10 魔法の泉④
その昔――ある男が地下へと続く穴を見つけた。男は人を殺して嘘をつき逃げている途中だった。しばらく地下に身を隠し、人々が男の事を忘れるまで待っていようと考えた。
男は暗い洞穴の中を進んだ。そのうちに薄明かりのある場へ出た。誰かいるのかと男は身構えたが、そこに人はいなかった。
代わりに人の顔ほどの大きさの炎が浮かんでいた。
――汝、偽りを持たぬ者か?
突然の声に男は震えあがった。誰もいないはずなのに、何かをたずねられたのだ。
――偽りを知らぬ身か?
声は続いた。男は、炎が話しているように思えてきた。だとしても一体何を問われているのかちっとも分からない。
男は炎がしゃべるはずないと思いながら、目が放せなかった。
『そりゃあ、おれは善良な男さ。嘘なんてついた事もない』
言ってから、男は意味のない事をしたと思った。聞こえるはずのない声を聞いて、返事をするなど。人を殺して逃げる身で、気が動転していたのだろう。男は炎を避けて洞穴の先へと急ぐ事にした。
――汝は、偽りを口にした
男は人を殺した後だった。嘘をついた事も一度や二度ではない。今もそうだ。
男の嘘を見抜き、炎は手を伸ばすように広がって男に飛びかかった。男は悲鳴を上げて逃れようとしたが、その炎は男を捕らえて離さず、焼きつくした。
これがカハフ村に伝わる“裁きの場”のはじまりである。
カハフの村の住人なら裁きの場についてよく知っていた。嘘をついたり心にやましい事があればたちどころに炎に焼かれてしまう。これまでに裁きの場に放り込まれ、嘘をついた者や罪を犯した者は死体も残らず焼かれて死んだ。
生き残ったのであれば罪はないとされ、数日後には助け出された。
「……確かに、裁きの場で嘘は通用しない。だがよそ者にまでこの村の規則を適応させるのはいかがなものか」
村の大人の男たちは長ラハマーンの家に集まっていた。他所から来た二人への処置が正しかったのか疑問に思っていたからだ。
「それでも禁忌の泉には、よそ者も近づけてはいけないはず!」
「しかし我々だとて泉を一日中見張り続ける訳にはいかぬ」
「そもそも、泉に近づいてはいけない理由なんて……」
その者が最後の言葉を口にしなくとも、皆分かっていた。責めるように彼を睨む者もいたが、そういう彼も知らない事だ。
その場が沈黙に閉ざされるのも無理はない。アシュラフの指摘通り、禁忌の泉に立ち入ってはいけない理由を、村の長以外は知らされていないのだ。
村人たちは禁忌の泉には見えるところまで行っても近づきはしない。行くなと子供の頃から言われているのを律儀に守っているのだ。ゆえに村人を泉に関する事で咎めた事はない。ただ、泉の事には触れなければそれでよかった。
何故“禁忌”なのか知らなくとも、誰も疑問に思わなかったのだ。少なくともこれまでは。
問題は、今の長であるラハマーンを気に入らぬ若者がいるという事にあった。サンダルは長に反発したいが為に強行なやり方をした、ともいえる。サンダルの言葉が正しい時もあるにはあるが、今回はやりすぎではないか。大人たちの中にはそう考える者もいる。
「日没後だ」
この集いが始まって初めて、ラハマーンが口を開いた。皆の視線が長に集まる。
「日没後にはあの者たちの様子を見に行く」
「そんな、最低でも七日は閉じ込めておくのが決まりでしょう」
サンダルの声は最早、ラハマーンには届かない。
ラハマーンは泉が禁忌とされたいわれを知っている。それ故にラハマーンは村の掟が中身のないものだと気づいていた。とにかく、あの泉には人を近づけさえしなければいいのだ。それを、掟の一つにしてしまい近づくだけで罪を犯した事にするなどと、間違っている。
ラハマーンは彼らに真実を明かすべきか迷っている。人は、長く続けてきた事が否定されるのを嫌う。これまで大切だと考えていた掟に意味はないと告げられて、すんなり受け入れられるはずもない。
村人たちを納得させるのは骨が折れるだろう。ラハマーンは気が遠くなった。
とにかく今は、あのよそ者の二人が無事であればいいと長は思った。
日差しの届かぬ地下は冷えていて肌寒い。
地上への扉を叩いてみても重く閉ざされびくともしない。
右も左も分からない、立っているのかさえ自覚出来ないような暗闇の中で――アシュラフは村の者の言葉が本当なのか訝っていた。
他者を欺く者であれば死体も残らぬ裁きが下るなど、あり得るのだろうか。そんな物騒な場所が存在するなど。
音もなく、明かりが灯された。アシュラフはスィラージュが魔術で何かしたのだと分かった。薄明かりの持ち主であるスィラージュを見ると、見慣れぬ長い三つ編みがアシュラフの目に入る。
「魔術は使えないんじゃなかったか」
スィラージュの手には火のついた吊り下げ式のランプがある。
「これは簡単な魔術ですので。複雑な魔術でなければ使えるみたいです」
