嫁ぎ先が決まったらお役目が終わると主張する騎士のせいで、伯爵令妹は絶対婚約したくない
ちょっとこれまでの2本から時間軸飛んでます。
タイトルが「令嬢」じゃなく「令妹」になってるところがミソですね。
ずっとお互い顔は知っていたけれど、直接会って話をするのははじめてだった日のこと。
当時は公爵令嬢だったハリエットさまと、兄のアルドルークが、オーギュスト・アレクサンデル=ファン・ドゥ・ゴルディクス公爵閣下との面談を終えて取次の間に戻っていらしたとき、わたしは彼に肩車をしてもらって大はしゃぎしていた。
ご学友であると同時に偉大な先輩であるひと相手に、とんでもない非礼を働いている、と怒るかと思った兄は、意外なことに(そのときのわたしは理由を知らなかった)苦笑気味なだけで、ハリエットさまが思いもかけずおどろいていらっしゃった。
わたしは彼の肩からすべりおりて、ハリエットさまへ、こう紹介するつもりだった。
「こちらのジャスティンさまに、わたしのあたらしい騎士となっていただきましたの!」
と。
ところが……
「わたしのあたらしい――」
「犬です」
わたしの言葉に割り込んで、彼――ジャスティン=オーウェルはそういった。
「ちょっ……ジェイ! なんてことおっしゃいますの!?」
兄は完全に吹きだし、ハリエットさまも歯を見せるようなことはなかったけれども、たしかにお笑いになった。ハリエットさまが所作ではない自然な笑顔を見せたのははじめてだったので、わたしはけっきょくそれに気を取られて、わたしの専属騎士のお披露目はされないままに、その日は終わってしまったのだった。
あれから、もう五年以上になる――
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二十数件目か、それとも三十件を超えたか、先方の面談希望から蹴り飛ばしたわたしは、兄であり当主である、アルドルークに呼び出された。今年に入ってから、結婚の申し入れはひっきりなし。十五からさきは数えるのをやめた。
「ヴィクトリア、参りましたわ」
「入りなさい」
書斎のドアの向こうから聞こえてきた兄の声は、あからさまに不機嫌だ。
「失礼いたしますわ!」
あえて高い声と大きな挙措で入室する。わたしも、さすがにいつまでも子供のように、始終騒々しくはない。分別がついたというよりは、それほど元気がありあまらなくなった、ということだけれど。
わたしたち兄妹は、母方の血筋のおかげかいたって丈夫だが、父はあまり健康に恵まれたひとではなかった。兄が国内貴族筆頭であるゴルディクス家のハリエットさまと結婚し、オトノータシュ伯家が当面安泰となったことを見届けるなり、緊張の糸が切れたかのように床に伏し、まもなく亡くなった。
実際、本来の日程であれば、父は間に合わなかったかもしれない。慣例を押して、ハリエットさまと、彼女のお父上であるゴルディクス公爵が前倒ししてくださったのだ。
いまはアルドルークがオトノータシュ伯爵。わたしは伯爵令妹というわけである。
わたしと同じ赤い髪、鳶色の目をした兄の声は固い。
「なぜそんな我が儘ばかりをいうんだ、ヴィクトリア。おまえの出す条件に該当する独身貴族男子は、カール・アウレリウスさまだけだぞ」
「ただでさえ格落ちのわがオトノータシュ伯爵家ですのに、お兄さまがすでにゴルディクス公爵ご令嬢のハリエットさまと結婚されてしまいましたものね。この上に妹が、三男とはいえ公爵家のご嫡子と結婚できるわけがない」
満面の笑みを浮かべてわたしが応じると、兄の眉間に険しいシワが走った。亡きお父さまに、急にそっくりになりましたわね。
「わかっているなら……!」
聞きわけろと? いやです。そもそも、わたしがこうもこじらせることになった原因の一端は、兄が握っている。察していないとはいわせない。
わたしはべつに、カール・アウレリウスさまを好いているわけではなかった。もちろん、義兄のおひとりであるし、嫌いではないけれど。単にうんとハードルを上げるために、経歴や能力を使わせてもらっている。兄には黙っていてもらうよう頼んであるけれど、本人に了承は取ってあるのだ。
「五年前、お兄さまはオーウェルさまに、わたしのお守りをするようお命じになった。その条件は、わたしが自分の意志で結婚相手を決めるまで。わたしはいまのところ的確な殿がたを見つけることができていない、それだけですわ」
「命令なんかしてない。私は友人としてオーウェルに頼んだんだ、妹を少し落ち着かせて欲しいと。あいつは子供のあつかいに馴れていたから。おまえもいくらかは分別がついたろう。もう、凛々しいからといって女性に情愛を錯覚するようなことはないし、男であっても上辺だけの軽薄な輩に惑わされはしない。騎士の役目は終わったはずだ」
