5 空飛ぶ木馬
既に宵の時間になっていた。月がまるまると大きく輝いていて、少し明るすぎるくらいの夜だ。三人で町の外れまで行き、人に見られないように気をつけて空飛ぶ木馬の性能を試す事にした。
スィラージュだけが馬にまたがって、木馬のねじをひねると、馬はわずかに振動する。木馬は音もなく浮かび上がる。スィラージュの命じるままに上空へと上昇し、鳥か何かのように自在に空気中を行き来した。まるで神の見えざる手に操られているかのようになめらかに、そして軽やかに。月の光を浴びる木馬は、あっけないほど簡単にその不思議な力を見せつけてくれた。
信じられない光景だったが、アシュラフは自分の目で見た物は信じるというタイプの人間だ。“あれ”は飛ぶ。真実なのだろう。
とはいえ。本当に空を飛ぶ木馬なのだと分かってもアシュラフは不機嫌なままだった。
「ありえない、ありえない……」
目の前で見せられたものが現実のものだとアシュラフには思えなかった。信じたくはなかったのかもしれない。なにせその馬は叩いてみれば軽い音が返ってくるし、生きた馬と見まごうばかりの流線を持つとはいえ表面に木目が見えるような代物なのだ。そんなものが飛ぶなどと、スィラージュが降りてきて地上に足をつけた今だって信じられないくらいだ。
「この空飛ぶ木馬なら誰にも追いつけはしませんし、敵の手も届かず安心した旅が続けられます」
スィラージュの言う事はもっともだ。ガンナーム帝国の人間も空飛ぶ木馬を入手したなら話は別だが、そんな話は聞かないし、空飛ぶ木馬に適うものなど誰もいない。不可能が可能と分かっても喜べないどころか、不機嫌さを増したような主の顔に、スィラージュはかえって微笑みを誘われた。
「魔神の存在は信じてるくせに何が納得いかないっていうんですか」
ざくざくと足音を立てて近づいてくるスィラージュに、アシュラフは確かに彼が地上を歩いているのだと実感した。つい先ほどまでは、顔を上げないと見えないような高い場所にいたのに。
「くせにって言うな何かむかつく。魔神は別だ。てゆうかお前は魔神かどうかすら怪しい」
「ええ? それってどういう……」
スィラージュの頬が引きつる。主の言葉を冗談だと面白がっていいのか、能力を疑われていると悲しめばよいのか。
どこか拗ねたような瞳にぶつかって、スィラージュはまた笑顔を思い出す。アシュラフはやはり高所が苦手なのだ。だから空飛ぶ木馬も信用出来ない、信じたくない。自分がそれに乗る事になるなんて想像したくもない。そう思えばアシュラフの嫌味もかわいいもの。にやにやしはじめたスィラージュに気づき、アシュラフはすぐに鼻白んだ顔になる。
どうのこうのと無駄話を続けていた彼らを止めたのは、ずっと口を挟む事なく見守っていたはずの占い師だった。
「いいから早く行きなさいよお~なんだかアナタたち見てたら旦那の肌が恋しくなってきちゃったわあ恨めしいから早く行ったらどうなのもしくはアタシの旦那を連れてくるぐらいしなさいよねもう失礼しちゃうわあ」
唇を尖らせる占い師の言葉に、アシュラフはすぐについていけはしなかった。自分の目の前で繰り広げられていた事によって伴侶が恋しくなったと言うのか。自分とその旦那のような二人を見て? アシュラフとスィラージュの二人を見て? あり得ない、とアシュラフは咆哮する。
「わたしたち見てってどういう意味だああああ!!」
「まあまあ、シュラ。あんまり叫ぶと傷口開きますよ」
その小さな拳で占い師に殴りかかろうとする主を、スィラージュは制止しなければならなかった。スィラージュの魔術で何とかしているからアシュラフの傷が簡単に開く事はないだろうが、冗談めかしてそんな事を言ってみると意外にも占い師が反応を見せた。
「あらまあアナタ怪我してるの大変だわこないだ手に入れた秘薬を試してみましょうよ」
「いま試すって言った? 実験動物扱いかぶん殴るぞ占い師」
両手を組んで喜ぶような顔をする占い師に殺意を抱いたアシュラフは義憤に燃えた。他人で薬の効能を調べてから自分に使うというとても利己的な発言にしか思えなかったのだ。
