前兆(前編)
「お兄ちゃん、はやく起きないと遅刻するよ?」
「うん、遅刻?」
妹の声が聞こえて、ようやくぼくは自分が寝ていることに気付いた。
体を起こすと少し頭が重い。
「お兄ちゃん、またゲームしながら寝ていたでしょ? ゲームのそれ、つけっぱなしだよ」
妹が言うゲームのそれとは、ヘッドマウントディスプレイのことだった。
どおりで頭が少し重く、視界がさえぎられているわけだ。
どうやらヘッドマウントディスプレイを装着したまま寝落ちしたらしい。
珍しいことではないけど、あまりいいことではない。それはパソコンを使いながら寝落ちするのと同じことだ。
ぼくはそんな視界をさえぎるヘッドマウントディスプレイを取り外した。
視界には小柄で鮮やかなライトブルーの色をたくわえた髪をもつ少女が1人、口をとがらせてぼくの部屋に立っている姿が見えた。
その少女は島田リオン。ぼくの妹だった。
「おそい時間まで遊んでいると体調が崩れて、今にも不健康な体になっちゃうよ」
リオンはそう怒った風な口で言って、そそくさと部屋から出ていった。
「わかった、今度から気をつけるよ」
だれもいない部屋のなか、独りごとを言いながらぼくはベッドから立ち上がり、ヘッドマウントディスプレイを学習机の上にある専用充電スタンドに置いた。
そしてハンガーでひっかけてある制服に手をのばした。
ヘッドマウントディスプレイは潜水用ゴーグルのような見た目のものに、電子機器がいくつもつけた高性能、多機能な電子機器になる。電源が入らなければ視界をさえぎるだけの少し重たいゴーグルにしかならないけれど、電源を入れてネットワークに繋げると視界には色々な世界が広がりはじめる。さらに、このディスプレイを装着していれば、意識をデータの世界に繋げることもできてしまう。
意識をデータの世界に繋げると、視覚や聴覚といった感覚はすべてデータの世界に優先された。つまりその間、現実の世界では体が動かせなくなるので、操作をする際は、ベッドで横になるか、イスに座るかの2パターンが一般的な操作姿勢になる。ぼくが今朝やってしまったのは、ゲームをシャットダウンしたとき、ベッドではすでに横になっていたので、そのまま気持ちよく寝てしまったということだ。
この技術は大脳生理学的には画期的なことで、さらにこの技術の発展を機に、再生医療や建築技術など、さまざまな技術が飛躍的に進歩したらしい。ただ、高校生のぼくが知っているのは、一般的に普及しているディスプレイがゲーム用のディスプレイということだけだった。大脳生理学的な感覚の遮断や意識の移動がどういうものなのか、そのあたりの詳しいことはまったく知らない。
ただ、パソコンの仕組みについてとくに知らなくてもパソコンが扱えるのと同じように、ぼくはこのヘッドマウントディスプレイを上手く扱えている高校生の1人だと自負している。
しかしぼくはそんなディスプレイからはいったんはなれて、学校へ行くために制服へ着替え、リビングへと向かった。
リビングでは父とリオンが朝食をとっていて、母はぼくの昼食をつくっていた。リビングは肉の焼ける香ばしいにおいに満たされていた。
学校までの時間の余裕もとくになかったので、ぼくはさっそく朝食のパンにかぶりつく。こんがり焼けた食パンはサクサクとした食感で、とけたバターの味は朝食らしいさっぱりとしたおいしさを口いっぱいに広がった。
そんなパンにかぶりつきながら、ぼくはテレビに表示される時間を確認するついでに、朝のニュースを見ていた。
『――昨夜、就寝中の長女9歳の首を絞めた事件があり、無職の木村美津子37歳を、殺人未遂容疑で逮捕しました。木村容疑者は育児と借金で悩んでいたと供述し、犯行を認めている模様です。また、病院に搬送された長女は意識を取り戻し、会話ができるほどに回復の兆しを見せているようです――』
朝からゲンナリするニュースだと聞きながら思う。
悩みがあるからって、9年間一緒にすごしてきた子どもを殺す親の心境は理解不能だった。
ただ、ぼくはこのことについてだれかに喋ろうとは思わない。それはリオンも父もおそらく一緒だったのだろう。だれも口を開こうとはしなかった。
それにぼくら3人の関心事は瞬時に、次のニュースにすべて持っていかれた。
