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レナ・ナナセの素晴らしい日々に男は要らない  作者: 山梨明石
二人が出会うまでの六ヶ月
10/21

 ゴブリン達を惨殺した後、私は急激な脱力感に襲われた。

 戦闘を終えたことで、一時的に習得した技術(スキル)が失われた影響によるものだ。

 いやに冷静だった思考能力と、戦闘時の高揚した精神が消失して、我に返った私は辺りに散らばる元はゴブリンであった肉塊を目の前にして、猛烈な吐き気に襲われた。

 きもち、わるい。


「うぷっ」


 胃がせりあがり、食道を胃の内容物が駆け上がる。

 とっさに手近な木に手を付いて、げえげえと嘔吐した。

 喉の粘膜が胃酸で傷ついて痛む。

 木の足元の下草が、私の吐しゃ物でデコレーションされた。

 植物に意識があったら、これはかなりのいい迷惑だろうな。

 散々吐いて吐いて吐きまくった私は、粥のような吐しゃ物の中に浮かぶ腸詰の欠片を見た。

 せっかく食べた朝食が、もったいないなと、私は思った。


「レナ様、周囲に他の敵性生物の反応はありません。

ですが血の臭いをかぎつけた他の魔物が、レナ様の存在に気がつかないという保障はありません。

体調が戻り次第、ゴブリンの耳を切り取る事を推奨します」

「…………うん」


 口をワンピースの袖で乱暴にぬぐった。

 生還の喜びも、勝利の興奮も程遠い。

 血なまぐさくて、暴力的で、極めてグロテスクなゴブリンの死体が、

無言のまま、私に冒険者として生きるなら、これ(・・)と常に付き合っていかなければならないのだぞと訴えている。


「わかってる」


 私はトーキィと物言わぬゴブリンの死体に、返答した。

 充分にわかった、理解した。

 心的外傷を負いかねない、非常に強烈な体験だった。

 けれど、そのおかげで私は自分の身を持ってしかと学んだ。

 次は、もう迷わない。躊躇しない。

 私は私の都合の為に、他者の生命を終わらせる。

 その結果や、是非については全てが終わってから自らに問えばいい。


「きみたちが先に襲いかかってきた以上、こちらから謝る必要性はないかもしれない」


 ふらつきながら、投げた短剣を回収しにいく。

 静かな森の中、四散した血と脳漿にまみれて赤と緑のコントラストを描く凄惨な現場にたどり着く。


 ゴブリンの頭部をはじけさせた短剣は、辺りと同じく血と脳漿まみれだった。

 ぐちゃどろの短剣を見たことで、再び襲い来る吐き気を我慢しつつ、適当な草で全体をぬぐう。

 何度かくり返すと、持ち手を握っても不快感がなくなる程度には、綺麗になった。

 私は血の汚れで曇った短剣を、ゴブリンのはじけた頭部の右側の耳元にあてがった。

 短剣の切れ味はよく、少し力を込めるだけで耳に切れ目が入った。


「でも、私は、きみたちを殺した。命を奪ったんだ」


