知らねえよ、とやはり心の中で吐き捨てる。


「お前の彼氏だろ? お前が金出して買ってやればいいだろうが」

「あったら藤川に電話してねえって。今、金ねえんだよ。ダチに電話してもみんな金ねえって言ってるし。おめえだったら持ってるかなって。金貰ってもどうせまだ使ってねえだろうし」

「………」

「頼むよ。十五万、いや十万でもいいからさ」


「バイトして稼げ」

 翔太はきっぱりと言った。


「だから、来週だって言ってるだろ。二十万なんて無理だって。それとも何か。売春ウリでもやれっての?」

「そんなこと言ってないだろ。プレゼントなら別のにしろよ。そんな高いのじゃなくてさ」

「例えば?」

「手作りのケーキとかクッキーとか」


 がさつな態度や言葉遣いと裏腹に、沙希子は料理が上手い。母親が料理学校の教師をしており、子供の頃はかなり仕込まれていた。お菓子なんかも上手に作る。特にチーズケーキは絶品で、そこらの店で売ってるのよりはるかに美味しい。


「馬鹿じゃねえの?」

 受話器の奥から鼻で笑う気配が伝わってくる。

「そんなんで喜ぶのは童貞クンくらいだって」

 そこまで言うか。


「分からないだろそんなの。絶対その指輪じゃなきゃ駄目って訳でもないんだろ。お前の気持ち籠もってる物なら喜ぶはずだって。というか、料理作ったことないのか。その、真鍋先輩に」


「ねえよ。鉄也はそういうダサイの喜ばないんだよ。ほらあるじゃん。クリスマスに手編みのセーター渡すっていうの。ああいうの押しつけがましいっていうか、愛情より怨念籠もってそうだから嫌いなんだってさ」

「………」

「だから金いるんだよ。後で必ず返すからさ。今度は絶対、な?」

「嫌だって言ってるだろ。プレゼントは別のにしろ。それでごちゃごちゃ言ってくるような奴ならさっさと別れろ。その方がお前のためだ」


 段々と語気が荒くなっていく。指輪を渡せないから駄目だ、なんて言う奴ならそいつは彼氏じゃない。本気で沙希子の事が好きじゃない。


「何でおめえにそんなこと言われなきゃならねえんだよ」

 沙希子の声も刺々しくなる。

「私の彼氏の事でがたがた言われたくないね」

「けどな、沙希子」

「気安く呼ぶなって言ってんだろうが!」

 沙希子は叫んだ。


「いつからおめえは私の彼氏になったんだよ。幼稚園のガキじゃあるまいし。呼び捨てにすんじゃねえよ!」

「悪い」

 頭に昇っていた血が一気に冷めていく。


「昔っからそうだよねアンタってさ。偉そうに。いっつも一人だけ良い子ぶりやがって。はっきり言ってウザイんだよそういうの」

「ごめん」

 翔太はもう一度謝った。


「いいよもう、おめえには頼まねえ。ほか当たる」

「いや、けどな」

「うるせ、馬鹿、消えろ!」


 唐突に通話が切れた。無機質な音が翔太の耳に空しく響いた。翔太は受話器を置き、自分の部屋に戻るとそのまま、ベッドに倒れ込んだ。電話が掛かってくる前まで読んでいたグラビア雑誌が視界に入ったが、手に取る気にはならなかった。


 呼び捨てにするな、か。


 一体、いつの間に名前も呼び合えないほど距離を置くようになったのだろう。昔は違った。幼稚園では毎日泥だらけになって遊んだし、小学校の低学年まで手を繋いで登校していた。それが小学校も高学年に入ると何となく女の子と遊ぶのが気恥ずかしくなった。体つきの違いを意識し始めたのもこの頃だ。日に日に沙希子の体が丸みを帯びていくのが眩しかった。沙希子と駆けっこしても毎回翔太が勝つようになった。


 沙希子もクラスの女子とつるむことが多くなった。それに、翔太自身もクラスの男子とサッカーやテレビゲームで盛り上がる方が楽しくなっていた。

 中学に入ってもそれは続き、そして戻らなかった。


 彼氏彼女なんてものが同学年や先輩後輩の間で作られるようになった頃、沙希子は背の高いバスケ部の上級生とつきあい始めた。沙希子の顔つきも体も大人っぽくなっていた。派手な露出の多い服を着こなしているときは高校生にも間違われた。背も高くなり、成長の止まった翔太の身長を既に追い越している。


 沙希子とその上級生、誰の目にもお似合いだった。

 沙希子は彼氏とのデートを報告してきた。翔太は表情を取り繕って言った。


「良かったな北村」

 ところが三ヶ月と経たないうちに沙希子は恋人と別れた。沙希子がバスケ大会の当日に呼び出し、大会で応援するのが面倒だからバスケ部辞めろと迫ったのが原因だった。わがままにも程がある、と翔太はこんこんと説教した。折角あんないい人と付き合っているのだ。お前には勿体ないくらいだ。今からも遅くない、謝ってよりを戻すべきだ。沙希子は激怒した。


「うるせえ! いちいち私の彼氏のことで藤川に指図される筋合いなんてねえんだよ。保護者ヅラして出しゃばるんじゃねえよ!」


 結局そのままその上級生とは別れ、別の男子と引っ付いた。今度は同じ学年でも五本の指のはいる秀才だった。すぐに別れた。そしてまた別の男と付き合い出す。そんなことが繰り返されるうちに、沙希子のことを極力考えないようにした。考えすぎることは害悪しかもたらさない。それが翔太の結論だった。


 別の学校を受験すると聞いていたのに、翔太が合格した高校の入学式に沙希子の顔があった。相変わらず男を取っ替え引っ替えしていたが中学の頃とは違い、沙希子は翔太によく話しかけて来るようになった。


 大半が教科書忘れた、金を貸してくれ、買い物行くから付き合え、どうでもいい雑用ばかりだった。そんな下らないことでも心の何処かで嬉しがっている自分が嫌だった。断り切れない性格が疎ましかった。


 馬鹿らしい。何で俺があいつの彼氏へのプレゼントの金用意しなくちゃならないんだ。しかも二十万円も。ふざけるな。金がない、と言ったのは本当だ。確かにこの前叔父さんから小遣いを貰ったが、手持ちの金を合わせても六万円とちょっと。十四万円も足りない。


 翔太の両親は小遣いの前借りを許さない主義だし、アルバイトも沙希子と同じ理由で無理だ。金貸してくれる友人はいる。石田あたりなら貸してくれそうだが、沙希子のことでそこまで迷惑かけていいものか。それに石田は沙希子に気があるようだ。彼氏へのプレゼント買う金なんて貸してくれるとは思えない。


 こうなったら貯金を下ろすしかないか。通帳はどこにしまってあったか。

 待て、とそこで浮かしかけた腰が止まる。


 いつの間にか渡すことを前提に考えていたことに気づき、苦笑する。電話口で断った筈なのに。しかも、あれだけ馬鹿にされて、用意するつもりなのか。お人好しも良いところだ。だから、沙希子にもウザイとか言われるのだろう。


