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閂を急いで下ろす。
次の瞬間、扉が恐ろしい勢いで叩かれて軋みを上げた。
「おうこら、出てきやがれ!! 痛てぇ様にはしねぇぞ!!」
「あれだけ切なげで良い~声で鳴いてたんだ、欲求不満なんだろ?
俺たちは欲求不満の解消を手伝ってやろうとしてるってのに、そりゃあんまりだぜ? なぁ?」
「ヒヒヒッ、いい夢見させてやるぜ?」
扉越しでややくぐもった声になっているが、男たちは口々にそんな事を言う。
彼らは昨日のアレを盗み聞きしていた連中だろうか。
羞恥心で顔が赤くなる。
だが、それと同時に少々カチンときた。
言わせておけば欲求不満などと心外な。勘違いも甚だしい!
「うるさい! 私は自分の体がどうなっているか興味があって調べていただけだ!
君たちが何を勘違いしているかは知らないがな、あの声は思っていたよりも感度が凄くて私の声が抑えられなかっただけであってだな!」
売り言葉に買い言葉で、扉越しに怒鳴りつける。
私の勢いに気圧されたのだろう、扉の向こうの男達は一瞬静かになった―――。
「いやお前そりゃ結局溜まってたって事じゃねえかよ」
「なんでえ、やっぱりスケベな女じゃねーか」
「ヒヒヒヒヒッ」
―――のは気のせいだった。
私の発言の何が面白いのか、彼らはげらげらと笑い出す。
顔色が赤を通り越して真紅に染まりそうだ。
(この……この、ぐぬ、がああ、こいつら!)
怒りと恥ずかしさで、頭がおかしくなってしまいそうになる。
しかし、しかしだ。私は無理やりに気を落ち着かせた。
私は別に欲求不満ではない、少々空腹ではあるが睡眠はしっかりとっている!
昨日の私の行いは、ただの研究、調査、確認作業であって、
決して性欲に駆られてしまいまともな思考もままならないまま、欲望のままに己を慰めた浅ましい行為ではないのだ、断じて!
と言うよりも、昨日感じたあの感覚がまだ性欲に起因するものであるという証拠はない!
前世で私は一度も性感を受ける事なく生涯を送ったのだから、昨日のアレがハッキリと性感である、と決め付けられる理由もなく―――。
「お呼びでしょうかレナ様、今回はどういったご用件で―――」
と、そこで暴走しかけていた私に冷や水を浴びせるが如く、トーキィが現れてくれた。
「助けてくれ!!」
心の底から助けて欲しいと思った。
今の私はとことん冷静じゃない。
私のヘルプに応じてくれたのか、トーキィは六対の羽を微振動させながら扉向こうの連中に注意を向けた。
しゃらり、しゃらりとした耳心地のよい快音と共に、トーキィが告げる。
「―――状況を把握致しました、問題解決の方法として戦闘と逃走、二つの選択肢が推奨されます、どちらがお好みですか?」
戦闘と逃走。
戦闘、という単語に僅かばかりだが心が躍るものの、あまり悩んでいられる時間はなさそうに思える。
現に、卑猥で乱暴な言葉と共に叩きつけられている扉は、今にも閂が壊れて弾け飛びそうで頼りない。
第三者に助けてもらう、という選択肢がないわけではないが、
この騒ぎを聞きつけて、警察もしくは自警団のような治安組織が到着するのを待っていられる時間は、残念ながら無いようだ。
仮に戦闘を選んだとすれば、まず負ける可能性はないと言い切れる。
それは返答待ちのため待機しているトーキィが持つ、支援システムが強力無比である事を知るがゆえ。
だが、戦闘を行えば必ず大騒ぎになるだろう。
人を殴るどころか叩いた事のない私が、果たして適切にこの場を切り抜ける事が出来るだろうか?
