3 カウス・クザハ
夕方の市場は喧騒にまみれていた。昼の一番暑い時間を過ぎ、人々が活発に外出しはじめるのは、この時間だ。
さすがは天下のガンナーム帝国有数の町カウス・クザハ。市場ひとつとっても他に類を見ない広さを誇る。町の中心である広場をはじめとする、大通りに立ち並ぶ店の数々。人が活動すると、そこには音が生まれる。人が移動する時に、物が動かされる時に出される音だけではない。売りたいものを値段と共に叫ぶ商人たち、それと交渉する客、口論をする者たちのわめき声。耳を澄ませば、広場で楽器を奏でる音も聞こえるだろう。
人通りの多い市場を進めば、パン焼き屋のにおいがたちこめ、香辛料のにおいや、肉を炙る香ばしいにおいが鼻孔に飛び込んでくる。更に進むと染め物の奇妙に鼻につくにおいに混じって、排泄物の臭いが鼻につく。
もちろん色彩のにぎやかさだって負けてはいない。店内にところ狭しとあふれる商品の個々は極彩色といかなくとも、くすまぬ色を持っていて、いくつも集まるとまるでモザイク画のようにきれいだった。
いろんなもので町はあふれていた。そんな五感の楽しみをひとつも顧みず、不機嫌な顔を見せる者がいる。年の頃は五・六歳の幼い子どもで、大人と違って小さな目や鼻や口が大変愛らしいが、大人顔負けの気むずかしい顔をしている。日に焼けた肌は健康そうで、吊り上り気味の眉はこの子をとても快活そうに見せている。傍らには保護者らしき十代後半の少年が立っていた。少年は朗らかに辺りを見回しており、隣りの子どもよりはかなり機嫌が良さそうだ。
背丈の小さい子は、大人たちであふれかえる通りでは簡単に埋もれてしまう。今も幼子に気づかぬ大人に押し出されて、子どもは保護者の足にしがみつく事になってしまう。すぐに足から離れるが、いつまた押し出されるか分からない。
「……おい、スィラージュ。この祭りみたいにうるさいばか騒ぎはいつになったら終わるんだ」
もうこれ以上は辛抱ならんとばかりの押し殺した声に、スィラージュは視線を落とす。相手の、不器用に巻かれたターバンから濃い焦げ茶の髪がはみ出ているのを見ると、なんだか微笑ましくなった。カフタンとゆったりしたズボンはきちんと着こなせているのに。
「ばか騒ぎって、この市場の事ですか、シュラ様」
幼子の瞳は南国の海の色で、年に似合わぬ鋭い光を帯びている。アシュラフは、視界の遥か上にあるスィラージュにしかめっ面を見せる。
「敬称などつけるなと言ってるだろうが」
「了解です。スークはあと五十キュービットは続きますよ」
穏やかに目じりを細めてスィラージュは答えた。優しげな彼が微笑むと、娘たちはつられて微笑むか、頬を赤くするだろう。スィラージュの青みがかった黒い髪は梳られたように整っており、落ち着いた瞳には茶色の光が輝いている。容貌や表情以外にもスィラージュに不思議な魅力を与えているのは、この辺りでは見慣れぬ衣装によるところが多い。東方の民族が使う紋様が細かい銀糸で縫われた、群青色の上着。日暮れが近いとはいえまだまだ眩しい太陽の下、涼しげな表情のスィラージュに青はよく似合いのようだった。
「……そんなにか」
王族であるアシュラフはザフラからあまり出ずに育った。祭りでもなければこれほどの人混みなど生まれぬ町を見て育ったのだ。カウス・クザハのような帝国内でも大きな町に驚いてもいたのだが、今のアシュラフにはそうする余裕もなかったのだ。あまりの人の多さに辟易してしまい、疲れてさえいるのだが、本人はそれを自覚していないのか隠しているのか、ただ嫌悪に似た苛立ちを主張するだけ。
スィラージュもそんな相手の様子に気づいているのかいないのか、何かアシュラフの興味を買うものはないかと辺りを見回す。その少年の瞳は一軒の果物屋を見つけた。
「ちょっと西瓜でも食べません? さっき水売りから水を買ったぐらいで、まともなものを口にしてないでしょう。いっそご飯にします?」
「いいから、早く抜けるぞ」
うんざりしたようなアシュラフはスィラージュに一瞥をくれる。そして戦場に赴く戦士のような眼差しで、前方の人の波を睨みつける。
文句を言いながら歩く子どもの小さな体が、自身の意思に反して流されはじめる。上背のある男がアシュラフに影を落とし、人の流れにもがく子どもを押し潰しそうになる。ひょいと小さな体を拾い上げたのはスィラージュの腕だった。窮地を救ってもらったというのに、軽々と抱き上げられてアシュラフは憤った。
「やめろ! おろせ!」
「こちらの方が楽ですよー。シュラ様も私も」
「様って付けるな! 離せ!」
「スークから出ましたらね」
中肉中背で筋肉のなさそうなスィラージュだが、小さなアシュラフとは年齢が違うため体格の差が生まれてしまう。力の差も歴然だ。暴れながらもアシュラフはスィラージュの腕から抜け出せなかった。担がれて相手の顔が近いから、よっぽど噛みついてやろうかとすら思った。
「バカ魔神。死ね」
「シュラ様、何食べます?」
アシュラフの憎まれ口をあっさりと無視して少年は本日の晩ご飯について考えをめぐらせる。思考するまでもなく市場には食欲をそそる香りがただよっているから、それに導かれるままに店に入るのもいいかもしれない。などと、意識を完全に食べる事に移していたスィラージュだが、妙な気配を感じて横を向いた。見ると、間近に疑うような碧の瞳。剣呑なそれは言い訳を許さない力を持つ。
