チョコレートに隠された意味
「おかえり」
3月14日の水曜日の夜。普段なら仕事が朝早くからあるものだから、もうとっくに寝てしまっているはずの旦那が、リビングのソファに座っていた。
「ただいま」
ホワイトデーだから、帰ってくるのを待ってくれていたのかな、と少し私は思った。でも、わからない。なんせ、この男は日付やイベント事に疎い。私の誕生日でさえ、ほとんどスルー。だから、最初から何も期待していない。
幻想を抱くのはやめて、私は会社の人からもらったバレンタインのお返しが入った紙袋をテーブルの上に置いた。
彼は驚いた顔をして言う。
「君が、おモテになるなんて知らなかったよ」
——失礼な奴だ。
私の中に、「おモテに出ろ!」という言葉が浮かぶ。が、これで旦那の笑いのツボはつけないな、と思い、適当に返事をした。
「でしょ?」
まあ、旦那の言うことは、間違ってはいなかった。きれいな紙で包まれたチョコレート。これらは全て『バレンタインのお返し』なのだ。
○○○
昨年の9月に入籍した私。今年のバレンタインは、ずいぶんと楽な気持ちで迎えることができた。
結婚したことで、異性に好意を示すことについて、私が悩むことはなくなったのだ。新婚ほやほやの女性が、バレンタインにチョコレートを渡したからといって、「こいつぁ、自分に気があるんじゃなかろうか」と考える男性はいない。
そこに、恋愛感情がない。それが明確だからこそ、バレンタインを楽しめる。それは、不思議な現象だった。
バレンタイン。私は、会社の人にチョコレートを配り歩いた。その真意は。「いつも生意気言って、すみません」だったり、「いつも助けてもらって、ありがとうございます」だったり、「なんだかんだ言って、尊敬しています」だったり、した。それが、明確に伝わったわけではない。
でも、ホワイトデーは。おそらく、その気持ちに対する返事がきたのだ。「こっちこそ、すまん」とか、「これからも、頼むぞ」とか、たぶん。そんな感じ。
会社での私はクソ生意気な小娘で、よく30代や40代の上司の男と喧嘩する。ちなみに、私には自分がクソ生意気な小娘だという自覚はある。が、上司が変なことを言っていると突っ込まずにはいられない性分で。ついつい、こじれる。
でも、お互いに良い大人だから、「言い過ぎたなー」とか、「こっちも悪かったなー」とか、思っても簡単には謝れない。なんとなーく、うやむやになるのを待つだけ。今まで時間に全てを、解決させてきた。
それでも、不思議なもので。上司から、めちゃくちゃ嫌われるということはなかった。私は女だから、よくわからないけど拳と拳で分かり合うって、こんな感じ?
——それとも、実は言い合った後で、トイレでこっそり1人で泣いたのがバレていて、許してやるかと思われていたか。いや、それは絶対に嫌だ。そんな事実は認めない。
まあ、中には奇特な方もいらっしゃるもので、「俺に歯向かってきた女は初めてだ」とか「強気な女が好きだ」とかで、不倫を迫られる事態に陥ったのは……、また別の話です。
そんなこんなで、とにかく。「普段から色々とありますが、私は上司のこと嫌いなわけじゃないんですよ」という意味も込めて。
私はバレンタインにチョコレートを持っていった。もちろん、私はクソ生意気な小娘だから、上記のような思いは一切、言っていない。
「今日、バレンタインなんで、どうぞ」と紙袋を渡しただけ。受け取る方も「おお」とか、「ああ」とか、そんな感じ。
ホワイトデーも同じようなもので。「ほい、これ」「お返し」「今日は、ホワイトデーなんで」と紙袋を渡されただけだった。
でも、仕事帰りの電車の中。疲れているのに、紙袋の中の重みが、あたたかかった。本当に、あたたかかった。
○○○
自室で部屋着に着替えて、リビングに戻ると私が昨日作っておいたカレーを、旦那がレンジで温めてくれていた。テーブルの上には、テーブルクロスが敷いてあり、スプーンも用意されている。珍しい。
旦那と2人。ソファに並んで座った。チン、と電子レンジの音が鳴り、私がカレーを取りに行こうとすると、旦那が私の手を引いた。
「あのさぁ」
そう言ってから、彼が私に差し出したのは、チョコレートだった。真四角の箱に赤いリボンがかけられている。
私は驚いて、目を見開いた。
「せっかく用意したのに、君は大量に持って帰ってくるんだもんなぁ」
私から目を逸らして、つぶやかれた一言。久しぶりに聞く、その拗ねた声に思わず吹いた。それがお気に召さなかったようで、いよいよ雲行きが怪しくなってきた。——本当、しょうがないなぁ。
「嬉しいよ、ありがとう」
彼の耳元で、ささやく。そして、一瞬だけ唇に唇を重ねた。それだけのことで、彼は機嫌を直したみたいだった。
だから、私は大量のチョコレートの意味を話していない。たまに、ミステリアスなところがあるのが、夫婦円満のためには良いと思うのです。
——しかし、良い1日だったな。
すっかり電子レンジの中で、冷めてしまったカレーを温め直しながら、今日1日のことを私は振り返った。