女の泉の力がスィラージュに枷を与えている。しかしそれは何もスィラージュにまったく魔術を使わせない訳ではない。細かい制御が必要な魔術を発動させようとすると、その調整が上手くいかず魔術が暴走してしまう。しかしごく簡単な魔術なら制御を失う事なく発動させられると分かった。
ひとまずアシュラフたちは暗闇をさ迷う心配はなくなった。問題はこの地下をどうやったら抜け出せるのかという事だ。
「裁きの場、か……」
「どうします? なんだか私たちをすぐにでも裁こうとする存在は見当たりませんけど」
言葉の響きからは、裁判官のような存在が出てきそうな場所である。しかし洞穴の中はごつごつとした岩があるだけ。当然アシュラフたち以外に生き物の気配はない。
「変なやつに出てきてもらっても嬉しくはないが、ただここで待っているというのは……」
「性に合わない?」
アシュラフの言葉をスィラージュが継いだ。
「そういう事」
この従者も分かってきたじゃないかとアシュラフは笑う。
「先へ進もう」
か細い明かりを持つスィラージュが先導し、彼らは地下に出来た自然の穴を進んだ。足元は都の道のように整備されておらず、隆起した岩にアシュラフは何度もつまずいた。
悪路と暗闇の為、その歩みは遅々としたものだったが、アシュラフは長い道のりに思えた。
先の見えぬ道とはいえ、この地下空間は簡単に行き止まりにたどり着くような狭い穴ではないらしい。アシュラフがそう思った端から、スィラージュが立ち止まる。
「この先、進めないみたいです」
彼らは明かりの少ない暗闇の中、手探りで出口を探した。しかし今来たばかりの道しか通れる場所はなかった。
次の手を考える為にアシュラフが動きを止めると、スィラージュも静かになる。
何とはなしにアシュラフがスィラージュの持つランプを見ると、オレンジの火があたたかく見えた。
「待て、そのランプの火、ふるえてないか?」
ある事に気づいてアシュラフはスィラージュに、ランプを出来るだけ動かさないように命じた。するとランプの火は誰も息を吹きかけないのに揺れだした。
よく見てみると、行き止まりだと思っていた岩の壁から、隙間風が吹いている。
「この壁の向こうに、空洞があるんじゃないのか。しかも風が吹き込むような……」
地上と繋がる道があるかもしれない。薄暗い中、アシュラフはスィラージュと顔を見合わせた。
アシュラフは試しに立ちはだかる岩の壁を殴りつける。びくともしなかったが、小石がいくつかこぼれ落ちる。手応えが全くない訳ではないように思われた。
「ちょっとアシュラフ様なにしてるんですか! そんな事したら手を痛めるに決まってるでしょうが!」
いっそアシュラフよりアシュラフの体をいたわる事の出来る従者は怒り出した。心配というより咎めるような言い方だ。
「いや試しに」
「木槌くらいなら私が出しますからっ。段々この体の使い方も分かってきましたしっ」
いつの間に取り出したのかスィラージュは大きな木槌を握りしめている。
だがおさげ髪の可憐な乙女は細い腕で木槌を持ち上げられないでいる。それを見てアシュラフは実に楽しそうに笑った。
スィラージュの手からするりと木槌を抜き取ると、アシュラフは軽々と木槌を持ち上げた。
「それはありがたいが……君の手を煩わせる訳にはいかないよ、お姫様」
「お、王子……っ?!」
主の冗談めかした言動が珍しい事にも、木槌を奪われた事にも、スィラージュは言及しなくてはならなかったのだが――アシュラフのまとう王の息子らしい雰囲気に圧倒されてしまった。
魔神が我に返った頃にはもう、アシュラフが岩に木槌を叩きつけていた。
「肉体労働、楽しい……!」
実際に使って分かったが、この男の肉体は筋肉量がやはり増えている。普段と勝手が違うとはいえ、強い力の出る両腕に、アシュラフは笑みが止まらなかった。
「シュラ様がよく分からない性格に……っ」
アシュラフがやっぱり男の体のままでいると言い出したらどうしたらいいのか――スィラージュは気が遠くなった。その場合スィラージュも女のままでいた方がいいのだろうか。スィラージュが訳の分からぬ思考の沼に入りかけたところで、アシュラフがあっと声を上げる。
地道に行動していたアシュラフは岩の壁に穴が開きはじめたので一旦手を休めた。やはり空気が入りこんでくる。
それからアシュラフは一気に壁を殴打した。スィラージュも動かせそうな岩をどかして手伝った。
次第に身をよじれば人が一人通れそうな穴が出来あがる。
スィラージュは自分が様子を見ると言って聞かなかった。壁を壊す手伝いがほとんど出来なかったから何かしたかったし、この先に何が潜んでいるかは分からない。暗闇はまだ広がっているのだ。
ランプを掲げ、スィラージュは身をのり出して穴の中を窺う。
一度体を引っ込めて、スィラージュは全身を穴の奥へと押し込んだ。
改めてランプで辺りの様子を見て、スィラージュは一歩と足を進めた。
「こ、これは……!」
そして――その先に見えたものに目を見張った。




