2 王家の指輪
青色の風が吹いたように感じた。いや、煙だったかもしれない。人影が一瞬のうちにしてアシュラフの目の前に現われる。白い靴に覆われた爪先、淡い水色の細身のズボンとカフタン、群青色の上着には風変わりな紋様が縫い込まれている。日差しの強い地域に住む者にしては明るい肌を持つ少年が、瞳を伏せて空に浮かんでいた。ラピスラズリ色の髪が鮮やかで、とても印象的に感じられる。長い上着の裾と青い髪はどこからともなく吹いた風に吹かれ、ふわりと浮き上がっていた。
少年は空中に二本の足で立っていたが、ずっと眠っていたかのようにまつげをふるわせて、実にゆっくりと瞼を上げる。
真紅の色をした瞳が開かれた瞬間、その場に居た者は察した――これは人ではない、と。靄のようなものに包まれ忽然と現れた少年は人の形をしていたが、人とはまったく別のものだった。全身から溢れ出るのは、人にあらざる“気”のようなもの。人の目を惹きつけ、畏怖の念を抱かせ、警戒させ、あるいは膝をつかせる力ある気配だった。
帝国の男が一人、驚きのあまり剣を床に落とした音がアシュラフの耳に入ってくる。だがアシュラフにそれを認識する程の余裕はなかった。ザフラに伝わるおとぎ話ともいえる伝説の一つ、王家を守護する魔神――これが、そうだというのか。
伝説の魔神は極端に顔が整っているという訳でも、極上の衣装や装飾品をまとっている訳でもないのに、人の目を惹きつけてやまなかった。
血に似た色の瞳がアシュラフを向いたその時、今の状況を思い出した。あの少年姿の魔神がアシュラフにどうしてほしいか問いかけているように思えたからだ。
「お前が本当の魔神なら、今すぐわたしをここから出してくれ!」
考える余裕などなかった。アシュラフには父のように信頼出来る部下がいない。王の臣下は王のもの。いずれアシュラフがザフラの支配者になる日が来るとしても、彼らはまだ王の持ち物なのだ。唯一ザフラ王自ら何かあれば頼れと推すハーフィド将軍は、王の特命を受け他国におり現在ザフラをあけている。
何も持たないアシュラフは、この魔神に手を伸ばすしかなかった。立ち上がろうとしたが、腹に受けた傷のせいで力が入らない。それを察したのかアシュラフの元に少年が近寄ってくる。少年はあっという間にアシュラフを抱え上げて――浮かび上がった。
「な……っ」
ガンナームの者たちは目も口も大きく開いて、狼狽するしかなかった。
「なんという……」
代表の男は、最初こそ突然あらわれた少年に驚きを隠せなかったが、他の誰よりも早く自分の任務に戻る事に成功した。アシュラフが少年に告げた言葉も聞き逃してはいなかった。
「待て! 逃げれば父親の命がなくなるぞ」
疲労で目を伏せていたアシュラフは、少年の腕の中でびくりと身体をふるわせる。少年は帝国の男の言葉には構わず、更に高いところへ浮かび上がり今にも物置小屋から出ようとしていた。
アシュラフが父を見殺しにしたいはずがない。だがあの男は、既に父王を殺すと宣言したではないか。まだアーディルが生きている可能性はあるが――。アシュラフが何かを言うより早く、帝国の男は続けた。
「お前は指輪を我が帝国にもたらさねばならない。それまではザフラ王の命、長らえさせてやる。帝都でお前が来るのを待っているぞ!」
男は一歩も引く事なく、アシュラフに取り引きをもちかける――しかし、双方とも二の句を告げる前に互いの姿を見失ってしまった。
魔神がアシュラフを連れて物置から姿を消したのだ。煙が空に溶けるように、跡形もなく。
「いいか、王の心臓はお前の手の中にある! 指輪という形のな! それをゆめ忘れるなよ!」
男は相手が物置にはいないと分かっていながら叫んだ。大きな声で、消えたアシュラフに届くと思っているかのように。
その黄金色の指輪について話をしてくれたのは、アシュラフの母だった。まだ小さな小さな子どもの頃、アシュラフは母親の膝の上でそれを見せられた。宝石が取り付けられてない代わりに、ザフラ王家の紋章が刻まれている。
『これはね、次に王様になる人が持つものなのよ』
彼女は今のアシュラフがしているように鎖に指輪をかけており、それを陽の光にかざして見せた。
