~出会う二つの月~
序章~月の独り言~
その夜は雲も少なく、見事な三日月が浮かんでいた。薄く微笑んだ月の光は弱々しい。けれど、彼女には眩しく見えた。普段、その身に陽の光を受けられない彼女は、月の光だけを浴びている。それが彼女にとっての太陽だった。
いつもは降ろされている窓の格子戸も、三日月の夜と満月の夜だけは開いている。その隙間からこぼれる光に、少女は目を伏せた。
「三日月……今夜は一段と綺麗。雲がないからかなぁ……いつもより眩しくて、あまり見られないのが残念――あ、いいえ、これで十分です」
一人ぽつん、と暗い部屋に立つ彼女の周りには、生き物などいない。話し相手のいない彼女の言葉は、闇に吸い込まれるだけ。けれど、彼女には聞こえているらしかった。彼女の言葉に返事をする、闇に溶けた何者かの声が。
「お休みなさい。また明日、お話ししましょうね」
三日月が薄い雲に覆われた。夜は更け始める。闇が広がる息遣いが聞こえた気がした。
第一章~花館~
日が沈み、月が空に浮かぶ頃。すっかり夜も更けたその時刻、昼間よりも賑わっている街があった。色とりどりの紙に透かされた灯が夜空をも照らす。その街ではまだ誰一人として眠ってはいないように思われた。
通りの両サイドにはいくつもの店が立ち並び、客引きが通りを歩く人を捉まえている。店はどれも甘い香を焚き、美しい女たちが客引きをしている。見るからにいかがわしい店だが、それがこの街の存在意義なのだ。勿論警備隊に捕えられたりはしない。
そんなわけで甘ったるい香りの充満したその通りのある街は、夜街と呼ばれていた。その夜街を、声をかけてくる女たちには目もくれずに歩く男が一人。男はとても整った顔立ちで、周りの女は微かに頬を染めている。一目でそれとわかる上質な着物を着たその男は、気だるげに髪を掻き上げた。
「ちょっとそこの殿方、うちに寄って行ってくださいな」
「まぁ、素敵な殿方。わたくしと遊んでくださいまし」
些細な仕草さえ色気を放つ男を、客引きの女たちは頬を染めて取り巻いた。目の冴えるような――有体に言えば派手な着物を着た女たちは、甘い香りがした。各々の店の香だろうか。男はわずかに顔をしかめ、女たちを手で制する。
「悪い、急ぎの用があるんだ。通してくれ」
男の言葉に女たちは残念そうな顔をしながら離れていった。そしてまた別の客を捉まえに行く。女たちから逃れた男は、きらびやかな店と店の間に足を踏み入れた。周りが夜であることを忘れてしまうくらいに明るいせいか、その隙間に出来た広めの路地はやけに暗く感じる。
薄暗い路地をしばらく進むと、甘い香の匂いは薄れて行った。もう通りの灯りは見えない。ほとんど香の匂いがしなくなった頃、道の奥から弦楽器の音が聞こえてきた。その音色がはっきり聞こえてくると、男は顔を上げる。その視線の先には、立派な館があった。
その館からは弦楽器だけでなく、笛の音色もしていた。入口らしき所の前には、行燈がある。行燈に照らされ、館の看板が浮かび上がっていた。
〝花館〟――それがこの館の名前。ここは、舞妓や鼓奏女たちが客をもてなす店。表の通りのような、いかがわしさはない。ひっそりと佇むそれに、男は吸い込まれるように入って行く。
花館に入ると、民家のようにこぢんまりとした小奇麗な玄関が男を出迎えた。男は迷うことなく、右側にあった戸棚の、上から三段目左から二番目の戸を開ける。と、呼び鈴が出てきた。それを軽く振ると、可愛らしい鈴の音が鳴る。
「お待ちしておりました、上月様」
呼び鈴を鳴らすと、奥の通路から女の声がした。そちらを見れば、浅葱色の着物を着た若い女。男――上月はその女に微笑む。女も同じように微笑み返して、頭を下げた。