1 アシュラフ
アラビアンナイト風の世界が書きたくてはじめました。
しばしおつきあいいただければ幸いです。
それは、王宮の宝物殿ではなく、城壁近くの物置の中にあった。
細やかな象嵌のある黄銅製の水差しはどこかくすんで見えた。普段は水晶製の水差しを使っているためか、その子どもの目には取るに足らないものにしか見えず、記憶にも残らないはずだった。
刹那、その黄銅が色を変えるまでは。
鈍い色の銅の水差しが、一瞬青白くなった。光を反射したのではなく、自ら光を放っていたのだ。だがそれは錯覚だと思うくらい短い間の事で、元の鈍色に戻ってしまっていた。
「何だ……今の」
子どもは瞬きを繰り返したが、その青白い光は二度と見られなかった。光る水差し――幼い子どもが心惹かれないはずがなかったが、かえって容易に触れてはいけないようにも感じられた。
小さな高台付きの細身の水差し。古く、埃まみれのただの日用品。水差しに刻まれた複雑に絡み合う蔓草の中に、鳥のような獅子ような、不思議な獣が刻まれていた。獣が、こちらを見ている。そんなはずはない。水差しはただの道具で生き物のように人を見つめるはずがない。
おかしな焦燥がこみあげてきて、子どもは物置を後にする事にした。扉を閉ざして、この日の事は忘れよう。
最後に一度だけ、水差しに一瞥をくれる。途端に扉を閉めてはいけないような、妙な胸騒ぎがした。このままでは水差しから目が離せなくなる――……、子どもはあわてて目を逸らした。
閉ざされた扉の中、黄銅の水差しが光り輝く事はなかった。
子どもはいずれ、物置の水差しを忘れてしまうだろう。
何事もなかったものとして、日常は流れる。
月日は、流転する。
***
謁見の間とは国内外の重要人物を招く場。王国の贅を見せつけるのにもっとも適した場所だ。幾何学文様が埋め込まれた大理石の床、高い天井を支える柱すら洗練され、天井も壁も複雑な紋様で埋め尽くされている。ザフラ王は金襴の布地を張った黄金の椅子に座っていた。王は自身の服装は簡素なものを好んだが、他国の使者を前にしているためいくらか装飾品も身に着けており、象牙色のターバンの上でエメラルドの大きな飾りが輝いていた。
「ならぬ。我が国ザフラはあくまで永世中立を貫く」
響くは低い声ながら、威厳ある者の厳正な王者の声。ザフラ王アーディルは眉間のしわを深めて帝国の使者を見つめている。その碧の瞳には決然たる意志が見えた。玉座から離れた場所に立つアシュラフは両腕を組みなおして、ガンナーム帝国の使者を眺める。
使者たちは全員、ガンナームの人間が好む赤を基調とする服をしていた。とても目立つ色だが、いやしからぬ身なりをしている。代表者は体格のいい男で、背後に控えさせている三人の男たち同様床に額づいていた。敵対国ではないはずの帝国の者たちだが、アシュラフには油断ならぬ相手にしか見えない。
時はハイダル王国の時代である。
ハイダルの覇権を許し、侵略され吸収される国々の中で唯一ハイダル王国に抵抗出来るのがガンナーム帝国であり、そのどちらにもつかないのがアシュラフの国ザフラだ。ハイダルの王は老いて、優れた後継者は居ないという。その隙をつくにはハイダルとガンナームをまたぐザフラを味方につける事が必要となる。それぐらい五歳の子どもでも分かる理屈だ。
そう、戦争が始まろうとしていた。老王崩御を狙って、ガンナーム帝国が大国に攻め込む準備をしているのは民の目にも明らかだった。
両隣りの大国と比べなくとも、ザフラは小さな国だ。東のハイダル、西のガンナームという世界を二分する大国に挟まれているザフラは、いつの世も侵略の憂いに悩まされていた。
しかしながらザフラは地理的条件に恵まれている、難攻不落の城塞都市だ。民が噂するザフラ王家を守る魔神の話は眉唾ものだが、小国が中立を貫いてこられたのには様々な原因がある。切り立つ崖の上のオアシス都市、それがザフラ王国だ。天然の要塞を持つためにまず攻められにくい。また、小国ながらいくらか資源にも恵まれ、珍しい鉱物が採れる事から交易にも困らなかった。加えて先代ハイダル王から不可侵を約束されており、それが他国への牽制となっていた。ザフラは大国ハイダルに守られている。現王へと時代が変わってその結びつきは揺らいでいるものの、大国ハイダルとのつながりがある限りは帝国も手出しは出来ない。