 ―――これは私なりの、けじめだ。


「すまない」


 耳の骨ごと折り斬るように、短剣を一息に力任せに押し込んだ。



 血と悪臭漂わせる、植物のツルを通して数珠繋ぎになった五つのゴブリンの片耳が、恨みがましくぷらぷらと揺れる。

 私はそれを、血まみれのワンピースの袖を切り裂いて作った布で包んで、背嚢の中に突っ込んだ。


 ゴブリンの死体はそのままにしておく。

 トーキィ曰く、野生動物か魔物が勝手に食べるので、放置していても問題はないとのこと。

 もうここですべき事は残されていない。

 私は、生涯初めて生命の危険と、生命の殺傷を経験した森を後にし街に引き返した。


 途中、物珍しい岩場に立ち寄る。

 そこは大きな岩が円を描くように並び、さながらストーンサークルのようだ。

 その中心部は街道のように整えられていて、焚き火の跡があった。

 ここを通りがかった人が休憩の為に使ったのだろう、岩が大きく防風壁になるし、寄りかかる事も出来る。

 私はそこで、一旦服を全て脱いだ。下着もだ。

 背嚢から質素な手ぬぐいを取り出して、乱暴に体を拭く。

 こびり付いた血が乾燥してぽろぽろと剥がれ落ちたが、全て綺麗にする事は出来なかった。


 ある程度体を綺麗にした後、トーキィが新しく生成した服を着る。

 今まで着ていた物と同じものだ。

 血で汚れた服は、一旦まとめて適当に背嚢の中へ突っ込む。

 折を見て捨てるか燃やすかなりして、処分する必要があるだろう。


 血の付着した箇所が多いものの、一応それなりの体裁が取り繕えた。

 流石に全身血濡れで街に入ろうとしたら、誰だって不審がって私を止めるだろうしな。

 岩場から離れ、私は再び街道沿いに歩き始めて、それなりの時間をかけて再び街に戻った。


 血の臭いを漂わせた私を見て、兵が眉根を寄せる。

 通り掛けの堀を流れる水をみて、思わず飛び込んで体の汚れを落としたい衝動に駆られたが、私は我慢して門を通り抜けた。


 トーキィが示す案内図に従い、冒険者ギルドの近くにたどり着く。

 なるべくナビゲーションに頼り切らないように、道順を努めて覚えようとしたが、中々に難しく覚えきらなかった。


 この世界の生き方、常識、何もかもが欠けている私にとって、トーキィは今のところ必要不可欠な存在だ。

 トーキィは優秀な支援プログラムだが、私自身が優秀というわけではない。

 何時の日か、ある日突然トーキィの支援が期待できなくなった時、トーキィに頼りきりだった私はどうなる?

 きっと、本当にどうにもならなくなる、自分で自分の身を守れなくなる。


 先のゴブリンの一件、トーキィはあえて支援を行わなかったと言ったが、トーキィは私が本当に危なくなったら手を貸してくれただろう。

 でも、でもだ。

 もしも、本当に何もせず、私が犯されるのを、食い殺されるのをただ見ているだけだったら?