 放っておこう。沙希子ならどうにかして金を作るだろうし、出来なければ別の物を渡すだろう。指輪でなくても構わないはずだ。


 いや、違う。


 沙希子は昔から視野が狭く、一つの事に決めたらほかの選択肢が見えなくなる。この前の教科書にしたって、石田のように頼めば見せてくれる奴はほかにもいるだろうに、いつも決まって翔太に借りに来る。以前、英語の教科書を借りに来た時、翔太も忘れていて貸せなかった事がある。


 翔太は別のクラスの友人に借りて無事に済んだが、沙希子はそのまま授業を受け、矢島にこっぴどく叱られた。

 変なところで融通が利かない、というか要領が悪い。今回もプレゼントは指輪と決めたらそれ以外のものをプレゼントする、という選択肢を排除してしまう。


 頑固なんだよな、あいつ。


 ほかを当たる、なんて言っていたがどうせ口からでまかせに決まってる。金が出来なければ沙希子はどうするだろう。消費者金融に手を出すほど馬鹿ではないと思うが。金欲しさに変な勧誘に引っかからないとも限らない。


 翔太は溜息をつくとベッドから身を起こし、机の引き出しからノートを取り出す。シャープペンで書いたり消したりを繰り返しながら今後の対策を練り始めた。


      

 翌日の昼休み、翔太は教室でカツサンドをかじっていた石田に頼んでみた。

「いつから、二十万も貸してくれなんて言う阿呆に成り下がったお前は」

 石田は白い目を向けて首を振った。


「頼むよ。夏休みにバイトして必ず返すから。借用書書いても良い」

「何だか知らないが、必死みたいだな」

「そうなんだ。頼む」

「ムリだな」


 石田はきっぱりと言った。無理もない。石田は今度の夏休みにバイクを購入し、九州まで旅行する計画を立てていた。そのために免許を取り、半年間、放課後にコンビニでバイトしていたのだ。


「お前の苦労も楽しみも承知の上だ。そこを曲げて頼む」

「嫌だね」

 翔太は息を吐いた。こうなることは予測済みだった。


「なら、こうしよう」

 怪訝な顔をする石田の前に、カバンからおもちゃ屋のロゴが入った紙袋を取り出し、袋を開ける。中身は未開封のトランプだった。


「ゲームは簡単。この中からお前が選んだカードを俺が当てる。チャンスは三回。そのうちに当てたら俺の勝ち。全部外したらお前の勝ちだ」


 石田はトランプを手に取り、紙パックのコーヒー牛乳をすすりなから矯めつ眇めつ眺める。ぱこ、と紙パックが内側にへこむ。ストローを口にくわえながら訊いた。


「で、どんないかさま仕込んでるんだ?」

「ねえよそんなもん」

 翔太は大仰に手を振って見せた。


 少なくともそのトランプには何の仕掛けもしていない。それを石田に理解して貰うために、わざわざ新品のトランプを買ってきたのだ。


「そのためにわざわざ学校にこんなもの持ってきたのかお前」


 石田は紙パックを握りつぶし、隅のゴミ箱に放り投げる。潰れた紙パックはゴミ箱の端に跳ね返り、床に転がった。石田が舌打ちする。


「この方が盛り上がるかと思ってな」


 翔太は石田の側を離れ、落ちた紙パックを拾い上げ、ゴミ箱に捨てる。それに、と翔太は心の中で付け加える。石田が確実に答えを知っているゲームでないと意味がない。


「お前なら乗ってくれると思ってさ、頼むよ。金森も吉村も付き合い悪くてよ。それに、ちゃんと金なら用意してある」


 一万円札六枚を机の上に並べて見せる。石田が目を瞠った。


「お前、新しいジャケットとメット欲しいって言っていたよな。これなら、買えるだろ。どうだ?」

 石田は操り人形のように頷いた。

「グッド」翔太は親指を立てる。


 石田にトランプを渡し、封を切って貰う。それからカードを一枚選び、マジックで印を付けた後で、カードを扇のように広げて貰うよう指示した。これなら、石田が正解のカードを見失う心配はない。


「それじゃ、いくぜ」

 一回目、二回目はあっさり外れた。

「畜生」翔太は呻いた。


「何で外れるんだよ。石田、俺のボビーに細工したんじゃねえだろうな」

「してねえよ。それと、トランプに名前付けてるのかお前?」

 石田が呆れたように言った。


「やばい、シャレになんねえ」

 翔太は机に突っ伏し、頭を掻く。


「どうする? 止めとくか」

「冗談。こうなったら一か八かだ。絶対、当ててやるからな」

 語気をわざと荒らげると、石田はついて行けない、という風に首を振った。


 前振りはこのくらいでいいだろう。

 翔太は前のめりになると、カードを指さしながらゆっくりと右から左へと滑らせる。カードに熱中する振りをしながら上目遣いで石田を見やると、心の中で唱える。嘘・嘘・嘘。


 指先が一枚のカードの前を行き過ぎようとした時、石田が言った。

「それは違う」

 その途端、石田の顔から血の気が引く。この前の矢島と似た、自分の発言が信じられないという驚きが表情に出ている。


 翔太はにやりとそのカードを掴み、カードの束から引っこ抜いた。

 カードにはマジックで星形のマークがついていた。


「俺の勝ちだな」

 石田に『正解のカードを否定する』よう嘘をつかせたのだが、うまくいった。これで残りは二回。

 石田は頭を抱え、悔しそうに翔太を見つめた。


「これでツーリングは延期だよ畜生」

 ごめんな、石田。翔太は心の中で謝った。始めからギャンブルとして成立してないゲームに嵌めることになってしまった。今度、宿題見せてやるよ。あと食堂の食事券も奢ってやるから。


「今度は負けねえからな藤川」

「ああ」

 翔太は頷いた。本当、良い奴だよお前は。俺と違って。


 翌日の放課後、沙希子を一階の階段下に呼び出した。階段下には運動会や文化祭の小道具が放置されている。滅多に人は通らない場所だ。遠くから陸上部の掛け声や吹奏楽部の演奏が聞こえる。


 沙希子は約束の時間より遅れてやってきた。その目は何故か緊張に強ばっている。階段下を選んだのは金のやり取りを人に見られるのを嫌ったためだが、妙なことをされると警戒しているのかも知れない。