そう、手出しは出来ないはずだったのだが、落日のハイダルを前にしてガンナームは欲を出した。その結果、三度にわたる帝国の甘い誘い。ザフラ王は諾としなかったが、戦争が迫っているのには彼の王も苦渋を浮かべていた。
ザフラ王がどう出るのか。いずれその玉座を継ぐ身であるアシュラフは、父王の背を彼と同じ碧玉の瞳でもって見つめていた。
「ご理解下さい。我が主、慈悲深き神の慈愛を備え持つ帝王はザフラ王国の行く末を案じているだけなので御座います」
帝国の使者はあくまで義務的ではあるが、有無を言わせぬ節がある。
「我がザフラの事は、ザフラが片付けよう。取るに足らぬ小さな国の事など放っておいてもらって構わない」
「いいえ。そうは参りませぬ。現在ザフラ王国はとても危うい位置にいらっしゃいます。さながら逆さ立ちした曲芸師が足指に挟む一振りの剣の上の羽の如く。ハイダルの老王が今をもってザフラを顧みないのは、彼の王が即位なさってから。今一度玉座に座す御方が変わりでもすれば、ザフラ王国は振り落とされてしまうでしょう――剣の上から、あっという間に」
他の三人はまだ床に額をつけているというのに、代表の男は顔を上げていた。いけ好かない顔だとアシュラフは決め込む。父王に脅しをかけるような人間はみな敵だと思う事が出来るこの親思いにしてみれば当然の事だったが、あまりに睨みが過ぎたのだろう、ガンナームの使者はアシュラフを向いた。視線だけでもそれは不愉快な事で、アシュラフが一度でも重なった視線を拭い去るように逸らすと、その寸前に使者は口角を上げていた。気味の悪い笑みをする男だ。アシュラフはもう一度彼を見たが、その時にはもう彼はザフラ王に礼を取り交渉の場に戻っていた。
(食えんやつだ……)
ろくでもない人間に違いないと、アシュラフは舌打ちを我慢した。
「如何なるものがアーディル国王様の御心を動かすのか、わたくしどもは献上品と土地の譲渡、安寧の御約束以外には存じ上げませぬ。我が帝国の帝王はザフラの望まれるものは全て差し上げる所存に御座います。こうして帝王の懐刀であるわたくしが頭を下げているのは我が主がアーディル様に頭を垂れているの変わりはありません。何卒、お考えを」
ガンナーム帝国に属せば望むものは全て与える、さもなくばその安寧を打ち壊すぞ。帝国の使者はそう言っている。“安寧の約束”とは裏を返せば帝国に従わなければ攻め込むというだけだ。アシュラフは中立を重んじる自国の教えを尊ぶが、侵略されそうな危うい立ち位置のザフラを知っていた。帝国に組するか、逆らうか。いくら天然要塞を誇るとはいえ小国の力などたかが知れている。小さな国では外交がものをいう。三度も断ってきた帝国からの提案だが、今回ばかりは正念場が来ていた。
当然ザフラ王もそれを理解しているはずだ。だが彼は中立の姿勢を崩すつもりはないようだった。
「ハイダルにもガンナームにも属さぬ。これを証明するには何が必要だろうか」
「いいえ。我が帝国の庇護下に属してもらいます。これもザフラのため。アーディル様が民草の血を無駄に流すのをお好みだとは思えません。……分かっていただけると思うのですが」
(いいから言う事を聞け、攻め込むぞ、か……。分かりやすいな)
脳内で使者の言葉をアシュラフなりの解釈に直す。内容は間違ってはいない。それにしても帝国の男は言葉を選ばなくなってきたではないか。ほとんど脅しの域に達している。
アシュラフは組んだ手を下ろして、左手で腰に吊るした剣の柄を握る。武力でものをいわせるのは得意だ。だがそれも相手が少人数であれば可能な事。大軍をもって戦をしかけられたら、数人倒しても敵はわんさと沸いてくる。ここで必要なのは武力ではない。交渉の力。自分の言い分を相手の主張との兼ね合いで貫き通す事はまだアシュラフの叶わぬところ。