「わたしが婚約者を定めるまでは騎士でいてくれる、そう約束してくださったのは、オーウェルさまご自身です」
兄はかぶりを振りながら深くため息をついて、わたしの目を再度見すえてきた。兄として、家長として、聞きわけのない一族末席を見る目ではない。軍人の、冷徹な眼だ。
「オーウェル大尉を王都連隊所属にずっと留めていられているのは、ハリエットが公爵閣下にしてくれている口添えのおかげだ。だが、本来あいつはこんなところにおいていてよい人材ではない。当人も、暇なおかげで好きなだけ訓練ができるから練度が落ちなくていいとはいってるが、本心ではいい加減退屈そうだ」
「オーウェルさまご本人が転属願いを出されるのであれば、よろしいではありませんか」
「おまえが縛っているんだろう! あいつは義理堅いんだ、一度交わした約束は絶対に守ってくれる。途中で放り投げない」
兄が芝居やポーズではなく、本気で怒ったのを見たのははじめてだった。男どうしの友情には、やはり、女の身では垣間見れない部分がある。
「……わたしは、オーウェルさまが『騎士』でいてくださるなら、離れていてもいっこうにかまいません」
「それだけの話じゃない。あいつは長男なんだ。自分は軍人を続けて、家業は弟のだれかが継げばいい、なんていってるが、だからといってずっと独り身でいていいってわけじゃない。それに王都連隊騎兵隊長オーウェル大尉どのは、いまやあらゆる階層の独身女性から熱い視線が注がれている身だ」
「では、なおのこと転属していただいて、王都からお離れになっては」
「……おれの話、ちゃんと聞いてたのか?」
伯爵家当主ではなく、若手士官として、そしてじゃじゃ馬な妹を持つ兄の声になって、アルドルークはあきれ顔になった。
理解しろと頭はささやく。けれど、心は拒む。
「このままオーウェルさまが王都に留まったままでいると、思わぬ争いが起こりかねない、ということでしょう?」
「それは二義的な話だ。あいつはそもそも、士官学校に入る前に、どこかの貴族の養子にならないかという話があったんだ。実際に、男児に恵まれなかった二、三の家から、手が挙がっていた。本人が実家を離れる気はないと断って、当時は跡取り息子だったからそれですんだが、弟に任せて自分は軍人でいてもいいとなってくると、話は変わる」
わたしが思っていたより、事態はずっと具体的で、しかも差し迫っていた。わたしがこのまま縁談話を袖にしつづけていても、ジェイのほうはそうもいかないだなんて。
そこで、書斎のドアをノックする音が響いた。
「なにか?」
兄が応じると、執事のマクニールが顔を出す。
「アルドルークさま、ご来客です。お約束の」
「もうそんな時間か。すぐいく。――今日はここまでだ、ヴィクトリア。ハリエットのところへいきなさい。……フォローはするから本気で怒ってやれって、彼女がな」
隙間ができかけていた心が、たちまちあたたかいもので埋まった。客間へ向かおうとする兄へ駆け寄り、ハグする。
「結婚相手を決めるとお約束はしませんけど、これまでのわがままはお詫びします。……ありがとう、お兄さま」
「礼はハリエットに」
わたしのおでこをピンと指ではじいて、アルドルークは足早に廊下を歩き去っていった。わたしは兄と反対方向、屋敷の奥側、義姉である伯爵夫人ハリエットのお部屋へ。
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陸軍卿ゴルディクス公爵の令嬢であったころの彼女を、的確に表現できる言葉はない。あえて造語であらわすなら「凄凛」だった。
最高級の生糸のようにくせがまったくないプラチナブロンドの髪と、古代の伝説の名匠が手がけた大理石の女神像のような完全な目鼻の造作。金髪美人というのは往々にしてしっかり化粧していないと「眉なし」に見えるのだが、彼女の膚は透き通っていて、常に眉ははっきりと金色の稜線を描いていた。そして眼前に立ったものを凍てつかせる、極地の氷山のような色の眼。
線は細く、研ぎ澄まされた剣のようだった。その見た目の印象をある意味では裏切らず、下手に彼女へ近寄る不埒者は血を見た。比喩ではなく。
いまのハリエット義姉さまは、複数の意味でいくぶん柔らかくなっている。わたしからすれば甥か姪ができるのも、そう遠くはないだろう。
五年のあいだ子に恵まれなかった、というわけではないそうだ。むしろ、性急な懐妊は避けていたとか。