「ほれ」

 翔太はぶっきらぼうに勝ち取った二十万円を差し出す。沙希子は翔太の手の中のお金に視線を移すと、呆気にとられた顔をした。


「何これ?」

「二十万円。一昨日、電話でいるって言ったじゃねえか」


「は?」沙希子は間の抜けた声を上げた。「でも、そんな金ねえって言ってたじゃん」

「今日入ったんだよ。ほれ、買うんだろ指輪。先輩へのプレゼントに」


 沙希子は受け取らなかった。二十枚の一万円札をまじまじと見つめる。その瞳に怒りと苛立ちの気配が浮かぶ。出来の悪いテストを見せられた母親のように見えた。

 喜々として金を受け取る沙希子を予想していた翔太は訝った。


「どうした? 早く受け取れよ」

「馬鹿じゃないのアンタ」

 沙希子は吐き捨てるように言った。


「普通さ、あり得ないでしょ。二十万だよ、二十万。なにマジで集めてんの。あんなの、ネタだよネタ」腹を抱え、大声で嘲笑する。

「パシリもここまで行くと笑えるね。アンタさ、男のプライドってないの? 何、私が死ねって言ったら死んでくれんの?」

「………」

「すっげえ忠誠心。うわ、ハチ公みたい。ほれ、ワンて鳴いてみろよ」


「いらないのか?」沙希子の言葉を遮って言った。声が震えているのが自分でもよく分かる。表情を能面のように固定し、暴発しそうな衝動をかろうじて堪える。

「いらないのなら、いいや。自分で使うから」

「ちょっと待って。いる。いるから」

 沙希子は素早い手つきで翔太の手からお札を奪い取る。


「ゴメンゴメン。金ないのはマジなんだけどさ。まさか持ってくるなんて思わなかったからつい。サンキュー藤川。必ず返すから、何なら借用書書こうか?」


「いらねえ」

 そんなもの書いてもらったところでどうせ踏み倒されるに決まってる。

「あっそ。それじゃ」


 沙希子は握りしめた二十万円ごと手を振り、去っていった。翔太はその背中を見送りながらくすぶっていた衝動が胸の奥で疼くのを感じた。不意に目に入った壁を思い切り蹴り上げた。鈍い痛みが爪先に響いた。


「だったら、最初から頼むんじゃねえよ」


 何で俺が怒られなければならないんだ。金がいるって言ったのはそっちだろう。訳が分からない。殴ってやればよかった、と思う。そうすれば、こんなに息苦しい思いをすることもなかっただろう。殴って髪の毛引きずり回す。泣いても叫んでも許さない。仰向けにひっくり返ったところにのしかかり、そして………。


 そこで翔太は首を振り、危険な妄想を振り払った。どうせ、俺には無理だ。大きく深呼吸するとポケットに手を突っ込み、背を丸めて歩き出した。



 それから一週間、翔太は沙希子に会っていない。今会えば、何をしでかすか自分でも分からない。それが怖かった。一方、心のどこかでそれを唆す自分もいる。沙希子にしたって痛い目を見るのは嫌だろう。結局、しばらく会わない方がお互いのためだ。


 そう自分に言い聞かせて登下校の時間もいつもよりずらしたし、休み時間も沙希子の教室の前は駆け足で通り過ぎた。また教科書忘れたとやって来るかと思ったが、借りに来る気配はない。


 今日も沙希子に会わなかったことにほっとしながら翔太が教室を出ようとしたところで声を掛けられた。見ると、春香が遠慮がちに微笑みかけている。


「ちょっと、いいかな」


 春香に促されて来たのは校舎と校舎の間にある小さな広場だった。十メートル四方の芝生を取り囲むように、東西南北それぞれに白いベンチが据え付けられている。どのベンチも風雨にさらされ、あちこちペンキが剥げていた。


 広場の上には校舎を繋ぐ連絡通路が通っているため校舎からは死角になっている。昼休みには弁当を食べる生徒でそれなりに賑わうが、放課後になると人気はなくなる。


 運動場は建物を挟んだ反対側にあるため、部活の生徒が通りかかることも滅多にない。翔太はきょろきょろと辺りを見回す。落ち着かなかった。一月半前の光景が脳裏に蘇り、不安がこみ上げる。また、春香を泣かせることになるかも知れない。そう考えると自分への嫌悪感まで黒い澱みとなって全身に広がっていく。


「北村さんのことなんだけど」

 人気がないのを確認してから春香が切り出す。


「あいつの?」予想していなかった話に翔太は面食らった。一瞬呆けたように春香を見つめたが、一週間前の出来事が脳裏をよぎり、ゆっくりと首を振る。


「ごめん。北村の話なら今したくないんだ。だから」

「北村さん、別れたんだって。真鍋先輩と」


 翔太は目を瞠った。何故? 二人はうまくいってるんじゃなかったのか。誕生日のプレゼントに二十万円の指輪まで渡したというのに。


「理由はよく分からないんだけど、浮気したとかとしないとか。それで言い合いになって怒った真鍋先輩が」

「俺には関係ないよ」翔太は冷ややかに言った。今更、あいつが誰と引っ付こうが別れようがどうでもいい。好きにすればいいんだ。どうせ、あいつは俺のことを使い走りか奴隷ぐらいにしか考えてないんだ。


「俺にはもう、あいつが何を考えているのか分からない」

「私は、分かる気がする。北村さんの気持ち」

 翔太は声を上げた。


「北村さん、羨ましいんだよ。藤川君のこと」


 冗談だろ。翔太は心の中で呟いた。背は低いし顔だって十人並みだ。運動神経や勉強なら自分より出来る奴は幾らでもいる。それに引き替え、沙希子は背も高いし顔も良い。運動神経だってそこそこある。頭は悪いがそれを気にした風もない。金なら持ってる奴を口説いて貢がせればいい。そのくらいの器量はある。そんな沙希子が俺の何を羨ましがるって言うんだ。


「藤川君って優しいから」

 春香は懐かしむような声音で言った。


「大抵のワガママは受け入れてくるし。相談事とか、親身に相談に乗ってくれる。口ではどんなに嫌だとか断るとか言っても必ず最後には助けてくれる。こういうの、包容力って言うのかな」


「買いかぶりだよ」

 翔太は首を振った。

「小心者なんだよ俺。嫌われたくないっていうか、誰かを傷つけるのが怖いからいい人ぶってるだけだって」


「だから、私に『別れよう』って言ったの?」

 翔太の胸が激しく疼いた。一番訊かれたくない質問だった。


「あれは」

 翔太は俯き、視線を彷徨わせる。懸命に適切な言葉を探そうとするがうまくいかない。苛立ちが募る。


「その、あれ以上、付き合ってたらもっと牧野さんを傷つけるって思ったからそれで」


「牧野さん、か」

 春香は空を見上げる。それから翔太の方を向き、悲しそうに頬を緩めた。

「もう、春香って呼んでくれないんだね」


「ごめん」

 翔太は頭を下げた。悪いのは自分だ。中途半端な気持ちで付き合い、結局どちらにも決められずに彼女を傷つけてしまった自分だ。


「話、脱線しちゃったね」

 春香はおどけて言った。


「北村さん、藤川君の優しさが羨ましかったんじゃないかなあ。多分、ずっと前から。けど、どう頑張っても藤川君みたいに優しくなれない。強くなれない。羨ましいって気持ちはだんだん嫉妬っていう嫌な気持ちに変わっていって。悔しいからワガママ言って困らせてやろう。けど、いっぱいワガママ言っても、藤川君の優しさは変わらない。欲しくても手が届かない。どうしょうもなくってつい嫌な事言っちゃう。昔話に出てくる、ブドウを欲しがる子狐みたいに。へん、なんだいあんなブドウ、どうせ酸っぱいに決まってるって」