「まあまあシュラ様」
占い師とのつき合いが短くないスィラージュは、ただ言い方が悪いだけで実験動物扱いはしていないはずだと分かっていた。
「様ァ!!」
が、怒りでアシュラフは何から何まで怒号を上げずにはいられないようだった。確かにスィラージュは敬称で呼ぶなと何度も言われ続けていたが、そんな短く注意されても。と肩をすくめたくなる。
「落ち着いて下さいシュラ。占い師さんはからかってるだけですよ」
多分。と口にするのはやめておいた。
「試験的であろうとなかろうと、要らん」
会ったばかりの人間にもらう薬なんて信用がおけない。アシュラフは占い師相手に警戒を解く事が出来なかった。手負いの獣のような、威嚇する瞳が占い師を射抜いても、彼女はどこ吹く風。子供だからと相手にしていないのか、大人相手にもそうなのか。
「じゃあ薬はいいとして占いはどう? アタシ、初めて訪ねてくれた人には必ず占いをしてるのよ。それなら本業だから信用出来るでしょ?」
碧玉の瞳が値踏みするように光る。年端もいかぬ子供とはいえかなり気迫のあるアシュラフだ。それでも占い師は、にっこり微笑んで泰然と構える。苛ついたように目をしかめると、アシュラフは視線を逸らした。
アシュラフは肯定はしなかったが、否定もしなかった。
結局スィラージュが間に入ってどちらにせよ荷物を取りに一度占い師の家に戻らなければならないと告げ、アシュラフは黙って魔神の言葉に従った。
その女占い師の占いは、色とりどりの石と不思議な紋様のある敷き布を使った占いだった。幾つもの石をジャラジャラと音を立てて手の中でこねまわしたり、幾つかを持ち上げて落としたり。
ザフラ王宮にも名高い占い師がやって来る事があるから、アシュラフも占いをはじめて見る訳ではないが、占いにも種類がある事をこの時はじめて知った。瞳を伏せコール粉をたっぷりと塗った瞼を見せる占い師が、時折口の中で何かをささやいていたが、アシュラフには聞き取れない程小さな声だった。
ふうう……。占い師が長い長い息を吐き出した。それからゆっくりと瞳を開けたので、アシュラフは彼女の占いが終わったのだと予感した。
濃い色の紅を付けた唇が、ぱかりと開く。
「アナタは……大切なものをなくして、大事なものを手に入れます」
小さな子供の体が、小さく跳ねた。
「なんだと……」
低く地を這うような主の声を聞いた途端、スィラージュはまるで剣に刺されたかのように「うっ」と短く悲鳴を上げる。
「シュラ、大丈夫ですよ、きっと人間の事では、」
「うるさい!」
アシュラフはわき目もふらずに占い師の家を出て行く。占いで客が見せる反応は千差万別、慣れてはいるが占い師は少し困ったようにスィラージュを見た。
「すみません。今、ちょっとシュラの家族が危ない目に遭っているかもしれないので、過敏になってるんです」
アシュラフの父がザフラ王だとは口に出来ないが、彼は今危機的状況に陥っているはずだ。そしてザフラ王ははアシュラフにとって大切なものだという事は確かだ。もし占いがザフラ王の事を指すのだとしたら――。スィラージュとしても、あまり考えたくない未来だ。占いの後半部分、手に入れるという大事なものについても少し気になるが、アシュラフはすっかり占いの内容を自分の父と重ねている。
「あらまあ……それは悪い事をしたわ。占いなんてかえってしない方がよかったかしら」
口元に手をあてる占い師は、アシュラフが小さな子供ながら妙に気を張って周囲に警戒をし続けているのは、そういう訳だったのかと納得した。急いているのも家族を助けるためだとも推測出来た。
小さな子供のくせにちょっと生意気だからと、アシュラフに年相応の扱いをしなかった事を後悔して、占い師はしおれたようになる。
「……きっと、後になったら分かってくれますよ。それより私の占いはしてくれないんですか?」
占い師は、ただ占いをするだけ。信じるかどうかは本人次第。しかしながらこの女占い師の占いは、非常によく当たるとスィラージュは知っている。彼女の意思がどんなものか完全には分からないが、彼女は占いで誰かの助けになりたいだけなのだろう。だからスィラージュは、この占い師にあまり落ち込んでほしくなかった。それにアシュラフには占いを変える力があると信じている。