先の戦争のさなか、負傷兵の回復率を劇的に高める研究成果が発表され、それに基づいていろいろな医学的「予後」に関する要素の分析が行われたのだという。その結果、産科分野においては、これまでは若ければ若いほどよいとされていた初産の年齢は、じつは十代のうちは危険性が低くなく、二十代の前半がもっとも安定しており、それ以降ではふたたび母体の負担が徐々に増していく、という分析が得られたのだそうな。
「統計」は現在わが国で大はやりだ。来年の、十年後の各種産物の価格が予測できると、あやしげな山師が統計を看板に資金集めをしたりもしていると漏れ聞く。詳しい人によると、たしかにある程度の予測は可能になるが、かならず儲かると断言するのは確実に詐欺だ、とのこと。
ハリエット義姉さまは、当家のメイドたちと、輿入れ時に公爵家からいっしょにやってきた侍女のモニカとともに、お茶の準備をしていた。
義姉さまのお部屋は平均的貴族婦人のものと大差ない。つまりは本来の身分からすれば質素なのだが、彼女は実家の自室もさして華美にしていなかった。武門のお家柄だろう。
目立つものといえば、壁の架台にかかっている剣や銃。兄は、いくら剣で仕合っても、いまだに五本に一本くらいしか取れないと笑っている。へんなのろけかただ。
「おじゃまします。いい匂いですね」
「ヴィクトリアさま、お待ちしていました。さあ、こちらへ」
差し招かれるまま義姉さまのお向かいへ。彼女のうしろの書架に並んでいる本は『四年戦争戦訓事例集』『戦略概論』『洋上権力史論』『ヴァリア戦記・内乱記』『ナポリオン遺稿集』……。女性の持ち物とはとても思えない。
お父上であるゴルディクス陸軍卿や、ジェイムズさまはじめ兄上がたがいらっしゃることもたびたびだ。ハリエット義姉さまは実質的に国軍参謀の一員となっている。
モニカがお茶を出してくれた。お菓子は好きなものを自分で取ることにしている。
この紅茶一杯にしろ、以前のわたしはなにも考えずに飲むだけだった。いまは、億を数えるひとびとの働きと、海路を確保するために角逐を巡らせる列強各国の中で、わが国がどうにか優位を確保しているからこそ、こうして彼方の土地からわたしの手元へやってきたのだと、おぼろげながら理解できるようになってきた。
カップをソーサーへ戻し、ハリエット義姉さまが口を開く。
「アルドルークさまのお話はなんでしたか?」
「全部お義姉さまにいわれてやったと、あっさり白状しました。ありがとうございます、兄とはここしばらくよそよそしくなっていました」
「ヴィクトリアさまに一秒でも嫌われていたくないんですね。誤解ができてもわたくしが話すといっておいたのに」
ハリエット義姉さまもそういって笑った。むかしのように飛びつきたい。やっても怒られないとわかっているけれど。
「オーウェルさまのことも、本当にありがとうございます」
「これからの時代、能力さえあれば出自は問われない――その象徴となっていただいているのですから、わたくしがとくに差し出口をはさむようなことでもなかったのです」
「オーウェルさまにご結婚の話があるというのは、本当ですか?」
わたしが自分の本題を切り出すと、義姉さまは再度カップを取り上げてお茶で口を湿した。
「まだ具体的ではありません。ですが、遠からず決める時期になります。オーウェルさまがご実家を継ぐために退役をなさらず、このまま佐官とおなりになるなら。先の戦争で失われた高級士官の席次は、まだ充分に埋まっていません。まず頭数をそろえるという方針は採っていませんから」
「わたしは……貴族でなくなってもかまいません。わたしは、オーウェルさま……いえ、ジェイが好き」
義姉さまにはいえるのだ。とはいえ、はっきり口にしたのははじめて。自分でわかっていなかった。ジェイが若い女性たちの関心の対象になっているのはずっとしっていたけれど、問題はわたし自身の縁談をどう先延ばしにするかだとばかり思っていた。
わたしが宙ぶらりんでいれば、ジェイをつなぎ留めていられると。なんという傲慢。彼のことを騎士ではなく、犬かなにかだと思っていたのはわたしのほうではないか。
義姉さまの次の言葉は、まさに奇襲だった。
「それでは、確認しますか?」
「え……」
「いま、夫アルドルークはオーウェルさまとご歓談中です。あちらの話題がなにかは存じませんけれど」
「ちょ……ちょっとまってください……!?」
突然のことにしどろもどろになるわたしのほうへ、ソファを立ったハリエット義姉さまは歩み寄ってきた。ケーキスタンドからマカロンをひょいと取って、わたしに手渡す。
「さあ、甘いものを食べて、頭を働かせましょう。戦の基本は即断速攻、見敵必殺。恋は戦争です」
最高に美しい笑顔で、なんて物騒なたとえ!