「………」

「本当に藤川君が嫌いなら口も利かないよ。特に女の子は。ただの便利屋さんなら、藤川君じゃなきゃ駄目ってこともないし。北村さんならその気になれば百人ぐらい出来るんじゃないかな」


 百人はちょっと大袈裟かな、と春香は舌を出す。


「けど、あいつ。彼氏のプレゼント買うから金よこせって言って。金渡したら散々嫌味言われるし」

「それは藤川君が悪いよ」

 春香が目を吊り上げる。


「自分に好意を持って欲しい相手が、ほいほいお金持ってきたら私だって怒るよ。『私のことなんかどうでもいいのか!?』って」

 理不尽な、と翔太は思ったが口には出さなかった。


「北村さんがほかの男の子と付き合っているのは多分、格好いい人とか凄い人と付き合うことで、自分も凄いんだぞって思わせたいから、かな。おかしいよね、そんなことしたって自分が凄い人になる訳でもないのに」

「牧野さん、あいつのこと分かるんだ」

「分かるよ。多分、私も同じだから」

「………」

「びっくりした? 私もそのうち藤川君の教科書に落書きしちゃうかも」

 春香が微笑した。つられて翔太も笑った。


「北村さん、先輩と大分揉めたみたい。目に大きな青アザ作ってた。美智子はコントみたいだって笑ってたけど」

「訊いていいかな。どうして俺にそんなことを?」

「理由は二つあります」春香は二本の指を立てる。


「一つは、北村さんの事。藤川君知ってるかなって気になったから。それでつい」

「もう一つは?」

「私自身の気持ちの整理」

 そう言って春香は背を向ける。


「話はそれだけ。ごめんね。長い間、引き留めちゃって」

「牧野さん」

「もう行って。お願いだから」


 春香の声が泣いている。翔太は手を伸ばし、途中でひっこめる。今の自分に出来ることは何もない。翔太は唇を噛んだ。そして、ごめんと小さな背中に囁くと背を向け、春香に告白された場所を後にした。 


 春香を信じない訳ではなかった。それでも自分の目で確かめてみたかった。走って校舎に戻り、沙希子の教室を覗いた。沙希子はまだ残っていた。目の縁にできた青黒いあざを隠そうともせず、クラスメートの女子と喋っていた。不意に沙希子と目が合った。沙希子は一瞬ばつの悪そうな顔をすると視線を逸らし、急用を思い出したから帰るとカバンを抱えて教室を後にした。翔太は黙って見送った。



 夜のライブハウスは歓声に包まれていた。暗闇の中、スポットライトを浴びたギターがソロ演奏を終えると、天井の照明が赤や青や緑に激しく明滅する。


 ステージの真ん中で紫色の髪をしたボーカルがラブソングを歌い出すと、オールスタンディングの客席から女の子の悲鳴とも応援とも付かない声が上がる。あちこちで派手派手しい化粧の女の子が音楽に合わせて体ごと首を振っている。不意に耳元で甲高い絶叫が上がり、翔太は耳を塞いだ。今夜は縞のシャツに黒のジーンズという姿だ。


 駅前から商店街に続くメインストリートを脇道に逸れて歩くこと十五分、迷路のような狭い道を曲がっていくと六階建ての細長い雑居ビルが建っている。エレベーターホールへ続く扉の横に、地下への階段がある。降りていった先は『ヴェルヴェット』という名のライブハウスになっていて夜には地元のインディーズバンドが演奏を披露している。


 今日演奏しているのは『リトル・ディック』、真鍋鉄也がボーカル兼リーダーを務めるバンドである。

 ライブが始まって一時間ほど経過して翔太は頭が痛くなってきた。目はちかちかするし立ちっぱなしで脚がだるい。歌がサビの部分に入り、会場が更に熱気を帯びる中、翔太は大きく欠伸をした。


 こんなバンドのどこがいいんだ?


 素人だから演奏が下手なのはまあ仕方ない。音程が調子外れなのも許そう。だが、ロックを名乗っている癖に歌詞が有名なJポップのパクリばかりなのはどうだろう。しかも盗作した部分がまた恋人同士の甘ったるい部分ばかりだ。あれでは歌詞なのか菓子なのかよく分からない。


 その歌にしてもスピーカーがハウリング起こしまくっているので、聞き取りづらいことこの上ない。はっきり言ってロックに対する冒涜だろう。


 まあいいか、と翔太は思い直す。どうせ歌を聴きに来たわけではないのだから。

 今からやろうとしていることは自分でも下らないと思う。沙希子が喜ぶとは限らない。けれど、まあ慰めくらいにはなるだろう。あんな男、別れて正解だったと。


 何せこれから真鍋鉄也はマザコンでロリコンでマゾで荒縄で縛られるのが三度の飯より好きだとカミングアウトするのだから。ついでに盗撮癖のあるストーカー、というのもいいかもしれない。最初はマゾだけにしておこうかと思ったが、万が一真鍋にその気があったら嘘をつかせることが出来ないのでとりあえず思いつく限りの変態嗜好を並べ立てることにした。


 やりすぎかな、と思わないでもない。ライブには同じ学校の生徒も来ている。真鍋の人気は学校の内外両方で地に堕ちるだろう。けれど、と翔太はステージの真鍋を見る。


 お前は沙希子を殴ったんだ。


 女の顔に青アザ作ったのだ。おまけに沙希子は妙な意地からかアザを隠そうとしない。お陰であいつは学校中に出来損ないのパンダみたいな顔をさらし、クラスの女子からいい気味だ、と嗤われた。馬鹿な奴だろ? けどさ、馬鹿と付き合うにはそれなりの覚悟がいるんだよ。教科書に落書きされたり他人へのプレゼント代に二十万円払わされたりさ。生半可な覚悟じゃ続かない。


 沙希子も恥かいたんだ。だったらアンタも恥かかないと不公平ってもんだろ。


 能力を使うのはライブが最高潮に盛り上がる時、最後の曲が終わったときだ。

 やっぱり、自分は優しくなんかないな。

 マイクを握る手に嵌った銀色の指輪を見つめながら翔太は拳を固めた。


「それじゃ、これが最後の曲だ」


 真鍋が呼びかけると客席から歓声が上がる。どうでもいいMCを聞き流しながら翔太が目に力を込めた時、客席の真ん中辺りからステージに透明なビニール袋が投げ込まれた。


 袋はマイクスタンドに当たり、中身が飛び出す。腐った生卵や野菜屑、蜜柑の切れ端、生ゴミがステージ上に散乱し、もの凄い悪臭を漂わせる。誰かが叫んだ。


 ギターの男が仰け反る。その拍子にギターのアンプを踏みつけて、転倒する。助け起こそうとしたベースの男の顔に再び飛んできたビニール袋がぶつかる。今度の中身は動物の糞だ。悲鳴とともに自分の楽器もろともひっくり返った。