『おうさまは、ちちうえだよ?』
幼い子どもにとって、世界の王はアーディルただ一人だけで、それは永世続くものだと決まっていた。次の王などおらず、いたとしてもそれもまた父親だったのだ。
今ではもう顔も覚えていない母が、くすりと笑った。
『そうね。でも、今は元気でも父上も死んじゃう時がくるの。その時は新しい王様が必要なのよ』
死の概念を理解していない子どもには、母の言葉の意味が分からなかった。不機嫌な顔で抗議をすると、彼女はもう少ししたらアシュラフにも分かるわとだけ言った。
『大切な指輪なの。父上も、そのまた父上から受け継いで、ずうっと大事に守ってきたものなのよ』
母の顔が、太陽の光の影になり、よく見えなかった。
『アシュラフも大事にしてね。家族のように』
家族のように。今なら家族の大切さがよく分かる。
顔もおぼろげな母親と過ごした記憶は、指輪の話と、その他の断片的な日常だけ。その人は、いなくなってはじめてアシュラフに大切さを知らせた。
何かを失くす事は、悲しい事だ。それが大切なものであればあるほど。だからアシュラフは自分に託された王位継承者の指輪を、肌身離さずつけていた。まるでそれ自身が自分の母親だと思っているかのように――。
一時、気を失っていたようだ。その間に魔神の力でアシュラフは王国の外に連れだされた。自分がどこにいるか分かっていないアシュラフだったが、危険を回避した事だけは本能的に悟っていた。自分を抱える背中がある。後ろの相手に体重を預けているととても楽だ。
「ご主人様、怪我をされていますね」
まだ年若い男の声がする。懸案事項を見つけた者の不安に似た声音ではあったが、不思議と穏やかで、アシュラフの耳に心地よかった。ほう、と息を吐き出すとほんの僅か身体が楽になったような気がする。そっと碧の瞳を開くと、砂色の大地が足元にはなく、よく晴れ渡った空ばかりが目に入った。アシュラフはまだ自分が空の上にいるのを知って、血の気が引きそうになる。
「とりあえず、地上におりてくれ」
誰かにこんな事を頼むような日がくるとは思わなかった。まだ意識の朦朧とするアシュラフは見たくもない上空の景色に、瞳を閉じた。
「かしこまりました、ご主人様」
気がついた時には、アシュラフはごつごつした岩肌に背をおろされていた。人気のない荒野で、少し見回した程度では人工的な建築物など見つからない。王宮からはもとより、ザフラ王国から離れた場所にいるようだ。
ほとんど意識もせず、アシュラフは王家の指輪を握っていた。これまでだってアシュラフはこの指輪を大切に扱っていたが、今やそれ以上に重要なものとなってしまった。取りこぼさないようにと強く、それを握っても力が出ない。今は瞼を上げるのすら億劫だ。魔神は、自分の主人となった者のどんな願いも叶えるのだったか。それならば父も共に連れてきてもらえばよかった。そうだ、今度はそれを命じよう。アシュラフはこわばって動かしにくい唇を開いた。
口を出たのはこんな言葉だった。
「ご主人様って言うの、やめろ。なんか気持ち悪い」
「気持ち悪いって、ひどいですね」
魔神は苦笑したようだった。アシュラフは王族だ、常に周囲から敬称を付けて呼ばれていた。慣れぬ事ではないというのに、訳もなくこの少年には呼ばれたくなかった。魔神である少年の圧倒的なオーラを見せつけられたからだろうか。
「では、何とお呼びすれば?」
「アシュラフ……いや、シュラと呼べ」
「かしこまりました、シュラ様」
何故自分たちはこんなやり取りをしているのだろう。アシュラフは少し前まで死にかけていたというのに。
父王の事、自分の怪我の事、指輪の事、魔神の事、帝国の事。考えるべき事はたくさんある。だが今は、少しだけ眠りたかった。
「お前は、名はあるんだろう」
思い出したように言えば、返事はすぐには返ってこない。不審に思ってアシュラフが瞼を上げようとした時、魔神は言った。
「スィラージュ、ともうします」
その声が嬉しそうだと思ったのは、なんでだろうか。もちろん声に感情は溶けるものだが、アシュラフはもう、ほとんど眠りかけていたのだ――。
カフタン……詰襟の外出着