『――では芸能ニュースです。なんとあの人気アイドルグループ・YATU☆HASHIのメンバーでもあるキダッチこと木田谷ヒロ君が、昨夜、ブログにて結婚を発表しました!』
「えっ!? ウソ、キダッチ結婚しちゃうの?」
リオンが目をパチクリとさせ、食事の手をとめ、テレビの画面を食い入るように見つめていた。
相当ショックなのだろう。リオンは少ないお小遣いを削ってライブDVDを買うぐらいには木田谷ヒロのファンだ。
それにYATU☆HASHIのメンバーはいい歳になっても、一向に結婚する気配を見せないことでも有名だった。だからぼくも、リオンほどではないにせよ驚きがあった。
「キダッチが結婚してショックか?」
リオンのほうを向いて言ったのは父だった。父は口元をゆるませ、下卑た笑みを浮かべる。
「すごくショックだよー。大人気アイドルの……それも私のギダッチが結婚なんて想像もしてなかったもん」
「でもYATU☆HASHIのメンバーって結婚してもおかしくない年齢なんだろ? そんなアイドルが結婚するっていうんだったら、ファンはむしろ歓迎しなきゃいけないんじゃないのか?」
「それもわかるけど……ううん、ダメ。ぜんっぜん心の整理ができない! 今日はこのことで頭がいっぱいになっちゃうだろうなあ」
「でもちゃんと授業は受けるんだぞ。来年からは中学生になって勉強が難しくなるんだから、いまのうちにマジメに勉強しておかないと――」
「私、そんなに成績悪くないし、授業は毎日ちゃんと聞いてるよ」
リオンは怒ったように少し大きな声でこたえてから、赤いランドセルを背負ってリビングから出ていった。
そして玄関の扉が荒々しく開く音が聞こえた。
父はテレビに映るキダッチを見ながら、下卑た笑みを浮かべる。そしてその父の姿を横目に、母はあきれた表情を見せ、ため息をついた。
実に平和な、島田家にはよくある光景だった。
ぼくも含め、だれもリオンが本当に怒っているとは思っていない。
きっとリオンは平然とした顔で、学校から戻ってくるにちがいなかった。
小学6年生のリオンが通う小学校とは別の方角に、ぼくの通う学校はあった。
今は6月。甲聖高校に通いはじめてから、3ヶ月目に突入しようとしていた。
6月は春と夏の境の梅雨時でもあり、また、高校1年生としてようやく色々なものに馴染めてくる時でもあった。
どの道が最短ルートなのか。
どの道が人と車で混雑しているのか。
どの道が高校に入ってから仲良くなった友だちと出会いやすいのか。
そういうものがはっきりとわかる時期だった。
通学路を歩いていると、カラスのたまり場となっているゴミ回収所にぼくは遭遇した。
こういうカラスのたまり場にも慣れてきた時期でもあった。
しかし慣れたとはいえ、その姿はスズメや鳩とはちがい、コンビニでたむろする不良のように、やはり浮いた存在に見える。ネットの奥にあるゴミ袋のなかに頭をつっこみ、朝から忙しそうに残飯をあさる黒々としたカラスの姿は、やはり怖さがあった。
ぼくは不良を避ける要領で、カラスたちを避けようと歩く。カラスは賢い動物なので邪魔をすれば最後、顔はいつまでも覚えられることになる。それどころかカラス同士で邪魔をした人物の情報は共有され、周囲のカラスたちはみんな敵になってしまう。
その学習能力と情報共有力はまさにゲーム『リング・オブ・ファンタジア』に出てくるモンスターのようでもあった。
ただぼくはゲームのように、戦うことを選ばない。
ぼくは無残に散る残飯を避け、鳴きわめくカラスたちを尻目に、その場から穏便に立ち去ることにした。
しかし穏便にはどうも立ち去れそうになかった。
うしろから1人、ぼくに向かって騒がしく走ってくる人影が見えた。
「コウ、おはよう! 今日も朝からカラスがやかましいね」
「やかましいのは孝美のほうじゃないか」
「そう? こいつらの方がやかましいよ」
首をかしげる浅野孝美は、足元にいるカラスを蹴散らすそぶりを見せた。
当然、カラスはその黒々とした瞳をにぶく光らせ、羽を大きく広げ激昂した。
「ほら?」
そう言って孝美はイタズラっぽく笑うと、ぼくの手をひっぱり、その場から逃げだす。
激昂したカラスは羽を広げて騒がしく鳴くだけで、ゴミ袋の残骸からはなれようとはしなかった。
そしてしばらく走り続けた。