「あら、アナタは初めて訪ねてくれたわけでもないじゃないの」
話をすり替えるようなスィラージュに、占い師は少しだけ口角を上げてのっかる事にする。対応はすげなくあしらうようなものだったが。
「それもそうですね」
占い師が少しは笑えるようになったと安心したスィラージュは、アシュラフと自分の少ない荷物を手に取ると、居住まいを正す。
「それでは、いろいろとお世話になりました。空飛ぶ木馬、借りていきますね」
言って、スィラージュは家の入口に向かう。見送るために占い師も戸口に立つ。群青色の上着を着た少年の背中を見て、占い師はすっと目を細める。
本当は――アシュラフの占いをした時にスィラージュの占いもしていたのだ。その内容はアシュラフの占いよりも肯定的なものではなかったから、占い師はつい口を閉ざしてしまった。だがやはり、彼に苦難が降り注ぐのなら、覚悟をさせる事ぐらい、促したっていいだろう。そう思い直した。
「……待って。アナタも……このままだと、大事な資格を失うわ」
ぴたりと手を止めたスィラージュは、占い師とは目を合わせないで彼女を振り向いた。
「それは一体、どういう……」
「……さあ。アタシはただ視えたものを伝えてるだけ。道中、気をつけてね」
言ってから、占い師はほんの少しだけ後悔した。スィラージュの反応が意外にもまともだったから。もっと軽く受け流してもらえるような気がしていたのに、違ったから。そして自分の占いは、視る事は出来ても、彼女自身はどうする事は出来ないのだ。本当の意味で、彼女は誰かの力にはなれない。彼女もまた、上手くスィラージュの目を見られなくて、視線を少しさまよわせる。
「……はい。旦那さんによろしく言って下さい」
因果な商売だと知りながらも、やはり占い師は口を挟まずにはいられないのだ。それを分かった上で、スィラージュはにこっと笑った。つられて占い師も、わずかに困ったように微笑んだ。
満月にほど近い月夜の下、主人と魔神は黒い木馬に乗って空を進んだ。細かい砂の作る小さな山と谷が、アシュラフの足元のずっと下にある。
常に風がアシュラフの頬を打ち、昼夜で寒暖差のある砂漠をゆくために着込んだ服の、ありがたさを知る。頭に巻いていたターバンの一部は既にアシュラフの口元を覆い、顔の大半を寒さから守っていた。
空の旅は快適なものとは言い難かった。日が沈んでからの飛行は非常に気温の低い中で行われ、人の身であるアシュラフは震えながら拳を握っている。スィラージュは寒さなど感じない顔で平然としていたが。アシュラフの震えの理由は寒さの他にもひとつある。いくら夜とはいえ万一人に見られたら困るからと、それなりの高度を保って空中飛行をしているからだ。
アシュラフが高所を嫌っているのは既にスィラージュにはお見通しだ。空飛ぶ木馬を操るスィラージュの前に座るアシュラフが、いつも以上に小さく見えてしまうのは、いつもの覇気がないからだろう。
「……まだ着かんのか」
心なしか、アシュラフの声まで震えて聞こえる。
「まだみたいですね」
カウス・クザハから帝都までの道のりはスィラージュの頭の中に入っている。星で方角を確認しながら進めば問題なく帝都に着けるはずだ。
「くそっ、こんなに時間がかかるなら駱駝の方が……」
「けっこうすっ飛ばしてると思いますけど」
「うるさい黙れ死ね」
罵詈雑言に限ってはすらすらとしゃべれるアシュラフに、スィラージュは拗ねたような、困ったような顔になる。
「シュラ様、高所恐怖症なのは分かりますけど八つ当たりするのは……」
「違うって言ってるだろ!」
「そうでしたね」
大人の対応でスィラージュは頷いた。小さく唸って黙り込んだアシュラフに、スィラージュはしばらくはそっとしておいた方がいいと思う事にした。
木馬が風を切る音だけが、アシュラフの耳に聞こえてくる。月光はまばゆいが、静かな夜だ。当たり前だろう、音が出るようなものはほとんど地上に置きざりにされているのだから。