自分の能力、地位、成すべき事。考えてみればアシュラフはまだまだ未熟だ。だが自分だったらどうするだろう。どうしたらいいだろう。出来うる限り自国に有利な条件を出させて帝国の傘下に入る。そんな事簡単には出来ないだろうが、最善策であろうそれについて思いめぐらす。
ザフラ王アーディルは黙ったままだ。彼の考えは表情に出にくい。彼が今何を考え、何に葛藤しているかなど推測出来ても知る術はない。元来寡黙で泰然とした父王ではあったが、王妃を亡くしてからはそれが極まった。アシュラフは幼い頃に母を亡くしている。彼女がここに居たら、何か状況が変わっていたのだろうか。考えても詮無い事だが、父王が頑なになったのは王妃の死がきっかけだと思えるのだ。あの王の碧の瞳は、未だ妻の欠落にうちひしがれて翳るのだから。
「ザフラ国王、アーディル様」
促すような帝国の使者の声は、平坦で高圧的だ。代表の男が薄っすらと笑んでいるように見えるのは、アシュラフの見間違いだろうか。腹にある野心が見え隠れする男の目には、ザフラ国王しか映っていない。彼は文官にしては体格のいい男だ。改めて相貌を眺めれば、顎を覆う髭や老獪そうな瞳に反してまだ若く見える。目元にしわを作って、強い眼光で王に跪く男。
アシュラフは父王の眼前に回りこんでその眼差しを確認したい気持ちにかられた。ザフラ王は、あの一筋縄ではいかないだろう使者を前にしてどんな顔をしているのか。
「どうか御英断を」
一言、それきり使者は言葉をつむぐ事なく礼を取る。応じる声は、ない。静まり返った謁見の間は息苦しいほどだった。父王の真意が量れないアシュラフは小さく奥歯を噛む。
心許ない立場にある小国は、どのようにしたら正解にたどり着けるのだろう。思ってしまえば、アシュラフの脳裏から亡き王妃を閉め出すのは難しかった。まるで正しい答えを持っているのは自分の母親だとでもいうように、頭の中からしめ出す事が出来ない。
衣擦れさえも大きな音になってしまうように感じられる静寂。とても長い時間沈黙を保っていたように思えるザフラ王が、やっと重い口を開いた。
「幾度尋ねられても応える事は出来ん。我が国がいずれの国に属する事は世の均衡を崩す」
「……宜しいので御座いますか」
言葉の裏の鞘当ては確かにアシュラフにも見えていた。譲歩の隙もない父王の答えに、深憂が胸中を踊る。
「四度はありませぬよ」
「くどい」
吐き捨てるように言い、ザフラ王は玉座から腰を上げる。
「何度来ても同じだ。私をどうにかしたいのであれば、ハイダルと和議でも結ぶのだな。もう下がれ」
頑なな態度。しかしこの時、ザフラ王の心は揺らいでいた。三度目の帝国の申し入れに、これ以上ごねる事は出来ぬと彼も知っていた。だがザフラを誰かに渡す事は出来ないのだ。国王である自身の言葉を翻すような事も出来ない。が、もう一度使者に問われていたら「時間をくれ」と言っている自分の姿が容易に思い描ける。玉座を離れようとする王の足が鈍ったのもそんな迷いのためだ。
こちらを向いた父王の顔に葛藤を見出せなかったアシュラフだが、常と変わらぬ造作の面を見られて、安堵していた。子どもというものは不思議なもので、自身の親が健在しているだけで安心できるのはいくつになっても変わらない。無意識ではあったが、アシュラフは父を安心させようと微笑もうとしていた。父王の表情が驚きに歪み、体を傾がせるまでは。
アーディルの体が床にたどり着くまで、ひどくゆっくりした時間が流れた。ザフラ王の昏倒によって、王の背後に隠れていた男の姿が露出される。ついさっきまで、その男こそ床にひれ伏し、王こそが二本の足で立っていたというのに。今はまるっきり立場が逆転している。
背を向けた相手を斬りつけるという非道を行い、王に血を流させた男。その赤いターバンの色さえ王の血を吸った色に見えた。
帝国の使者。ガンナーム帝国の人間。手には湾曲した剣があり、彼がザフラ王を斬りつけたのは弁明の出来ぬ真実であった。
「父上!」
かろうじて膝をついた父王に、アシュラフは近づく事を許されなかった。王は片手を振り払いアシュラフに命じた。