しかしぼくは途中で足を止め、孝美の手をはなす。尽きることのない孝美の体力についていけなくなり、ぼくは息を切らしていた。
「男のクセに情けないな。引きこもってゲームばかりしているから体力がないんだよ」
確かに孝美はぼくが驚くほどつねに元気だった。そしてやり場のないあまったエネルギーを無駄遣いするかのように、こうやって突然走り出したり、周りを巻き込んだりしては、いつも騒がしそうにする。
ただそうやって元気な男の子のように激しく動くとき、孝美は短くしていた制服のスカートをはためかせ美脚を露わにすることが多い。そしてその一瞬は、ぼくを含めた男の視線を何度も虜にしていた。
「それはそうだけど、今は孝美だって同じぐらいゲームやっているだろ」
「私はコウより時間の使い方が上手いからね。運動とゲームの両立が上手くできるんだよ」
そう言って孝美はドヤ顔をしてみせた。
ぼくの目の前にいる孝美も快活な運動系女子でありながら、ぼくと同じく『リング・オブ・ファンタジア』のプレイヤーの1人だ。
ぼくは孝美よりプレイヤーとしての経験はある。だけど孝美は現実の運動センスとゲームセンスの両方が備わっているからか、孝美のレベルはぐんぐんとあがっていき、ぼくに近づきつつあった。
「さ、そろそろ行こうよ、コウ。こんな道ばたで休むより、教室で休んだほうがいいよ」
孝美が手をさしだした。ぼくはその手をつかんで、ゆっくりと立ち上がる。
そのとき、ふとぼくは横からの視線に気がついた。
ぼくと孝美のそばに、甲聖高校の制服を着た少女が1人立っていた。
「あ、里香だ。おはよー」
「おはよう。なんだか2人とも、朝から仲がいいね」
そう言ったのは新田里香だった。里香はいつも見せるおっとりとした笑みを浮かべていた。
そして里香の視線の先を見る。
その視線のさきに、いまはぼくと孝美の手があった。
ぼくはまだ孝美の手を繋いだままだった。
急に恥ずかしくなったぼくは孝美から手をはなし、何事もなかったかのように「おはよう」とうわずった声で言った。
里香はそんなぼくに、他意を含むことのない「おはよう」の言葉をくれた。
里香は快活な孝美とはちがって、おっとりとしたやさしい性格の持ち主だ。それにスレンダーな体つきと艶やかな長髪を併せもっていたことで、女学生の見本となるような清楚さを保っている。
そんな里香ともまた、『リング・オブ・ファンタジア』プレイヤーとしての繋がりがあった。
里香の場合は甲聖高校に入って孝美に誘われてからゲームを始めたので、まだプレイ時間は短かった。簡単でお使いのようなクエストを一通り終えて、物語の根幹に関わるミッションをこなすようになったばかりの初心者プレイヤーだった。
だからぼくと孝美と里香の3人がゲームにログインしているときは大抵、里香をサポートすることが多い。そして、そのサポートのために、ぼくたち3人は同じギルドに所属していた。
そのギルドの環境に満足してしまったがために、ぼくたち3人は部活に入るタイミングを逃してしまっていた。だから高校に入ってからの親しい仲となると、不思議なことに、男ではなくこの2人になる。
「ところで里香。頬、少しケガしているけど、どうかした?」
孝美が遠慮なく里香の頬に指をさす。
確かに里香の頬には、柔らかな顔つきには似合わない一筋の小さなキズがある。
「ちょっと寝ている間に、ベッドから落っこちちゃって……」
と、里香はなんだかバツが悪そうに下を向きながら答えた。
里香は時々ケガをする。ぼくは見たことがないけれど家ではドジッ娘なのか、腕やひざに絆創膏が貼ってあることも珍しくはなかった。
だけど孝美は、そんな珍しくない里香のケガを不審そうにじっと見つめ、少しの間、黙り込んだ。
しかしすぐに笑顔を浮かべて孝美は口を開いた。
「ふーん、そっか。ならいいわ。もう里香はドジッ娘なんだから、気をつけなよ!」
「うん、気をつけるよ」
2人は笑顔で言葉を交わした。
そしてそのまま他愛のない雑談が始まり、ぼくもその雑談に加わりながら、学校へと歩みはじめた。
しかしぼくの頭のなかでは、里香のケガを不審そうに見つめる孝美の顔がずっと脳裏から離れそうになかった。
少しだけ違和感があった。
ただ、なにがどう違和感を覚えるのか、具体的には言えそうにない。