「いい加減に教えろ。何故わざわざ人の多い町を通る? まさかとは思うがわたしの身の上を忘れたわけではあるまいな」
王者の目をした子どもに睨まれ、スィラージュは驚きと悲しみの間のような顔をした。
「そんな。忘れるわけありません。私の事をなんだとお思いで?」
「うざい魔神」
答えるのにためらう時間などなく、よどみのない口調で馬鹿にされ、スィラージュの顔は少々ひきつった。
「あなたに仕える魔神ですよ、シュラさ……、シュラ。大丈夫、私に任せて下さい」
先ほどの表情の崩れをかき消そうとするかのごとき取り繕った笑みで、スィラージュは請け負う。言葉の途中でアシュラフが眉を寄せたために敬称付けは止められたが、このうさんくさい魔神に対する不可解さはぬぐえなかった。舌打ちしたアシュラフは、この魔神をどこまで信じていいのか疑念を抱くようになってきた。アシュラフは幼い見た目に似合わぬ仕草で額に手をやった。
「大丈夫ですよー。木を隠すなら森の中、ってね。今のあなたがザフラのアシュラフ様だなんて分か、」
スィラージュの言葉は途中で遮られた。額に手刀を食らったのだ。小さな手の攻撃にさしたる効果はなかったが、その後出発した足からの攻撃でスィラージュはダメージを受けた。ついでとばかりにアシュラフは抱き上げられた少年の腕から逃れる事にした。軽い足取りで地面に降り立ったアシュラフは、この口の軽い魔神を殴り殺したくて仕方なかった。
「呼ぶなと言ってるだろうが! 様も却下! お前の頭はただの飾りか? 何度も言わせるようなら水差しに入ったままでもいいんだぞ」
「それは困りますごめんなさいすみませんでした」
取り出された水差しにスィラージュは頭を下げる。アシュラフが再三敬称を禁じるのには理由がある。追っ手のかかる身の上だからだ。手配書が出回る程ではないが、明らかにアシュラフとスィラージュと見なせる人物について、人の噂になっている。帝国領内に入ったから当たり前といえば当たり前だが、帝国の兵士が町を出歩いており、道行く人を検分するように眺めている。町の関所では普段以上に質問されたと行商人が言っていた。
アシュラフとスィラージュは、帝国の人間に探されている。それだけは確かだった。帝王の手の者も、さすがに所在の分からぬ一国の王族を捕まえるために多くの兵をさけないようで、まだアシュラフたちは怪しまれもしていない。もちろん魔神であるスィラージュの力でもって危険を避けているところはあるが――その魔神がこの体たらく。わざわざ敬称を付けて呼ぶなどと、人の目を集めるような事はすべきではない。まして愛称ならまだしも、アシュラフという名前を持ち出すなんて。自ら身分を知らせてどうする。
アシュラフは、この少年に調子を狂わされている。
はじめてスィラージュを目にした時には、神々しい存在だった。それが今はどうだろう。人間に溶け込むために魔術で容姿を少し変えているとはいえ、性格があまりにも――楽天的だった。アシュラフの置かれている状況を理解していない訳ではないようだが、どうにも言動が雲のように浮ついている。いや、この年頃の少年であれば朗らかさや気楽さは普通かもしれないのだが、何しろアシュラフに寛容になる余裕はないのだ。生来の気質かもしれないスィラージュの気の抜けた様子は時折アシュラフを苛立たせる。そんな様子でありながら、魔術を使う魔神であるという事実もアシュラフを疲れさせる。
「水差しの中だけは勘弁してください」
とはいえ。この魔神の今の主はアシュラフなのだ。彼の住処である水差しに引っ込んでいろと言えばそうなるし、黙っていろと言えば黙らせる事も出来る。
やっと静かになり、捨てられた子犬みたいな哀れな瞳をしているスィラージュ。平謝りの少年に満足して、アシュラフはかわいらしい容姿に似合わぬ嫌味な笑い方をした。
「ならとっとと帝都へ行くぞ」
脅しの道具でもある黄銅の水差しをしまい込むと、アシュラフは再び歩き出す。立ち止まっている時間はないのだ。はじめての町に戸惑う暇もない。
「はーい」
母親に小言を言われた子どもみたいな声で、スィラージュは肯定する。まったく緊張感のないやつだ。アシュラフは顔が引きつりそうになる。
いくらも行かないうちに、二人は市場の立つ通りから抜けた。しかしスィラージュはまだ足を止めない。
「どこへ行くつもりだ?」
「え? だから、アブヤドまで行く手立てはちゃんと考えてあるって言ったじゃないですか。そこに行くんですよ」
ガンナーム帝国の都までは駱駝の足で七日はかかる。駱駝を調達するだけならこんな大きな町まで来なくてよかったはずだ。
「駱駝と馬以外に何がある」
馬車などこれから通る砂漠にはかなり不向きだし、駱駝以外の乗り物など砂漠では上手くやっていけない。つまり、スィラージュの行く先は駱駝小屋しかないはずなのだが、どうも様子が違う。
「来てみれば分かりますってー」
大通りから離れると、喧騒が遠ざかってゆく。足の長さの違いでスィラージュに遅れるアシュラフは、少年が振り返るたびに彼を早足で追いこしてゆく。分かりやすく負けず嫌いなアシュラフに、スィラージュは小さな笑みを隠して手を口にやった。
一キュービット=〇・五メートル