ザフラを出てから何度頭を抱えたくなった事だろうか。アシュラフはもうずっと、自分の置かれた状況に辟易している。もちろん父王の命は助け出すし、自分だって死にたくない。だがどうしてこう、困難ばかり自分に襲い来るのか。
こんな高いところを飛ぶだなんて、正気の沙汰じゃない。どうかしている。今もっともアシュラフの身を脅かしているのは空を飛んでいるという理解しがたい行いだ。頭がおかしくなりそうだ。
言い争いをしていれば、自分がどこにいるかを思い出さずに済むのだが、しかしスィラージュの機嫌でも損ねて突き飛ばされでもしたら――そんな事は万が一にもあり得ないだろうが――困るどころの騒ぎじゃない。ゆえに黙り込んだのだ。
下は見るな。頭がくらくらする。アシュラフが目を伏せると、スィラージュの唾棄すべき発言が耳にやってきた。
「シュラ様はかわいいですね」
「ぶん殴るぞ」
阿呆の阿呆な言葉は間髪入れずに叩き潰すに限る。しかしスィラージュはめげなかった。
「高いところが恐いとは……。シュラ様にもかわいらしい……もとい、人間らしいところがあったんですね」
「ぶっ殺す」
先程あれだけ高所が怖い訳ではないと否定した上、スィラージュにも認めさせたのに何も意味はなかったようだ。過去の行いが全くの徒労に終わったと知る事ほど、嫌な気分になるものはない。いっそ永遠に黙らせてやりたいとほとんど本気でアシュラフが思った頃。
「え?」
魔神がいきなり声を上げたかと思うと、小さな音がカツンと言った。木馬の足元に何かが当たったのか、少なくない衝撃もあった。
アシュラフの見上げた先には、少し焦ったようなスィラージュの姿がある。
「……スィラージュ?」
「シュラ様、しっかり捕まっててくださいよ」
ぐっと高度が下がって、小さな子供の体が揺れる。アシュラフは悲鳴を飲み込まなくてはならなかった。こんな高い所で不安定な動きをするなんて!
慌てながらも頭の中には冷静な自分もいて、アシュラフは疑問に思う。何故、スィラージュは突然高度を下げたのか?
と、思うと次の瞬間には高度が上がった。「うわ!」アシュラフは今度は声をおさえられなかった。
「スィラージュ? なんだ、何があったんだ」
「何者かは分かりませんが……狙われています」
「はあ?!」
驚きのあまりアシュラフの声は裏返りそうだった。
こんな高空で、何者かに狙われるという危険があるものなのか?
普通の人間であれば誰一人追いつけないだろう届かない場所を行けるからと、空飛ぶ木馬を選んだのに。それが今狙われているというのなら、相手は人ではないか、同じ空飛ぶ木馬を操る者か。
「一体何が……」
下方を窺うスィラージュのせいで、木馬が傾く。
「げっ?!」
アシュラフの目にも見えた。明るい月の光に照らされた、鋭利な先端を持つ槍が飛んでくるのが。槍は木馬の足をかすって落ちてゆく。鳥の飛ぶ高さと同じくらいの高度を飛んでいるはずが、何故こんな場所まで槍を飛ばせるのか。アシュラフの表情は戸惑いと嫌悪に揺れていた。
「我々の身を隠すようなものがない空中の方が危ないかもしれません。シュラ様、一度降りますから手を離さないで」
「もっと高度上げて逃げた方がよくないか」
「これ以上あがりません!」
高度は上がらず、これ以上はスピードが出ない。相手が何者かは分からないが、どうも超人的な力を持ってるのは間違いない。このまま上空にいては良い的だと、スィラージュは判断した。
槍が雨あられと――下方から飛んでくるのにおかしな表現だが――やってくる訳ではない。だがスィラージュは焦ったように木馬を繰る。
アシュラフはひどく深刻に息をつめる。見上げるスィラージュの表情が、常になく緊張していて、その分深刻さが引き立った。
ふいに地上の敵対者の手持ち槍がなくなったのか、飛来するものはなくなった。
だが、どうも空飛ぶ木馬の様子がおかしい。スィラージュは眉をひそめる。と、木馬に違和感があると思った瞬間に木馬の体が斜めにかしぐ。
ここまで無事に動いていた木馬が、不思議な力を失ったかのように、地上へと落下しはじめた――。