6 襲撃
ザフラ王家の指輪の所有者を探し出せ――名実ともにアシュラフとその指輪を捜索せよという命令が下されたのはガンナームの使者がザフラ王国を出た時から。ザフラとの国境にほど近いカウス・クザハに密かに兵を送ったのも、当然ザフラとの地理的な近さからだ。
帝国はザフラの支配に本気のようで、遥か遠方の異邦人を使ってまでその捜査網を広げていた。カウス・クザハに増員が向けられていたが、彼らはそこより手前の小さな町で休息を取る必要があった。夜が来たからだ。
だがその異邦人だけは、商隊宿に入って休もうとしなかった。
空が明るすぎる。
彼はこの辺り一帯の人々とは違う生活をこれまでしてきたから、分かる。何かおかしなモノが来ようとしていると、直感したのだ。
それは得体の知れない存在で、その異邦人を本能的に武装させた。持てるだけの武器を持つと、町を出、天にひとつ明かりがあるだけの夜の砂漠に飛び込んだ。
墜落する――それはアシュラフに取って死を意味する。
「シュラ様、絶対に手を離さないで!」
そんな事言われなくとも出来はしない。アシュラフはただ近くにあるものにしがみついて、自分の血が砂の上に散るのを見たくない一心で目を強くつむった。
大人の男性一人分以上はあるだろう重量が、高いところから墜落し、地面に叩きつけられる音がする。一層縮こまるアシュラフは、それが空飛ぶ木馬の落ちた音だとは気づけない。自分を包むやわらかいものが、少しだけきつく巻き付いてくる。
軽い音がした。まるでイチジクの実が砂の上に落ちただけのような、軽いものが落ちた音。
「もう大丈夫ですよ」
母親が泣いている子供にするみたいないたわりの声。アシュラフは未だに瞼を伏せており、自分がスィラージュの小脇に抱えられ地面にゆっくりと降り立ったのを、知らないでいる。最初にアシュラフと出会った時と同じ要領で、スィラージュは墜落する木馬から離脱して魔術の力で空に飛び上がったのだ。そして主を抱えて足から着地をした。アシュラフがイチジクが落ちたような音と感じたのは、スィラージュがゆるやかに爪先を砂地に着けた音だった。
主の反応がないのでスィラージュはとりあえず、アシュラフ自身の足で地面に立たせてやる事にした。まだ一人で歩けない幼子を支えるように、小さな肩に手をのせたままで。
二本の足で立っている感覚を得てはじめて、アシュラフはその目を開いた。相変わらず夜空は月光で照らされており、砂漠は風に吹かれるとさらさらと砂を舞わせる。その近くに余計なものが――空飛ぶ木馬の成れの果てがなければ、月のきれいな夜だと微笑む事が出来ただろうに。まがい物の馬は腹部に一本槍を受け、足や首は地面に激突した際に折れたのか見るも無残な姿になっていた。
一歩間違えればアシュラフの体がああなっていたのかもしれないのだ。寒さが急に蘇ってきて、アシュラフは両手で体を抱きすくめた。
「お怪我はありませんか、シュラ様」
スィラージュの両手が肩に添えられているのに気がついたので、アシュラフはハエでも払うような動作でそれをどかした。
「ああ……。だが、あれは一体なんだったんだろうな」
地上から空へと向けた攻撃。普通に考えたら、相手の顔も分からないのにするような行為ではない。槍の持ち主は一体何者なのかというアシュラフの問いには答えずに、スィラージュもひしゃげた木馬を眺める。
「空飛ぶ木馬はもう使えないですし、ここに置いていった方がいいですね……」
占い師さんには申し訳ないですが、と続ける。全壊してはおらず原型はとどめている木馬だ、借り物である手前、持ち帰った方がいいかもしれないがそんな荷物を持ち歩く余裕はない。
突然の襲撃者さえいなければ、空飛ぶ木馬での旅は安全なはずだった。人が出歩かないはずの夜を選んだというのに、どんな変わり者が自分たちを狙うのか。スィラージュはため息をつきたくなった。しかしそうはせず、脳内にある地図と頭上の星を使って自分たちのいる大まかな位置を想定し、次の目的地を決める。
「もう少し行ったところに小さな村があるはずです。ひとまずそこへ行ってみましょう」
頷くアシュラフ。
と、魔神は顔を上げた。強い気配がする。
「……シュラ様」
斜め後ろを振り返り、その方角に居るものからアシュラフを遠ざけさせるように手で押しやる。アシュラフには感じ取れなかった気配を、この魔神はいち早く察したというのか。月が明るい夜だからといって、小さくない波を作る砂漠では人が隠れる事の出来る場所は多い。アシュラフ自身も警戒をして、周囲を素早く眺め回す。
「槍を投擲してきた相手です」
スィラージュの声はとても硬かった。
夜、鳥より大きく鳥のように空を駆ける、言ってしまえば得体の知れない存在を狩るように攻撃する人間――。
我が身がかわいい人間であれば、そんな怪しい飛行物体と関わろうと思わないだろう。敢えて自ら敵になるような存在が、地上で大人しくしてくれるはずがない。
「まずいです、行きましょう」
スィラージュは主を拾い上げると走り出す。少年の肩にかつぎあげられ、アシュラフは怒りがよぎったが、かすかな人の気配を感じて小さく身を震わせる。狩りをする肉食獣のように五感を研ぎ澄ました存在が、すぐ近くにいる――。ぞくりと大きく身震いする。
やはり相手は普通の人間ではない。