 そんな事はないだろうと、私は思う。しかし、世の中に絶対なんてない。

 トーキィが実は致命的なバグを抱えた、欠陥AIプログラムである可能性も、ないとは言い切れない。

 私個人としても、前世社会の技術力の観点から言っても、その可能性は極限に低いのだが―――。


「私はトーキィを信頼してる、それは今も変わってない。

けれど、世の中何が起こるかわからない、私自身が強くなる必要がある」

「レナ様?」

「ね、トーキィ、約束してくれない?」

「何を、でしょうか」

「絶対に、私を守ってくれるよね?」

「ええ―――私はあなたの支援プログラムですから」


 口約束ではあるが、トーキィ本人の言葉に、私は少なからず安心した。

 とりあえず今は、これで良しとしよう。

 大事なイベントも控えている事だし。


「―――さて、いこっか」

「そうですね、あの人達を安心させてあげましょう、レナ様」

「うん。あーあ、なんて謝ったらいいのかなぁ」

「謝罪用支援プログラムを展開いたしますか?"DOGEZA.Lv2"や"女の涙Lv3"の技術(スキル)を一時的に習得可能ですが」

「う……いらないかな、なんか名前からして使いたくないよ」

「了解致しました、では独力で?」

「うん、そうする」


 あの強面のおっかなくて、本当は優しい人達に謝らなければ。

 私は頭の中で謝罪の言葉をあれこれと考えながら、冒険者ギルドへ歩を進め、両開きの扉をゆっくりと開いた。








 私の冒険者登録が認められて、そろそろ約六ヶ月が経過する。

 すっかり馴染みの宿となった、閑古鳥のなく山鹿亭の一室、特別室扱いの一零二号室で、私は自分で目覚めた。


「おはようございますレナ様、本日のご予定は?」

「んー…………とりあえずギルドに顔出して…………めぼしい依頼があったらそれ受けて…………くらいかなぁ…………うん」


 朝は辛い、頭にエンジンがかかり暖気が終わるまで時間がかかる。

 よって、おきぬけの私の反応はそりゃあもう酷いものだ。


「かしこまりました、それでは休眠状態(スリープモード)で待機します」


 ここのところ、私はトーキィを休眠状態(スリープモード)で待機させるようになった。

 決してトーキィの存在が邪魔くさくなったとかではなく、なるべく支援プログラムに頼りきらない生活を送る為の自主トレーニングのようなものだ。

 それに、絶対にトーキィを呼んではいけない、などと自らに枷をかしているわけではない。

 どうしても助けが欲しいなと思えば、私はトーキィを呼んでいる。

 トーキィ自身も心得たもので、今の私ならちょっとやそっとでは危険な目に遭わない事を承知しているからこそ、大人しく休眠状態(スリープモード)でいてくれるのだ。


「ひぃー、朝はちょっと冷えるなぁ。うーさむさむ」


 宿の一室を改造して作った洗面所に立つ。

 壁に張ってある小さな鏡と、身だしなみ用の道具を置く棚。

 後は台の上に木桶が置いてある程度の簡単なものだ。

 木桶の中に、ストックしてある水の魔石を投入して魔力を込める。

 小さな水の魔石は魔力に反応して、木桶の中に水を生成した。

 木桶に水が張られると、石は解けるようにして消え去る。

 私は木桶の中から水を掬い、顔を洗った。


「ちべたい」


 壁掛けから布を取り、顔を拭く。

 自分で作った枝楊枝を棚から取り出して、それで歯を磨きながら思った。

 始めに宿泊した時と比べ、この部屋も広くなった。

 宿の一室というよりも、最早私専用の一室と言い換えたほうが早い。

 それは何故かといえば、私はこの部屋を五年分前払いして取っているからだ。

 なので事実上この部屋は私の部屋なのだ、無茶苦茶だが、とにかくそうなのだ。

 経営難に苦しむ山鹿亭に舞い降りた上客とはつまり私の事、持ちつ持たれつの関係なので、これぐらいの暴挙はガムラン氏も目を瞑る。