 ライブハウスが混乱に包まれる。真鍋は客席の一点、ビニール袋を投げつけた女を見つけると、マイクをハウリングさせて叫んだ。


「沙希子、てめえ!」

 白いTシャツにデニムパンツの沙希子はへん、と笑いながらビニール袋を投げつける。卵ほどに膨れ上がった袋は、避けた真鍋の背後で割れて、赤いペンキが弾痕のように弾けた。手製のペイント弾だ。


 弾は一発だけではなかった。沙希子はハンドバッグの中から何個も取り出し連続で真鍋に投げつける。流石に避けきれず、真鍋の体は赤や黒や紫に染まった。

 

「そいつを捕まえろ!」

 真鍋が命令する。沙希子は身を翻し、素早い身のこなしで人混みをすり抜けていく。出口まであと三メートルと迫った時、横から飛び出してきたドレッドヘアの男が沙希子の手首を捕らえた。ドレッドヘアの男は力任せに引き寄せると二の腕で沙希子の首を絞める。


 細身ではあるが力こぶの張った筋肉が沙希子の喉元を圧迫する。男はよほど興奮しているのか鼻息が荒く、力を緩める気配はない。沙希子は手にしたハンドバッグで抵抗するがびくともしない。たちまち顔が真っ赤に染まる。


 翔太は雄叫びを上げてドレッドヘアの男の背中に体当たりを浴びせた。男の上体がよろめき、壁に顔を打ち付ける。その隙に逃れた沙希子の手を取り、翔太は出口へと駆け出す。ライブを台無しにされた観客の怒った顔が目の端に映る。背後から気配が迫ってくる。まずい。捕まる。


 翔太は沙希子の背中を押すと振り返り、ステージを睨み付けた。


 翔太の肩を金髪の男が背後から引っ張る。翔太の動きが止まり、たちまち男たちが頭や腕や足を捕まえる。身動きが取れない。真鍋はマイクを握り締め、得意そうに叫んだ。


「待て、お前ら! そいつらを逃がすんだ! 捕まえるんじゃない。放っておけ! いいか、絶対に放せよ!」


 翔太を捕まえた男たちが呆気にとられた顔をする。真鍋も目を丸くしている。信じられない、という顔で自分の喉をさする。


「待つな。今のは本当だ。沙希子もそこのガキも必ず逃がすんだ!」


 男たちの手から力が抜ける。翔太はその隙に男たちの手からすり抜け、ライブハウスの出口を駆け抜けた。地上への階段を駆け上がりながら心の中で呟く。これであと一回。


 地上に出ると沙希子の手を取り、夜の繁華街を走り回る。二人の脇を派手なネオンサインが目まぐるしく通り過ぎていく。明滅に目を細めながら翔太は沙希子の手を握り、息を切らして走り続けた。


「ここまで来ればいいか」


 あちこち逃げ回り、辿り着いたのは駅から離れた薬局の前だった。既に店は閉まっている。翔太は肩で息をしながら辺りを見回す。追いかけてくる気配はない。隣では沙希子は体をくの字に折り曲げ、喉を押さえて咳き込んでいる。喉を絞められた直後に全力疾走したせいだろう。顔色が悪い。


「大丈夫か?」

「いつまで握ってるんだよ」

 沙希子は舌打ちをした。

「手、離せよ」


 そう言って翔太の返事を待たず、自分から振りほどいた。翔太は手のやり場に困り、頭に回してぽりぽりと掻いた。


「で、何で藤川があんなとこに居たんだよ。前に誘ったときには来なかった癖に。まさか、今更ファンになった、なんて言うんじゃねえだろうな」

「それはこっちの台詞だ。どういうつもりだ? あんな真似してただで済むと思ってるのか。下手すりゃ停学だぞ」

「うっせえよ。私の勝手だろうが。こうでもしなきゃ気が済まねえんだよ。あのクソ野郎」

 吐き捨てながら罪もない薬局の壁を蹴りつける。


「浮気されたからか? いくらなんでもやりすぎだろ」

「ちげえよ。そのくらいで生ゴミや犬の糞集めるほど暇じゃねえし」

「じゃあ何だよ」

「あいつさ、私に寝ろって言ったんだよ」

「どこで?」

 寝相が悪いから押し入れで寝ろとでも言われたのか?

 沙希子は目を丸くし、お子様、と鼻で笑う。そして意味の通じるように言い直した。


「だから、鉄也は私にあいつのバンドのメンバー全員とセックスしろって言ったの」


 一瞬、何を言っているのか翔太は理解できなかった。しばし考え、その意味を悟ると、表情を彫像のように凍り付かせた。よほど間抜けな顔に見えたのだろう。沙希子は皮肉な笑みを浮かべて言った。


「誕生日さ、あいつの家でやったんだよ。マンションの三階。家には私とあいつとバンドのメンバー四人とだけでさ。私がほかの奴は、って訊いたら仲の良い奴だけでやるとか言ってさ。最初は良かったんだよ。指輪も喜んでくれたし、いい感じに酒も入って。ほかの奴とも馬鹿話で盛り上がって」


 一時間も経つと缶ビールを何本も空け、すっかり酔いが回っていた。気分が高揚し、訳もなく高笑いする。


「そろそろいいだろ?」ギターの男が真鍋に訊いた。

「早くしようぜ。待ち切れねえって」そう言ってドラムの男が缶ビールを飲み干す。

 仕方ないなと、真鍋は沙希子の肩を抱き、耳元で囁いた。

「沙希子、こいつらとやってやれよ」

「何を?」

「セックス」

 沙希子は一気に酔いが醒めた。


「いつものことなんだとよ。あいつら、てめえの女取っ替え引っ替えしたり、全員で輪姦まわしてんだと。ふざけやがって」


 無論、沙希子は拒絶した。すると真鍋は立ち上がり、こめかみをひくつかせて沙希子を殴り飛ばした。そのまま転倒した沙希子にのし掛かり、キャミソールを引きちぎった。周りでにやついた笑み浮かべている。力ずくで犯そうとした。


 沙希子は必死で抵抗した。金切り声を上げ、時計やガラスのコップ、枕にDVDソフト、目に付いた物、手に取ったもの全て真鍋たちに投げつけた。凄まじい物音に誰かが通報したのだろう。パトカーのサイレンが聞こえてきた。真鍋たちがひるんだ隙にベランダから飛び降りた。幸い、下は植え込みだったので怪我をせずに済んだ。