でもわたしはこんな義姉さまが大好きだ。愛は錯覚だったけど、ある意味では世界で一番好きなことに変わりはない。
マカロンを食べ、ミルクと砂糖をしっかり入れたお茶を飲み干す。……やるぞ!
わたしは目を見るとスイッチが入ったかどうかがよくわかるらしい。ハリエット義姉さまは、侍女たちへ指示を下す。
「モニカ、夫のところへ行って、オーウェルさまをお借りしてきて。――あなたたち、これ片づけてしまって」
「かしこまりましたお嬢さま」
『はーい!』
夫人の専従であり公爵邸からやってきたモニカは、当伯爵家の執事であるマクニールや家政婦長のリザより格上だ。だれはばかることなく懇談中の当主のもとへ行ける。
部屋をあとにする義姉さまとわたしを見送るメイドたちは、笑顔満面だった。「片づけてしまって」というのは「ぜんぜん手をつけなくてもったいなかったから、あなたたちで食べてしまえ」という意味なのだ。義姉さまはいつもこんな調子である。
庭園へつづくテラスの戸を開けて、義姉さまはわたしをうながした。
「オーウェルさまもすぐにいらっしゃいますよ。ご武運を」
「ありがとうございます、お義姉さま。……がんばります」
陽はかたむき、周囲はうっすら茜色にそまりつつあった。
わたし自身の心臓の鼓動だけが聞こえる……。
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急に樹の葉がゆれる音とともに、風が吹きつけてきた。草がつぎつぎと波うって、平野の向こうからわたしのほうへ迫ってくるのが目に見える。
思っていたより強い風だった。ごうっと耳が鳴って、髪と裳裾を乱す。左手で頭を、右手でスカートの裾を押さえてやりすごし――気配を感じた。
わたしの「騎士」である、ジェイがかたわらに立っていた。まるで、いまの風に乗って現れたかのように。
「およびだとうかがい参上いたしました、ヴィクトリアさま」
「ええ……」
なんだっけ……。声が、出ない。
「ジェイ、あなたはわたしのことが嫌いなのですか?」
あ、なにいってるのわたし!?
さいわい、ジェイはかぶりを振った。
「まさか。自分は我慢弱い庶民ですよ、嫌だったらさっさと逃げてます」
「あなたには、将来を約束している女性がいらっしゃるのですか?」
「そんな暇がなかったことは、ヴィクトリアさまが一番良くご存知のはずでは?」
ジェイは肩をすくめて逆質問してきた。皮肉げにではなく、いたずらっぽく。
……たしかに、ただでさえ多忙な彼の貴重な余暇を食いつぶしてきたのはわたしだ。この表情を、信じていいのだろうか。いやがられてはいないと。
「軍に入る前も、ずっとですか?」
「自分が親父の手伝いをするようになったのは十一のときです。すぐに、戦争が始まりました。自分は女の尻のことなんざ頭の片隅によぎる暇もなく働きましたが、家業はどんどん苦しくなっていく。戦争三年目に、口減らしをしつつ仕送りのため、軍に志願することに決めました。それ以降はずーっと軍隊ぐらしです」
「念のためにうかがいますけど、その、軍にいるとき、男性のほうとは?」
もう、さっきから、わたしのこの口は……!