 ちなみにガムラン氏とは、山鹿亭の店主たる老人の名だ。


 歯磨きを終えた私は、一度口を水でゆすいだ後、別の小さな桶に吐き出した。

 これの中身は窓から捨てる。

 幸いにして水はけの悪い石畳ではなく、むき出しになった地面があるので丁度いい。


 先日購入した洋服箪笥の中から、適当に外套を一つつまむ。

 基本的に身軽でいる事を求められる冒険者だが、寒いのだし今日くらいこれを着ててもバチはあたるまい。

 スクリームボアの毛皮で作られた外套をベッドに放り投げ、私は再度箪笥の中を見た。


「うーん…………これと、これと、これかな」


 パパパッと装備を選択する。

 ジャイアントスパイダーの糸で編まれた、物理耐性に優れる白のチュニックワンピース。

 炎の祝福が施され、火炎耐性の上昇する、くるぶしまで長さのある、炎の祝福された黒レギンス。

 簡素な装飾と侮るなかれ、筋力上昇の恩恵が込められた、力のネックレス。

 なんの変哲もないけれど、私のお気に入りであるブラウン色のショートブーツ。

 剣やその他の武器は背嚢にしまってあるので、持ち出さない。

 私の今日の装備が、決まった。


 寝巻きから着替えた私は、姿見を確認する。

 左手で前髪をかきあげると、少し伸びた髪で隠された、左こめかみに走る小さな切り傷の跡が見えた。

 いつもと変わりのない、私だ。

 冒険者ギルド、王都エクスバリア支部所属、下級冒険者のレナ・ナナセだ。


「もんだい、なし。そいじゃ朝ごはん!」


 なんとなく、今日はいい日になるのではないかと私は予感した。

 そうだな、可愛らしい女の子との出会いの一つでもあるかもしれないな。


 先日魔法使いのアナベルさん(十八歳、女性)と、喫茶店で魔法の勉強会をしてからもうだいぶ経つ。

 知的で寡黙なアナベルさん(十八歳、女性)と共に、魔法について学びながら紅茶を飲むひと時は至福だった。

 残念ながら脈はナシだったが、新たな魔法を学ぶよい機会だったし、何よりアナベルさん(かわいい)はとても可愛いらしかった。

 年に似合わず童顔で、からかうと顔ではなく耳が赤くなる所なんかが、かなりキュートだと思う。

 またああやって、女の子と一緒に喫茶店デートなんか出来たら良いのだけれど。


「ガムおじいちゃん! 今日の朝ごはんはなにー?」

「レナちゃんの好きな腸詰がメインじゃよー、もうできとるから、食堂にきてくれんかのー」

「本当!? やったやった!」


 驚いた、本当に幸先がいい。

 口の中が期待で一杯になり、唾が溢れてきた。

 私は鼻歌交じりに、食堂へ向かっていった。



「それじゃ、行ってきます」

「ほいほい、気をつけての」


 ガムラン氏の見送りを受けて、山鹿亭を後にする。

 激流のような人の流れにひょいと入り込み、するすると進む。

 前はこれに揉みくちゃにされるとあっという間に迷子になったものだが、もう慣れたものだ。

 私は人の流れに乗って、冒険者ギルドを目指す。


 冒険者ギルドがある領域に近づくと、人の流れも落ち着いて余裕が出来る。

 相変わらず雰囲気が暗いが、今やここは私のホームタウンだ。


「おはよー」

「お、レナじゃねえか。おはよう!」

「レナ! 俺は諦めちゃいねえぞー! また勝負しろよ! 今度は銀貨三枚レートだ!」


 相変わらず賭け事が好きな二人組みだ。

 こんな朝っぱらから、また絵札を使って賭け事に興じている。


「銀貨三枚って、大丈夫なの? 生活できなくなっても私知らないからねー?」

「うるせえ! 俺は賭博師として負けっぱなしは性にあわねえんだよ!」

「はいはい」


 賭け好き二人組みを軽くあしらいつつ、先へ進む。

 通りの途中、刃物屋の店主が目礼してきたので、私も同じく目礼で返す。

 彼は目つきが怖いものの、実は恥ずかしがりやなだけなのでこれぐらいの挨拶がいい。


「おはよレナちゃん、今日も綺麗でかわいいわね」