「結局指輪も盗られたままだし。あーあ、最低だ畜生」

「待てよ。それって犯罪じゃねえか。何で学校とか警察に言わなかったんだよ?」 

「あのな、あいつと私は付き合ってたんだぞ。『冗談だった』って言えばそれで終わりじゃねえか。あの場にいたのは私とあいつらしかいなかったんだから」


 事実、別れた理由も真鍋が適当にでっち上げたみたいだし、と沙希子は忌々しそうに付け加える。


「だからってもっとやり方ってもんがあるだろう。生ゴミ投げつけてどうする。仕返しされるに決まってるだろうが。もっと冷静に考えろ馬鹿」

「おめーはその場に居なかったから、そんな事言えるんだよ。私がどんだけ悔しいか、おめーには分かんねえんだよ!」

「分かる」

「嘘付け」


「マジだって。少なくとも」

 翔太はそこで言葉を区切る。

「俺がその場にいたらそんな真似させなかった」

「どうだか」

「信用ねえなおい」

 翔太は苦笑した。

「まあいいさ。早いところ帰ろうぜ」


 駅は見張られてる可能性が高い。ファミレスかカラオケボックスで朝まで時間を潰す、という手もあるが見つかったとき逃げ場がない。

 家に電話して迎えに着て貰うにしても、この辺りはまだ真鍋の地元だ。それまでに見つかる可能性が高い。


 翔太はしばし考えて、大通りに出てタクシーを拾うことにした。手持ちの金では到底足りないが後で親に払って貰えばいい。後のことは、家に帰ってから考えることにする。警察沙汰になったとしてもリンチよりマシだろう。


「喉乾いたろ、これ飲めよ」

 翔太は沙希子に冷たい缶コーヒーを差し出す。

「これは?」

「そこで買った」


 翔太は顎先で暗闇に光る自動販売機を指す。奢りだ、と翔太はもう一本の缶コーヒーに口を付ける。沙希子は両手で持った缶コーヒーをしばし見つめて言った。


「私さ」

「何だよ」

「アンタのこういう所が大嫌いなんだよね」


「そっか」

 翔太は微笑した。以前なら傷ついただろう言葉も何故か冷静に受け止めることができた。

「まあいいや。それ飲んだら行くぞ」

「怒んねえのかよ?」

 沙希子が顔色を窺うように訊く。


「嫌いなんだろ、俺の性格。だったら仕方ねえじゃねえか。嫌いな物を好きになれなんて言う訳にもいかねえし」

 翔太は肩をすくめた。


 沙希子はばつの悪そうな顔をして何か言いかけたが、結局何も言わず缶コーヒーを一気に飲み干した。


「気を付けて行こうぜ。まだあいつらがそこらにうろついてるかも知れないからな」


 翔太たちは歩き出した。今いる場所は雑居ビルや会社が多く、夜は人気が絶えてしまう。商店も既にシャッターを閉めている。タクシーの拾えそうな大通りまで五分とかからない。翔太は辺りに気を配りながら足を進める。沙希子はその間、黙って翔太の後に続いた。


 あと、十メートルで大通りに出るというところで翔太は、T字路の交差点で三つの人影が道に立ちふさがり、翔太たちの様子を窺っているのに気づいた。顔はよく分からないが、三人ともパンクロックでもやってそうな服装の若い男だ。


 翔太は速度を変えず脇道に逸れた。あの三人が真鍋たちの仲間か分からないが、下手に立ち止まると、相手を刺激することになる。明かりの絶えたビルの合間を通り、角を曲がると細い道の切れた先で街灯の明かりが明滅し、その下を数台の自動車が通り過ぎていく。その中にはタクシーもある。思わず翔太が足を速めた瞬間、道の向こうから黒い影が飛び出してきた。


 翔太は目を瞠った。シャワーでも浴びたのだろう。青いTシャツに黒いパンツ、髪の濡れた真鍋鉄也が醜悪な笑みを浮かべている。その後ろからライブの衣装のままのバンドのメンバーが姿を現す。真鍋は翔太を一瞥すると四人の仲間とともに襲いかかってきた。


「逃げろ北村!」

 翔太は巣を護る親鳥のように両腕を広げ、真鍋たちを見据えたまま叫んだ。沙希子は動かなかった。ためらっているのが気配で分かる。もう一度叫ぼうとしたが、あっという間に肉薄してきた真鍋に殴られ、翔太の体はアスファルトに転がった。沙希子が悲鳴を上げる。


「助けて」人殺し、と叫ぼうとした沙希子の声は背後から伸びてきた熊のような掌によって阻まれた。傾いた翔太の視界に、三人の男が沙希子の腕を掴み、壁に押さえつけているのが飛び込んできた。背後から来た男たちは先程見た、パンクロック風の男たちに違いなかった。


 何故だ。

 真鍋たちの動きは明らかに翔太たちの行動を察知し、先回りしたものだった。だが、タクシーを拾うことを提案し、道を選んだのは翔太だ。沙希子ならいざ知らず、ほぼ初対面の翔太の行動まで予測するなど不可能だ。


 真鍋は翔太を見下ろしながら、片手で携帯電話を弄んでいる。沙希子のハンドバッグを拾い、中から同じ形の携帯電話を取りだし、踏みつけた。沙希子のスマホがひび割れ、無惨な姿に変わる。

 そこで翔太は自分のうかつさを呪った。スマホのGPSで追跡されたのだ。


 真鍋が沙希子へと近付いていく。立ち上がろうとした翔太の上に男が二人がかりでのし掛かってきた。はね除けようにも二人とも腕に筋肉を漲らせており、背も百八十センチはあるだろう。体格が違いすぎる。


 真鍋は仲間に沙希子の腕を押さえつけさせるとその前髪を掴み、頬を張った。乾いた音が鳴った。

「何、舐めた真似してんだ。てめえ」

 そう言って真鍋はもう一度張り飛ばした。


「俺が股開けって言ったのがそんなに気にいらねえのかよ。調子に乗んなよ。てめえくらいの女なんていくらでもいんだよ。クソ女!」


「クソはお前だ」

 翔太は叫んだ。

「北村を離せ」


 真鍋がこちらを向いた。侮りと憤怒に顔をしかめると、二三歩助走を付けてから翔太の顔を蹴った。弾けるような痛みとともに鼻の奥が痺れる。道に数滴、血溜まりが生まれた。続いて衝撃が翔太の頭を襲った。真鍋の靴底とアスファルトに挟まれ、翔太は呻いた。


「なーに調子くれてんだ、てめえ」

 真鍋が唾を吐いた。

「潰すぞチビ」

「てめえこそ調子乗ってんじゃねえぞ!」


 沙希子が叫んだ。その口を塞いでいた男の掌に歯形がついている。沙希子は体を揺さぶり獣のように髪を振り乱して、怒気の籠もった視線を真鍋に浴びせる。


「おめーがボコボコにしたいのは私だろうが。だったら、藤川は関係ねえだろ」

「へえ」

 真鍋が嘲笑して、足元を見下ろす。

「こいつが例の藤川君」


「知ってるのか」翔太を押さえつけている男が訊いた。

「ああ。沙希子のパシリでよ。学校でもしょっちゅう沙希子の尻追いかけてんだってよ。ほかにも金貢いだりとかさ。便利な忠犬なんだってよ」

「じゃあ今日も?」

「そうなんじゃねえの。ほら、この指輪もよ。沙希子がこいつに金出させたんだよ」

 真鍋が銀の指輪をかざす。


「へえ、金持ってるんだな。だったらよ、こいつの家電話してライブの賠償金出させるってどうよ。百万くらい」

「それ、いいかもな」

 真鍋が言った。

「今でもさ。沙希子の靴、舐めさせたらそのくらい出すんじゃねえの。こいつ………」


 真鍋の言葉を沙希子の足が遮った。爪先は狙い違わず股間に突き刺さっている。真鍋は内股になって蹲った。声も出ないようだった。


「下らねえことグタグタぬかしてんじゃねえ! てめえにそんな器量があんのかよ。口先ばっかでジュース一本も奢ったことのねえ奴が粋がんじゃねえよ」


 馬鹿笑いが男たちの間で響いた。仲間を傷つけられたことへの怒りはなく、むしろ沙希子に同意する気配すらあった。真鍋は顔を充血させて沙希子を睨み付けると、かすれた声で言った。