答えはおそらく否。
初日、いや二日目だったか。二日目から面倒ごとはごめんだ。
もう既に面倒ごとに巻き込まれている気がするが……まぁいい、気にしても仕方あるまいて。
「逃走だ!」
私はトーキィに答えた。
「かしこまりました、逃走用支援プログラムを展開。
"兎の逃げ足Lv1" "軽業師の心得Lv3"を一時的に習得します。
逃走用ルートとマップを、レナ様のHUDに展開します。
以降はこのルートに従い逃走してください。」
すると、私の体を中心に囲うようにして、光の輪が広がった。
腹の辺りで展開された光の輪は、上下に二分割され、下方は足裏まで、上方は私の頭の天辺まで到達すると光の粒子となって消えた。
「おおおおっ?」
光の輪が消えたと同時に、それは訪れた。
理想的な走り方、体の構え、呼吸の仕方。
高所からの安全な飛び降り方、高い塀の登り方、碌な踏み場もないような細い道の渡り方。
知らない筈の知識、経験が濁流と化して私に襲い掛かった。
くらり、として思わずたたらを踏んだ。目も開けていられない。
凝縮された情報が脳内を駆け巡り、それを無理やりに高速処理してしまった結果、酷使された脳が労働基準法違反を訴えてストライキ中。
なぜかそんな光景が浮かんだ。
常日頃からブドウ糖をよこせよこせと喚くくせに、何がストライキだ。
「…………っ馬鹿馬鹿しい」
眉間を押さえ頭を振ると、そんな馬鹿げた光景は消え去った。
瞼を開くと、私の視界には大きな変化が訪れていた。
私の視界の中、薄く緑色に延びる矢印が、閉じたガラス窓を指している。
視界の左上には、周囲の地形らしい地図表示と東西南北の表示がある。
地図は現在この一室を表示しており、表示部には色のついた丸が幾つか。
丸は合計五つあり、青色の丸が一つと、そのとなりに白線の丸が一つ、二つの丸のすぐ近くには、凶暴そうな赤色の丸が三つ。
成る程。
この逃走用支援プログラムは、とてもわかりやすい。
青は私、白線の丸はトーキィ、そして赤色は彼ら男たちのものだ。
とどのつまり、私は彼ら赤丸に捕まらないように、緑色の矢印に従って逃走すればいいわけだ。
……支援プログラム様様だ、先ほどの服の一件といいトーキィには頭が上がらない。
「ありがとう、頼ってばかりですまないな、トーキィ」
「いいえ、これぐらいはお安い御用です、レナ様」
「おらおら! 何さっきからぼそぼそ独り言言ってんだよ!? 無駄な抵抗は止めて扉を開けやがれ!」
男の罵声に振り返ってみれば、とうとう扉に亀裂が産まれていた。
亀裂はあっという間に広がり、ばきばきと音を立てる。
閂が最後の抵抗とばかりに扉を押さえつけているが、もうそれも持たなさそうだ。
「まずいな、早く逃げないと」
「そうしたほうがよろしいでしょう」
トーキィも同意見のようだ。
私は背嚢を背負い、忘れ物がないか一室をざっと確認してから、ガラス戸をあけた。
窓枠に片足をかける。
その時、男たちの侵入を阻んでいた閂がばきりと砕けた。
無残な木片と化した扉を踏みつけながら、息の荒い男たちがずかずかと部屋に入り込んできた。
窓から逃げ出そうとしている私と、ぎらついた目つきの男たちの視線が交錯する。
「てめぇッ!! 逃げる気かっ!!」
三人衆のうち、一番体格の大きい男が血相を変えて叫んだ。
ふふん。野蛮な君達の命令に誰が従うものか。
初めと少々趣が異なってしまったが、扉も窓も外界に通じる出口である事に変わりはあるまい。
逃走が前提、である事が多少不愉快ではあるものの。
「ふははは。君たちはそこで指を咥えて見ているがいいさ!!
これが私の始めての外出だ!! 多少のトラブルはあったが、最早誰にも邪魔はさせないぞ!!
私はこれから、この世界に羽ばたいてゆくのだ! はっはっは!!」
聞く耳持たぬとばかりに、私は清清しい気持ちでそう言った。
左手でピースサインを作り、側頭部にそっと当てる。
ついで、ウィンクをばちこーん。と決めてみる。
きらり、と星が飛んだだろうか。
二十一世紀代の歴史書に、こうすると女性の目尻から星が飛び出す描写が比較的多くの
漫画や小説、アニメーションで用いられていたとの表記があった。
女性になったら一度はやってみたいな―――私はそう思っていた。
その結果はいかに。
「…………」「…………」「…………」
男達は一様に面食らった表情だ。
星が飛んだのか飛んでいないのかの判断材料に欠けるが、まあいいだろう。
「さらばっ! 男子諸君!」
「ちょっ、まてっ」
体格の大きい男が手を伸ばすが、もう遅い。
私は窓枠にかけていた足に力を込めて、窓の外へと飛び出した。
「フリーーーーーーーーダム! 私は自由だっ!!」
青い空、白い雲、私のすぐ近く、街中にそびえたつ、新緑が映える雄雄しい大樹。
全てが美しく新鮮に映る。
ああ―――これこそが、世界。
無機質でつまらなくて、何時まで立っても変化のない私の仕事場件自宅ではない。
世界は、驚きと変化に満ちている!