「ありがとう! エメラルダさんも綺麗だよ!」

「ふふふっ」


 娼館勤めのエメラルダさんだ。今日も相変わらず服装が際どい。

 彼女の格好を見ても平静でいられるようになったのは、いつ頃からだろうか。

 私自身の成長を感じて嬉しくなる。

 そのうち、彼女を誘って食事にでも行って見たい。応じてくれるだろうか。


 街を進み、通りを三回曲がる。

 すると、私の眼前に冒険者ギルドが現れた。

 相変わらず小汚いそこに、私は入り込んだ。

 両開きのドアが開いて、最近私がドアにつけた鈴が鳴った。


「おはよう!」


 元気よく挨拶をぶちかます。


「おう、おはよう」

「…………おはよう」

「今日もいい天気だな、レナ」

「おお、なんかいい事でもあったか? えらく機嫌がよさそうだな」


 今日もまた、冒険者ギルドで、普通の人が見たら怯えて仕方ないだろう、迫力に満ちた面々が私を迎えた。


「またサボって遊んでるの? みんな仕事は?」

「俺たちの眼に適ういーい仕事がねえんだよな、残念な事に」

「そうそう、俺たちゃ安い仕事はひきうけねー主義なんだよ」

「あーかったるい仕事ばっかりでつれーわー本当つれーわー」


 あきれた。

 先週金が無いからちょっと貸して欲しい、と土下座までしていたのは何処のどいつらだ。


「……で、朝から酒盛り?」

「おう、レナも呑むか?」

「お断りします。―――マスター! なんかいい依頼入ってないー?」


 全く持って度し難い連中だと思う。

 こんな気の抜けてふ抜けて、自堕落な生活を送るごろつき連中が特級(・・)冒険者だなんて信じたくない。


「フラれたな、ウルフェン」

「黙れギルバート、何時もの事だろうが」

「ま、そりゃそうか」


 ワーウルフのウルフェンと、片手が魔道機械式義手の剣士ギルバートが、何時もの応酬を繰り広げる。

 深淵の魔術師ダミアンが、くすくすとフードの下で笑った。

 ギルドの奥から、どかどかとけたたましい足音を響かせて猛獣男が飛び出してくる。


「おーう! よく来たなレナ!」


 冒険者ギルド、王都エクスバリア支部マスターのダン・ロベルトだ。

 猛獣の異名を持つ彼が勢いよく飛び出してくると、本当に猛獣が襲い掛かってくるようで怖いから止めて欲しいと常々言っているのだが、彼はそれを治す気配が全くない。

 ダンは私を見ると、嬉しそうに私の肩をバンバンと叩く。

 ギルドに入りたての頃はそれがあまりに強烈で、壁まで吹っ飛んでしまった事がある。

 あのときの皆は相当慌てていたなぁと、昔の事を思い出した。


「おはようマスター。今日も来たよ」

「おうおう、ちょっと待ってろ、レナに丁度いい依頼が来てんだ」


 ダンはポケットからくしゃくしゃの紙を取り出して広げた。


「…………それ、掲示板に張ってなきゃダメなんじゃ?」

「気にすんな、どうせここの連中じゃやらねえような仕事だ、レナにやらせたほうがいいと思ってな」

「マスター、ちゃんとそういうのは掲示板に出してください、そしてこの人達を働かせてください」

「そりゃ本人達に言ってくれ、俺がいくら口をすっぱくして言っても、まるで動こうとしやがらねえんだ」


 ギルドホールで酒を呷ったり、何をするでもなくぼけっとしている男連中を睨む。

 はたらけはたらけはたらけはたらけはたらけと無言のメッセージを込めてみるものの、

彼らはそれをあっさりと受け流して、まるで相手にしない心積もりのようだ。

 ―――いつか見ていろプー太郎ども、私が特級になったら週五日八時間、残業代ありボーナス付きの良環境で喜び咽び泣くまで働かせてやる。


「ま、それはいいとしてだ」

「よくありません!」

「ええと……? 滋養強壮薬の精製の為にデスグリズリーの肝が欲しいそうだ、レナ、どうだ? いけるか?」


 私の抗議を華麗に無視しながら、ダンは依頼の内容を読み上げた。

 ってまて、デスグリズリーだって?