「お前ら全員でこいつ犯せ」

 翔太の頭から血の気が引いた。沙希子も身を固くする。


「いいのか」舌なめずりして男の一人が訊いた。視線は既に沙希子の胸や腰に注がれている。

「いらねえよ。そんなブス。お前らにやるよ」


「止めろ!」翔太は叫んだ。芋虫のように身をよじり、沙希子の方に這い寄ろうとする。

だが依然、上から体重を掛けた押さえつけた力は強く、十センチと進んでいない。


 やめろーだってよ、と誰かが茶化して真似た。どっと笑いが起こった。


 沙希子の体が倒される。口を布きれで塞がれ、声を上げることも出来そうにない。男たちは四人で沙希子の両腕両足を押さえつける。早くしろよ、と翔太の頭上から声がした。翔太はもがいたがやはり、男の手から逃れることは出来ない。


 どうする?


 能力はあと一回。だが、真鍋には既に使ってしまっている。それに人数も多すぎる。能力が一度に複数の人間に使えるか試したことはないし、誰か一人の言葉を操ったとしても沙希子を連れて逃げるだけの隙が出来るとは考えづらい。第一、能力は相手を見なければ効果はない。翔太を押さえつける男たちの箇所で見えるのは筋肉質の腕だけだ。これで能力が利くかどうか、保証はない。


 先程の沙希子の声で誰かが気づいてくれるかと思ったが、両端のビルに阻まれ声はほとんど届かないようだった。ビルの中も明かりはなく、無人のようだ。道を出た大通りは人通りは少なく、自動車のみが国道を行き交っている。おまけにパンクロック風の男が一人、道の出口に立っている。背は高く横幅も広いので、狭い路地を塞ぐには充分だ。


 翔太の焦りが全身を奔馬のように跳ねさせる。


「止めろ」翔太は制止の声を上げる。無論、男たちは止めない。ただ下卑た笑みを浮かべ、興奮した面持ちで沙希子の周囲にしゃがみ込み、卑猥な冗談を囁いている。男たちの体に遮られて沙希子の体はよく見えないが、必死に抵抗している気配がした。布を引き裂く音が翔太の耳に届いた。


 止めろ止めろ。沙希子に触るな。

 男の一人が立ち上がり、ベルトを外し始めた。

 翔太は叫んだ。


「止めろって言ってるんだ。下手くそ!」

 男たちの手が止まった。一斉に振り向いて翔太を見た。いずれの視線もプライドを傷つけられた怒りに満ちている。 


「何がバンドだ。ボーカルは音痴で楽器も音程外してばっか。ロックが聞いて呆れるぜ」


 翔太は思い切りまくし立てる。真鍋たちの注意を沙希子から逸らすにはこれしかない。必死で罵倒を続けた。歌詞も曲もパクリばかり。あんな演奏で金取るなんて犯罪だ。とても聞いてられない。ゴキブリだって死ぬ。音楽なんて即刻止めるべきだ。云々。


 男の一人が動いた。怒号を上げて翔太の頭を何度も踏みつけた。踏みつけられる事に頭の奥まで衝撃が響く。まずい。死ぬかも。そう思いながら段々と意識が遠のいていく。


「待てよ」

 男を制したのは真鍋だった。不満そうな男に真鍋は、道の端に転がっていたものを拾い上げる。


「こいつでやった方が良くねえか?」

 翔太は息を飲んだ。遠のいていた意識が恐怖で一気に引き戻された。


 真鍋が手にしていたのは古びた鉄パイプだった。六十センチほどの細長いパイプは表面が錆だらけで、工事には使えそうになかったが、真鍋が指で弾くと乾いた金属音を響かせた。鉄としての硬度を充分に保っているようだった。


「第一回、人間スイカ割り大会」

 真鍋は場違いなほど陽気な声で言った。仲間たちも同意する。翔太の背筋に冷たいものが流れた。こいつら狂ってる。人が死ぬなど何とも思っていないのか。


 真鍋は鉄パイプで翔太の頬を軽く叩いた。凶器を見せつけることで翔太の恐怖心を煽るつもりらしい。だとしたら効果は抜群だ。体の震えが止まらない。頬に当たった鉄パイプは冷たく表面がざらついて、硬かった。それを振るう真鍋の両腕も締まっていて、翔太の頭を割る力は充分ありそうだ。殴られたら絶対に死んでしまう。


「こいつびびってやがるぜ」

 真鍋は冷やかすように言った。

「どうする? 靴の裏舐めるってんなら、お前だけ助けてやるぜ」

「嫌だ」


 死にたくなんかない。自分でもみっともないと思うほど声が怯えている。涙も溢れそうになっていた。出来ることなら靴の裏でも何でも舐めて逃げ出したい。それでも、沙希子を見捨てるなんて絶対に出来ない。


「あっそ」

 真鍋は興醒めしたらしく、顔をしかめる。

「なら死ねよ」


 真鍋が鉄パイプを振り上げる。錆だらけの細長い棒が翔太にはまるで鉄槌のように重々しく見えた。こうなったら一か八かやるしかない。


 目を限界まで見開き、能力を解放する。沙希子が塞がれた口の中で何かを叫んだ。翔太は視線を固定し、心の中でキーワードを唱える。頭上目がけ鉄パイプが振り下ろされる。嘘・嘘・嘘。


 三回目の嘘を唱え終わるか終わらないか、というところで衝撃が翔太の脳天を襲った。頭の奥で火薬のように熱い物が弾けた。視界が闇に解け、意識が強制的にシャットアウトする。気絶する瞬間、遠くから男の甲高い叫び声が聞こえた。


「やばい。警察だ! 警察が来たぞ。早く逃げろ!」



     


 遮断された五感のうち最後まで残ったのは聴覚だった。そして、最初に取り戻したのも聴覚だった。翔太の耳に、沙希子と聞き覚えのない男の声が飛び込んできた。


 君たち大丈夫か怪我はないか一体何があったんだ。私はいいよ怪我なんてしてねえ平気だってそれよりこいつが翔太がやばいんだ頭やられてんだ呼びかけても全然返事しねえんだよ血がさっきから止まらないんだよ救急車呼んでくれよ。待っていなさい今応急手当を。いいから早く救急車呼べよ何やってんだよお前らそれでも警察かよ誰のお陰で飯食ってると思ってるんだこの税金泥棒。