「逃げろアシュラフ!」
非常時にアシュラフが取るべき行動は決まっている。王位継承者の持ち物であるザフラ王家に代々伝わる指輪を持って、身の危険のないところまで移動する。王家の正統な玉座を他人に渡さないためだ。指輪は今、アシュラフの首に巻いた鎖にぶらさがっている。アシュラフには守らなければならないものがある。ザフラの王位継承者である事を証明する指輪を、誰の手にも渡さないという任務がある。頭では分かっているが、体が動いてくれない。
何だこれは。
訳が分からない。
理解ができない。
アシュラフの頭は混乱するどころか、動きを止めていた。
手負いの父が剣を手に帝国の使者に向き合っている。そうだ、アシュラフも父に手を貸さなければ。
「逃げろと言っているだろうが!!」
平素は穏やかなはずの父王の怒号が聞こえる。帝国の使者はそれすら愉快そうに口を三日月の形にする。
「そうはいかん。ザフラ王は病気のために死んでしまった。後継者であるアシュラフはまだ年若く未熟であり――代わりに摂政をたてなければならない。そう、例えばガンナームの王族を一人」
帝国の男は謳うように偽りの逸話を述べる。ガンナーム帝国の目論見を。
男の告げる未来を想像して、その怖気の立つ様にアシュラフはやっと我に返った。謁見の間から出なければいけない。男はアシュラフの逃亡をいち早く察知し仲間に顎で示す。
「アシュラフは殺すな。傀儡がなくなっては困る」
使者の物言いは、先ほど父王にかしずいていた時とうって変わって冷酷だった。アシュラフを殺さないという言葉すら信じられそうにない。
背後に気配を感じて、アシュラフは身を翻したものの横っ腹に太刀を受けた。勝利に笑んだ男の鼻を明かすは簡単だった。アシュラフは抜き放った自身の剣で男を斬りつけ床を蹴る。去り際に見た男の顔は、反撃されるとは思ってもいなかった表情だったが、相手の傷は浅かったはずだ。
追っ手はまだ居る。いつの間に忍び込んだのか、帝国の人間は三人どころの数ではなく、十は超える数に増えていた。
帝国人が好む赤が、アシュラフの王宮を覆っていく。
背筋が冷えた。一瞬見えたあの男は、最初に見た笑みよりももっと歪んだ顔でアシュラフを見ていた。本能的な恐怖がアシュラフの体を動かす。腹の傷がうるさく主張してくる中、廊下に飛び出し逃げ出した。
後先を考えている暇はない。帝国の男たちがわらわらと現われるし、アシュラフには時間が足りなかった。とにかく足の動くままに任せて走る。生まれ育った家である王宮内、どの先に何があるかなどよく知っているはずだった。というのに緊急事態という事実がアシュラフから冷静さを奪っていた。
足場がない、と気がついた時にはもう空中に足を伸ばしていた。自分の足が、何にもくっつかない事態に頭が冷えてゆく。
落ちている。
つましい民の家ならば四階建てほどの高さの露台から飛び出して、アシュラフは落下していた。いくら敵の手から逃れるためとはいえ、これでは身がもたない。
帝国の者たちがアシュラフが飛び降りたと口々に叫び慌てているのがおかしかった。下に回り確保しろという声も聞こえる。彼らの望みは叶いそうだ。この高さから落ちてさっきの傷だ、普通ならしばらくは起き上がれない。
だが、アシュラフはそう簡単に運命とやらに従ってやるつもりはなかった。
アシュラフが飛び降りた先は――訂正、墜落した先は、地面の上。途中しげっていたナツメヤシの木が衝撃をわずかに吸収してくれたが、それだけたっだ。腹の傷が広がった事を告げるように血を滴らせる。意識が遠のきそうだ。重い頭を持ち上げるのがとひどく億劫だ。地面に打ち付けてあちこち痛む体を無理矢理立ち上がらせると、アシュラフは自分が物置の前に居る事に気がついた。
帝国の使者の声が聞こえ、アシュラフは咄嗟にその物置の中に飛び込んだ。扉を閉めてから、血の滴りが自分の居場所を知らせてしまう事に思い至り、消しておくんだったと舌打ちをする。そんな事は一時しのぎにしかならないだろうが。
せめてこの血を止める手立てはないものかと、暗い物置の中に血どめ道具を求め進む。