「旦那、まだレナには早いんじゃねえのか?」


 片目を眼帯で覆った禿頭の格闘家、ゴトーが言った。


「私も上に同じだ」


 顔面に一文字の切創が走る痛々しい顔以外、取り立てて特徴がない男。

 ―――というのは世を忍ぶ仮の姿で、彼の仕事中の姿は誰も知らない暗殺者のジャコウ(偽名)が続く。


「デスグリズリーと言えば、中級が三人いてやっと死者なく倒せるレベルの魔物だ、レナに無茶をさせる気か?」


 呪いを封印するボロボロの聖衣で身を包んだ、呪いの刺青を全身に入れた呪術師、サウロンが静かに言った。


 彼らの言葉に嘘はない。

 腐っても特急冒険者の彼らが語る言葉には重みがある。

 私がここに所属して六ヶ月の間、デスグリズリーによる被害の報告は何件かあった。

 その殆どに、必ずと言っていい程死者が含まれている。

 私はあまり目にしないが―――夕方ここに訪れる初級冒険者も、運悪くデスグリズリーに出くわして死亡した者が何人もいたそうだ。


「おめえらの言わんとするこたあ分かってる、だがこれは俺がレナなら"いける"と思ったから言ってんだ」


 ダンが腕を組んで唸る。


「まぁ、受けるか受けないかはレナ次第だがな」

「…………」


 悩む。

 時々忘れそうになるが、ダンはこの冒険者ギルドのマスターだ。

 実力においても彼はこのギルドで一番の力を持つが、同時に人を見る眼も一番だ。

 彼は、私の実力をしっかりと認識している。

 恐らく、私の実力とデスグリズリーの実力は拮抗しているか、相手が下だ。

 そろそろ下級を卒業して中級冒険者になりたいと思っていた私にとって、この依頼は渡りに船だ。

 何かにつけて未だに私の事をひよっこ扱いする男たちも、この依頼を達成すれば少しは私の実力を認めてくれるだろう。


「受けます」


 私の一言に、ダンが破顔する。


「レナならそう言うと思ってたぜ! ほら、受け取りな。

デスグリズリーの目撃情報と地図だ、一日二日かかるだろうから、しっかりと準備していけよ」

「ありがとうマスター。それじゃあ私、もう行くね!」

「お、おおお? もうちょっとゆっくりして行ってもいいんじゃねえのか?」

「ううん、ちょっとでも早く行って依頼をこなしてきたいから」

「そ、そうか……」


 ダンがとても残念そうな顔つきのまま、しょぼくれた。

 ダンには悪いが、今私の心中は燃えに燃えている。

 今まで培ってきた技術(スキル)、能力、力を試すいい機会だ。


「じゃ! 行ってきます!」


 別れの挨拶もそこそこに、冒険者ギルドを飛び出す。

 これから忙しくなるぞ、必要な物資を買い込んで、もし遠地なら足はどうするか―――。

 はやる気持ちを抑えながら、私は第三都市商店街地区を目指し疾走した。



「相変わらず元気一杯だなあいつは」

「まったくだ、黙って座ってりゃあお淑やかなお嬢さんにしかみえねえってもんなんだが」

「ちげえねえ」


 狼男と剣士が酒を片手にのたまう。

 その時、汚らしい冒険者ギルドのロビーで、野太い声があがった。


「あああああああああああ!!」

「どわああああっ!?」


 声の主はダン・ロベルトだ。

 あまりの音量に驚いた狼男が、傾けて座っていた椅子から転げ落ちる。


「ってえ……なんなんだうるせえなあこの野郎!」


 猛獣相手に大した発言だなと、周囲の男達は思った。


「しまった……たしかレナを取材してえってリリィが連絡しにきてたのを忘れちまってた……」

「旦那、その取材ってのはいつなんですかい」


 禿頭が猛獣に問う。


「明日だ……」

「ああ、そりゃあ、まずいですな」


 普段から懇意にしている新聞記者が、わざわざ期待の新星レナを取材したいと持ちかけてきたのだ。

 荒くれ者の冒険者をわざわざもてはやす記事を書いてくれている彼女に対して、

インタビューの依頼を快諾しておきながら、それを本人に伝え忘れていましたのでいません、

と無礼な対応をしてしまっては、どんな記事を書かれるかわかったものではない。

 ダンは決して、マスコミを甘く見る男ではなかった。


「呼び戻すのは……無理、か。

仕方ねえ、ここは腹をくくってレナが早めに帰ってくるのを祈るしかねえな」


 しかし、ダンは割りと大雑把な人間である。

 レナならば何とかなるだろうと決めたダンは、書類整理のためにギルドの奥に引っ込んでいってしまった。


「あっさりしすぎだろ、マスター」

「あんだけ叫んでおいて、あっさりですませんなよ……ケツがいてえ」


 と、その時けたたましい足音と共にダンが戻ってくる。


「ウルフェン、何がこの野郎だ! そんな口は後百年経ってからききやがれ!」

「ギャウンッ!?」


 痛む尻をさする狼男に、ダンの鉄拳が振り下ろされた。

 周りの男達は無関係を装って、各々の仕事サボりへと戻っていった―――。

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