「………ならお前が呼べよ」翔太は言った。まだ意識が朦朧としている。頭が痛い。水たまりにでも突っ込んだのだろうか。頭の後ろがぬるぬるして冷たい。


 目を開けると沙希子の膝があった。倒れた翔太の側で跪きながら沙希子が制服姿の警察官にまくし立てている。口から泡を飛ばして、救急車救急車とオウムのように繰り返し、怒鳴り散らしている。三十歳くらいの筋骨逞しい警察官が沙希子の剣幕に押されているのが可笑しかった。


「電話借りるなり、公衆電話探すなりあるだろうが」

「気がついたのかよ、おい」

 沙希子が嬉しそうに言った。


「なら早く言えよ」

 警察官は白いタオルで翔太の頭を巻き始めた。保健の時間で学んだ応急手当そっくりだった。その隣で沙希子が今にも泣きそうな顔をしている。


 次第に他の感覚も戻ってきた。ざらついたコンクリートが頬に当たる。夏場でも夜になると大分冷えている。


「あのさ」

 翔太は沙希子の膝を見やりながら言った。

「こういう時、普通膝枕なんじゃねえの?」

「寝ぼけるんじゃねえよ!」


 怒鳴られてしまった。流石に叩かれはしなかったが。

 警察官は救急車を呼ぶから、と路地の外へ駆け出していった。道の向こうにパトカーが駐まっているようだ。


 沙希子は翔太の側にしゃがみ込んだまま、何も言わない。落ちつきなく視線をあちこちに動かしている。少しは興奮も冷めたらしい。その顔は何を話して良いか迷っているように見えた。沙希子は翔太の額に巻かれた白い布に視線を合わせた途端、弾かれたように顔を背けた。


「謝んねえからな」

 ふて腐れたように言った。


「おめーが勝手に助けに来て勝手に頭割られたんだからな。私は別に助けてくれ、なんて言った覚えはねえし」


「分かってるよ」

 翔太は言った。

「俺が勝手にやったんだ」


 別に礼を言われるつもりはない。そもそも、あのライブハウスに行ったのは自分の意志だ。沙希子のせいじゃない。

 沙希子ははっと息を飲み、また黙ってしまった。


 道の向こうから車の走行音が聞こえる。まだ救急車が来る気配はない。


「あいつらは?」翔太は訊いた。


「逃げてった」

 沙希子は顔を背けたまま、そっけない口調で言った。 


「鉄也が藤川を殴ったすぐ後で警官が来たんだよ。二人。それであいつらみんな逃げちまいやがった。で、警官の一人があいつら追いかけていった。残りがさっきの奴。全く、調子の良いこと言いながら制服見ただけでゴキブリみたいにこそこそしやがってよ。情けねえ」


 そう言って力なく笑った。威勢の良い言葉に反して、肩が震えている。言葉にした拍子に襲われた時の恐怖が戻ってきたらしい。

 悪いことしたな。


 そう思った翔太は手を伸ばし、震える沙希子の手を握った。何年ぶりかに繋いだ手はあの頃と同じように柔らかく温かかった。沙希子は一瞬身を竦めて重なり合った手を見つめると、怖ず怖ずと握り返してきた。震えは止まっていた。


 しまった。

 いつの間に付いたのだろう。額から流れた鮮血は翔太の手を血みどろに汚していた。血はまだ乾ききっておらず、二人の指と指の間で粘ついた糸を張っていた。


「悪い」

 こんな風にドジだから沙希子に馬鹿にされるんだ。

「いいって」沙希子は首を振った。「こんなもん、すぐに落ちるって」

 そして必死な面持ちで言った。


「あのさ、さっきのやつ。『あんたの性格大嫌い』とかって。あれ嘘だから」

「そうか」

「別にそんな嫌ってほどじゃないから。どうせ昔からだし。翔太は今の方が、翔太らしいかな」

「そうか」

 翔太は頷きながら別のことを考えていた。


 頭を割られる瞬間、能力を使って見張り役の男に『警察が来た』と嘘をつかせた。嘘なのだから警察など来るはずがない。


 なのに何故、『本当に』警官がここに駆けつけたのか。


 沙希子の話によると、二人の警官が駆けつけたのは気絶した直後だったという。ならば能力は発動せず、あの叫びは見張りの男の真実の声だったのか。それとも能力を使ったことで偶然近くを通りかかった警官を呼び寄せたのか。訊こうにもかけた相手はとっくの昔に逃げてしまっているし、会いたくもない。


 特に何かを使い果たした、という感覚はない。能力の残りは零か一か。テレホンカードのように穴が空くわけでもないし、公衆電話に入れると警告音を鳴らしてカードが戻ってくる訳でもない。


 だから確かめてみることにした。


「あのさ」

「いいから、もう喋るなって」

「俺、沙希子のことが好きなんだ」


 子供の頃からずっとそうだった。お前はワガママですぐに威張り散らして、そのくせ寂しがり屋で。おまけに散々ボケだの死ねだの言われて。けれど、それでも沙希子のことが放っておけないんだ。けどお前はほかの男と付き合ってて。辛くて苦しくて諦めようとほかの女の子と付き合ってみたけど駄目だった。忘れられなかった。


 こんなこと言って気持ち悪いって思うかも知れない。それならそれで構わない。触れることが出来なくても話せなくても、何も出来なくてもいい。どうか嫌わないで欲しい。何もしないから。ずっと側にいたいんだ。


 一度口にした途端、長年溜め続けてきた想いが胸の奥から沸き出し、ゆるやかな流れとなって体の隅々までしみ通っていく。想いは後から後から溢れて来る。口にしたつもりだがほとんど声とはならず、唇を動かしただけのようだった。


 沙希子の返事はなかった。目は惚けたように虚空を見つめている。唇がかすかに動いている。翔太の言葉を口の中で繰り返しているように見えた。


 沙希子への想いとは裏腹に全身に力が入らず、眠くなってきた。瞼が重い。意識が闇の底へ呑まれていくのを感じる。


「翔太」

 沙希子が体を揺さぶる。

「死ぬなよ、おい」

 死ぬわけないだろう、おい。


 確かに血は止まらないけど。頭ってのは出血しやすいんだ。もうすぐ救急車も来るだろうし。それに、さっきから何故か傷口が痛くない。だから大丈夫。ちょっと体が重くて寒いだけだ。あと、眠い。三日も徹夜したみたいだ。寝たら楽になれるだろうな。


 心地よい誘惑に歯を食いしばって耐える。まだ肝心なことを訊いていない。


「お前はどうなんだ」

 翔太はかすれた声で言った。

「俺のこと、好きか?」


 沙希子の目をまっすぐに見据え、微笑みかけながらありったけの想いを込めて心の中で嘘・嘘・嘘と三回、強く念じた。


 唱え終わった途端、意識が急速に失われていく。今度は抵抗できそうになかった。

 滑り落ちていくその手を沙希子はぎゅっと握り、もう片方の手も重ねた。そして雛鳥を慈しむように優しく握り直すと目に涙をため、怒っているのか笑っているのかよく分からない顔で言った。


「大嫌いに決まっているだろ、バカ」



最後までお読みいただき有り難うございました。

結末については皆様のご想像にお任せいたします。


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