騒がしい声が近づいてくる。時間をさほど与えなくとも彼らはアシュラフを見つけるだろう。せめて、墜落の際に見失ってしまった剣の代わりになるものはないか。荒い息で、目を凝らす。
「こっちだ、この小屋の中だ!」
追っ手の声に、アシュラフは思わず顔を背後に向ける。
巨大な音をたてるのが目的ではと思うほどに大きく、扉が叩かれる。閂が一つかけられているだけだ、簡単に扉は開いてしまうだろう。アシュラフは焦った。武器は見当たらず、このまま生け捕りにされてしまうのは時間の問題だ。
「くそっ、くそ……!」
王家の人間が使うにはあまりに汚い言葉がアシュラフの口からいくつも飛び出した。何故こんな事に。そもそも父アーディルは無事なのか、何故安否を確認せずに飛び出したのかと自分に憤りもした。
一際大きな音をたて、物置の扉は破壊される。暗闇に慣れ始めていた瞳に、日差しが飛び込んでくる。
「将軍、居ました」
アシュラフは後ずさる。狭い物置は二歩下がればすぐに壁にぶつかるというのに、そうする事しか出来なかった。あまりに唐突な出来事の全てが、アシュラフから判断力や勇敢さを奪っていた。
逆光を背に、男が一人物置に入ってくる。あの男だ。顔が見えなくともアシュラフには分かった。ガンナーム帝国の使者、その代表。自らを帝王の懐刀と呼んでいた男。腹に一物ある笑みを浮かべる人物。
「それほどの傷で、よく動く」
台詞は感心しているかのようなものだったが、どこか興味がなさそうな声音はアシュラフ個人を見ているのではなく、侵略すべき国の人間を見ているだけのようだ。事実そうなのだろう、男にとってアシュラフなど取るに足らぬ道具のひとつなのだ。
手でおさえた傷口から血が溢れているのがよく分かる。アシュラフの頭は白濁した霧の中に居るように、ぼんやりとしている。血が足りないのだ。
「王家の指輪を渡してもらおうか。命までとりはしない」
手の平を見せて差し出してくる交換条件は、悪魔の囁きにも似ていた。男の手を取ればきっと楽になるだろう。代わりに帝国への忠誠を誓わされるとしても、体の痛みは正直だ。思わずアシュラフの手が持ちあがりそうになる。
あれを取れば、楽になるのだ。
世界が輪郭を失ってゆく中で、ゆっくりとアシュラフは体を動かした。背中にあたる木箱が堅いのも気にならないくらい、傷の痛みがアシュラフからすべてを奪っていく。膝がゆらぐ。姿勢を崩したアシュラフは、倒れこむように壁に身を寄せた。その拍子に木箱に積まれた日用品が転がってゆく。こぼれていくのは使われなくなった燭台や食器。今のアシュラフの頭の中と同じように、ぐちゃぐちゃになっていた。瞳に入ってきたものに、記憶が小さく何かを告げる。
いつか見た、水差し。黄銅製の細身の水差し。
いつか聞いた、ザフラの噂。
これまでに重ならなかった二つが、突然アシュラフの頭の中で合致する。
幼い頃一度見た――たった刹那、青白い光を放った古い水差し。
すぐそこまで迫る男が、アシュラフの名を呼んでいる。アシュラフ自身突飛な考えだと思いつつ口の端を上げる。そんなアシュラフの異変に、男が怪訝そうにしたのが分かる。ここで何も起こらなかったら、自分はおかしな人間と見なされるのだろうか。ばかばかしさがこみ上げてくる。
アシュラフは手を伸ばした。黄銅の水差しに向かって。
――ぬるりと触れた手には、赤い液体が付着していた。
おや、と彼は思った。これは誰だろう。
触れた手は、掠っただけ。その指は血でぬれていた。
ぬるい体温が伝わったような気がした。
「……頼む……居るんなら、出てきてくれ」
息をするのも大変そうに、その手の持ち主は言った。
「居るんだろう……?」
もしかしたら、声の主は死んでしまうのかもしれない。
そう思ったら自然と気持ちが持ち上がってきた。
こんなつらそうな声は聞きたくない。
「……水差しの、魔神」
その声に確信はこもってなかった。声の主は自分がしている事が何か分かっていないのかもしれない。
ただ、その手の持ち主が、何を望んでいるのか――スィラージュは知りたくなった。