ジェイもあきれ顔だ。
「……まだそういうこと考えてるんですか」
「念のため、といったでしょう」
「ありません」
ほっとした。でもジェイは、向こうからは口を開かない。
察しが悪いのか、わざとなのか。
「……いくらなんでも、わたしがなにをいいたいかはわかるでしょう?」
「こちらからいえることはですね、あなたに庶民は無理だってことくらいです」
やっぱりわかってた!
「そんなことない! あなたと一緒にいるためなら!! 貴族の家柄くらい捨てられる!」
……あれ? これって事実上、わたしのほうから告白してません??
だのに、彼は穏やかな表情で首を左右に振る。
「覚悟でどうにかなるものじゃありませんよ。慣れです」
「あなたは……いつまでもそうやって、他人行儀で……」
「そう、他人行儀にしていてよかった。あなたのことを四人目のうるさい妹だと考えていたら、とてもこんな気にはなってない」
「……え」
巨躯をかがめて、ひざまずいたジェイが右手を胸においてわたしを見上げる。
「自分があなたにふさわしい地位を得たら、という前提つきですが。――俺と、結婚していただけますか、ヴィクトリアさま」
「わたしは……」
視界がゆがむ。涙がとめどなく流れていた。
猛然と体あたり。でも軍で鍛え抜かれているジェイを倒すことはできなかった。受け止められる。
「バカ! ずっと……ずっと好きだった! 本当にバカなのはわたしで、あなたのことが好きなんだって、気がついてなかった! あなたがどこかに転属になるかもしれないって聞いて、跡取りがいないどこかの貴族の養子になって、どこかのお嬢さまをお嫁にもらうことになるって聞くまで! わたしは、あなたが自分の手元からいなくなることはないって、離れるときはわたしからなんだって、勝手に、思い込んでた! わたしは……バカで……バカで……ッ!?」
いきなり、身体がふわりと浮いた。おどろいて目を見開くと、遠心力で涙が吹き飛んで視界がひらける。
ジェイは、わたしを軽々と抱えあげ、高々と掲げてぐるぐる回っていた。わたしはもう子供じゃないって! でも、笑ってしまう。
ふいに手を離された。自分の体重が消える。一瞬あとには、彼の胸に抱かれていた。
「――いけません。それは下世話な庶民の流儀」
くちづけしようとしたわたしの鼻を指で押し、ジェイはそういった。
「なるわ、庶民に」
「無理ですって、あなたには。俺も、貴族になるつもりはない。少佐どのの奥方なら、そんなに恥ずかしい身分じゃないはずです。すぐに、閣下ご夫人と呼ばせます」
「いやよ、将官なんて。あなたが大出世するって、戦争になるって意味じゃない」
「なんにもなくても、二十年でなってみせます」
「三十年でも四十年でもいいわ。いっそ、大佐夫人だってかまわない」
「大佐って簡単にいいますけど、偉いんですよ?」
「すぐなれるんでしょう?」
「俺はね」
隙ありと見てもう一度試したけれど、やっぱり躱された。
あー、もう、我慢したくないー!
……兄も、義姉さまも、陸軍卿閣下も、みんな協力してくれたけれど、けっきょく三ヶ月ほどかかって、そのあいだずーっと、待てをする犬の気分になっていたのは、わたしのほうだった。
おしまいっ!
書きながら思っていたことは「オーウェル爆発しろ」「爆ぜろオーウェル」「このリア充がァ!!」
……でした。
どちらからも強烈なアタックがないままっていうのは盛り上がりに欠けましたかね? べつにええんやでと思っていただけたなら評価やブクマをくださいますと幸甚です。
R3/2/20追記:本シリーズの1本目「婚約破棄をしろと言われたけれど(以下略)」がコミックになりました。くわしくは活動報告をご参照ください。
R2/11/17追記:絵の上手い友人が支援画を届けてくれました。ヴィクトリア可愛すぎ。繰り返しになりますがオーウェルは爆ぜるべきだこれ。
R2/11/13追記:予告していた短編連作5本、書き終わりました。くわしくは活動報告をご参照ください、追って新エントリーも追加していきます。