「おい、村に行くのはやめろ。あんなやばそうなのを引き連れて行くわけにはいかない」
「……はい。シュラ様は、優しいですね」
こんな時に何を、とアシュラフが阿呆の魔神を黙らせようと口を開いた途端、体を引き寄せられ息を飲み込んだ。体の前にかばうようにスィラージュの胸に抱きしめられ、彼が焦っているのが伝わってきた。
スィラージュの腕をひゅっと何かがかすめるのが分かる。ぐんぐんと背後の気配が追いついくる。
魔神の持つ独特の雰囲気ともまた違う、人であって人にあらざる強さを持つ“気”が彼らを追っていた。いわば殺気のようなもの。
石つぶてが投げられた。それが想像より大きかったのでスィラージュは少しよろける。
“それ”は唐突に現れた。
仮面――何より目立つのは仮面だった。木彫りで、半分は刺青のような黒い紋に覆われている。砂漠の民と違って――昼は直射日光を避けるため、夜は寒さをしのぐため肌を露出させる事は少ない――やや薄着なのがアシュラフにも分かった。ガンナームを越えそのまた向こうのミールスの国さえも越えた異国の地からやって来たのだろうか。今は分析している場合ではないが、相手はまだ若い男のようで、月明かりの下に鍛えられた筋肉をさらしている。
その仮面に遮られ男の瞳は見えないが、肉食獣のように鋭い目をしているに違いない。そうアシュラフに思わせる程、男の気配は人間ばなれしていた。
男は大きな槍を振りかぶって、普通の人間の倍以上の跳躍力でスィラージュに飛びかかってきた。アシュラフの体も抱えているため、スィラージュは槍の先から避ける際によろめいてしまう。主を押しつぶさないように受け身をとると、すぐさま起き上がる。
彼と戦闘になるのは避けられないようだ。いっそアシュラフだけをここから遠ざけてしまいたいが、今のスィラージュに魔術を発動させる暇がない。
頼むまでもなくアシュラフはスィラージュより先に駆け出していて、仮面の男の意識はスィラージュで止まっていた。先程より接近を許してしまったスィラージュは、大きな槍が自分の頭をかち割ろうとしているのを目にする。寸前で手を掲げる事が出来、スィラージュは魔術で不可視の盾を作った。男は自分の得物が動かないのに少しの間戸惑っていたようだが、すぐに槍を引いて構え直す。
次の刃は避けられなかった。スィラージュは出来るだけ距離を置こうとすぐに砂を蹴るが、獣のようなその男は抜け目なく魔神を追う。魔神だとはいえ、スィラージュにも実体がある。実体があれば、その体を傷つける事は可能だ。浅くない傷で血しぶきを上げるスィラージュの血の色が赤ではないと気づいたのか、仮面の男は口を開いた。
「お前、人間ではないな」
驚いてスィラージュは目を見開いた。しゃべれるのかと。
感情を読み取りにくい硬い声。低く、どこか気だるげではあったが若いハリのある声だった。
「あなたこそ、何者ですか」
魔神の直感というのか、人間やそれ以外の種族と接してきたスィラージュはこの男が人間だろう事は分かってはいた。ただし、化け物みたいに強く、あまりにも人間離れしている。だからこそ問うたのだが、応えはない。
「スィラージュ!」
意外にもアシュラフの声はそう遠くない場所から聞こえた。スィラージュに早く来いと言っているのだろう。それは簡単には出来そうにもない。
「先に逃げて下さい。私もすぐに追いかけますから」
実のところ、スィラージュの力がどれだけのものかアシュラフは知らない。魔神であるためアシュラフには使えないような魔術――主の願いを三つだけ叶える力、浮遊の術や、何もないところからあらゆる物を取り出す力など――を扱えるのは分かっている。だがそれがどれだけあの男に対して有効なのか、そもそもあのスィラージュに人を攻撃して動かなくさせる力があるのか疑わしい。
スィラージュと仮面の男ととでは身長も体格のよさもあちらが上だ。アシュラフの頭に「いやお前とアレじゃあ負けるだろ」という軽口がよぎったが口にする気にはなれない。
例えスィラージュが凶刃に敗れようとも、今のアシュラフよりは力があるし、彼に頼るしかないのだ。それに案外魔神の力は強い武人をも凌ぐかもしれない。今はその可能性にすがるしかない。アシュラフはまた、走りだした。
「お前がいないと困るからな! 早く来いよ」
「それって殺し文句ですか」
まるで恋人同士の愛のささやきだとでも言いたげなスィラージュの緊張感のなさに、アシュラフもついつられてしまった。
「くそたわけが。お前の魔術が必要なだけだ」
大声を張って、悪口を叩く。我ながら何て別れ方だと思いながらも、スィラージュが相手ではアシュラフはこういう態度しか取れなかった。
「口が悪いですね」
間一髪のところ刃を避けながらのスィラージュの声は、離れすぎてアシュラフの耳に届く事はなかった。自分の唯一の助け手を見放すようで気分はよくないが、アシュラフは生き残らねばならない。今のアシュラフの安否には他者の命もかかわるのだ。絶対に生きてガンナーム帝国まで行かなければならない。
そのためにはまだスィラージュの――魔神の力が必要だ。
だからスィラージュにも生きて戻ってきてもらわねばならないし、そのために足手まといのアシュラフは少しでも遠くへ走らねばならない。
父上を助けねばならんのだ。
ぐっと拳を握ると、子供は小さな体であらん限りの力を振り絞り駆け続けた。