そう、例えば眼下に映る、こちらを驚愕の表情で見つめる小さな子供たちだとか――――――ん?
「――――――ちょっ、高い高い高い!!」
無意識に口にする。
さあっ、と血の気が引いた。
あの子供たちがいる広場と私との距離は、ゆうに建物三階分の高さがある。
「大丈夫、レナ様。あなたならば無傷で着地が可能です」
ううむ、おかしいな。
トーキィがおかしなことを言っておられますぞ。
エラーかな?
たしかに私は世界に飛び立ちたいと言いましたが、それはあくまで比喩であり物理的ではなくてですね。
何も本当に飛ばなくてもよかったのでは。
こんな高さから落ちたら、常識的に考えて無傷で済む筈がないでしょう?
―――しかし、支援プログラムの効果は絶大であり、常識をことごとく打ち砕く。
急速に迫る地面を前に、私の意識は恐れから瞼を閉じる事を選択したが、体がそれを許さなかった。
不自然に見開かれた眼が、それを捉えた。
まず、私は両手で頭を押さえた、手は握りこぶしのままだ。
足が地面に接触する。
次の瞬間、私は体をひねらせた。
そのまま落下の勢いに身を任せて、膝を地面に当てながら横向きに倒れ込む。
激しい勢いのまま転がった私は、頭を押さえた手をクッションにしながら逆立ちするようにして足を空に広げた。
落下の衝撃が空中に霧散する。
私はそのまま足を下ろして、するりと立ち上がった。
―――五設置回転法。
たとえ三階建ての建物から硬い地面に落下したとしても、無傷で着地できる技術。
私の脳内で、今現在行った神業じみた動作の名称が浮かんだ。
「嘘だろ」
遠い頭上から、呆然とした男の声が聞こえた。
ぽかんとした顔をした子供たちが、私を見つめている。
私も同じ気分だ、あの高さから落下して骨折はおろか打ち身の一つすらないのだから。
今の動きは最早、意識的な動作というよりも体に染み付いてしまって、無自覚に行ってしまったと考えたほうがしっくりくる滑らかな動きだった。
先ほどの経験の濁流はこれの為か。
凄まじい、なんてことだ。
「――――――楽しいかもしれない」
一歩間違えれば大怪我をしたかもしれないというのに、私の胸は高鳴っていた。
「ねーちゃんすっげーーーーーーー!!」「マジかよ!!」「おねえちゃんすごい!!」
着地点の近くにいた子供たちが、歓声と共に寄って来る。
「あれどーやったの? おしえてよ!」「かっけー!! かっけーー!!」「おねえちゃんけがはないの?」
「お、おおう」
怒涛の勢いの子供たちに、たじたじになる。
「ねーちゃんおっぱいでっけーな! さわっていい?」「あっ、ずるいぞ!」「あたしもさわるー!」
あ、と思った時は既に遅く。
子供たちが私の胸を無遠慮にべたべたと触り始めていた。
「あ、こら、やめないか君達。胸はびんか、ひゃうっ」
子供たちをたしなめようとするものの、その、ちょっと変な声が出てしまう。
「なにこれ、かーちゃんのおっぱいよりもっともっとでかい……」「うん……」「ほんとだ……」
始めは無邪気に喜んでいたものの、やがて子供たちは神妙な顔つきで私の胸を揉み始めた。
あの、そろそろ止めていただかないと、あっあっ。
手つきが、んっ。
「やめ、やめて、なんでそんなに、触り方がやらしいんだ君達は、んっ」
「テメェ! なんで俺たちはダメでガキどもならいいんだよ!! おかしくねぇかそれ!?」
「あっ」
先ほど飛び降りた窓のあたりを見上げれば、顔を真っ赤にした男たちがぎゃあぎゃあと喚き散らしている。
そういえば彼らの存在をすっかり忘れていた。
「いいか!! そこで待ってろ!! キレたぜ俺たちゃ!! お前を徹底的に犯してやる!!」
私に人差し指を突きつけて叫んだ彼らは、体を窓から引っ込めた。
恐らくあの宿屋から出て私のところに来るつもりなのだろう。
流石に三階の高所から飛び降りるなんていう、無謀な真似はしないようだ。
自分で言っててなんだが、よくもまあ無事に着地できたものだ。
顔を下げ、私は子供たちに優しく言った。
「すまない君達、私は今こわ~いお兄さん達に追われているんだ、だから私の胸を揉みしだくのを止めてくれないか」
「え~~~、やだぁ~~」「やだぁ~」「やだっ」
私が頼み込んでも、胸を揉むのをやめない。
なんだろう、この世界の子供たちはかなり、ませて、いるのだろうか。
それとも私の胸の大きさが珍しいからか?
どちらにせよ、初対面の相手の胸を揉みにかかるような常識の無さは度し難い、教育機関は何を教えているんだ。
「ええい、どきなさい! めっ!」
「ねーちゃんがおこった!」「にげろにげろ!」「きゃ~っ!」
怒った顔で子供たちに言うと、子供たちは笑いながらあちこちへと走っていってしまった。
ひとまずは、これで彼らを私のトラブルに巻き込む心配がなくなっただろう。
軽く嘆息し、着地の際に飛んでいってしまった背嚢を拾い、背負う。
石畳の地面が続くこの広場からは、三つの道が伸びている。
前方左右の道のうち、緑色の逃走ラインは前方を指し示していた。
「――――――すごくいやらしい手つきだったな」
胸に残る感触を思い出しながら、そんな言葉が口からついて出た。
何を考えているんだと、私は頭をこつん、と叩いて、前方の道へと走り出した。
・
軽快に動く足の裏から、石畳の小気味良い感覚が伝わる。
こっこっこっ、こここっ、こっこっ。
跳ねるように、駆けるようにして、走る。
迷惑そうな顔でこちらを非難する人々を上手に避けながら、私は道を走り続けていた。
緑色の逃走ルートは、人々の間を、時には建物と建物の隙間を行く。
私はそれに正確に従い走りつつも、眼に映るこの世界を堪能していた。
街はとても広く、それなりの間隔をあけてレンガ造りと石造りの家が立ち並んでいる。
太かった道幅は狭くなったり広がったりを繰り返し、時には家と家の間に繋がった紐に洗濯物がかけられている光景もあった。
指定保護生物の馬が引く馬車があった―――地球で馬に荷物を引かせた場合、指定保護生物を傷つけた容疑で禁固三十年は硬い。
顔が絶滅種のトカゲそのものなトカゲ人間が、ずた袋をもってぶらぶらと歩いている。
立派なひげ面の男が血まみれの刃物を振り上げて、鶏の首を切り落としていた、これが噂の肉屋という店だろうか。
商業地区に出たのか、流れる風景の大半に出店が映る。
出店に並んでいる商品は、私には何に使うのか全くわからない、へんてこな見た目の道具じみた何かとか。
鈍く光を反射する剣―――これは理解できる、生物を殺傷する為の武器だ。
商品も気になるが、居並ぶ人々も非常に興味深い。
道を行きかう人々は、肌の色も違うし、見た目も違う。
なにより、女性の人も居る。
目に入る全てが、未知だらけだ。
「はあっ、はあっ、はあっ、ははっ、ははははっ」
私はランナーズハイのような、過剰に分泌された脳内麻薬の存在を感じ取った。
あれは何だろう? 何の為の道具だろう? あの人はどんな職業だろう? あの人は商人?
あれは何の肉? あの人は人間? それとも犬人間? あるいは狼かも?
あれはリンゴ? あれは? あれは? それは? これは? それは? あれは?
脳内を染め上げる、ハテナの山。
知りたい、皆知りたい。
脳が貪欲に知識を求めている。
映像でしか見られなかった、外にある物全てが私の目の前に、触れられる位置にある。
私は今、本当に外にいる。
「ははっ、はははっ、はははははっ!」
私は――――――今とても幸せだ。
―――その日、笑いながら第三都市商店街地区を疾走する、巨乳の女の話が出回った事を知ったのは翌月の事だった。